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ゴスペルハウスコミュの「あなたが救われるための、本当の条件(父の日)」2023.06.18

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ゴスペルハウスメッセージ 父の日2023
「あなたが救われるための、本当の条件(父の日メッセージ)」ルカ15:11-24

11 イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。
12 弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。
13 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。
14 何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。
15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。
16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。
17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。

父の日、おめでとうございます。
今日は、ゴスペルハウス礼拝がないので、メールとSNSを使って、父の日メッセージをお届けします。

ゴスペルハウスの父の日礼拝では、何年も、この「放蕩息子と父の愛」の箇所からメッセージしています。
ルカ第15章は、3つのたとえ話で構成されています。
「見失った一匹の羊」「失われた一枚の銀貨」そして、「放蕩息子(父の愛の執念)」です。
ぜひ、3つとも、お読みいただきたいと思います。

迷子になった一匹の羊は、自力で戻って来ることができません。
羊飼いが捜して見つけて、連れて帰ることが必要です。
失われた一枚の銀貨も、もちろん、自力では戻れません。
人が捜して見つけて、戻すことが必要です。
そして、このたとえばなしの弟(放蕩息子)も、実は、自力で戻って来てはいないのです。

たしかに、彼は父のもとへ、父の家へ、ふるさとへ、向かいました。
しかし、まだ家まで遠いところまでしか、自分の力では戻ることができなかったのです。
「ところが、まだ家までは遠かったのに」(20節)と、書かれている通りなのです。
放蕩息子の帰還という名画もありますが、私は、放蕩息子の帰還未遂と考えています。

「そこまで来たんだから、戻ったのと同じじゃないか」と言う人もいるかも知れません。
しかし、そうではありません。
そこには歴然とした、大きな差があるのです。

今から約25年前、私が生きるエネルギーを失ってしまい、海外へ逃避・逃亡する直前のことです。
実は、海外に逃げる前に、私は、疎遠になっていた実家に車を走らせていました。
ところが、この交差点を右に曲がれば到着というところで、私はハンドルが切れなくなりました。
あとは田んぼの中を500メートル行けば、父母のいる実家に到着するのです。
ハンドルが切れなくなったのは、車の故障ではありません。
私に、ハンドルを切る勇気、ハンドルを切る心のエネルギーがなかったのです。

私は、車から降りました。
母が、ベランダで布団を干しているのが見えました。
きっと、父も家の中にいたことでしょう。
しかし、当然のことですが、二人とも私に気がつくことはありませんでした。
疎遠になっていた息子が、そんな時間帯に、そんな場所にいるなんて、想像できませんから。
そして、私は車に戻り、Uターンしたのです。

家の近く、家の方まで行くことと、家に戻ることには、大きな差があるのです。
家の方まで行くだけなのは、中途半端な姿なのです。
私も、放蕩息子も、中途半端な、みっともない姿だったのです。
そして、多くの場合、家にいる人は、そこに人がいることに、気がつくことはありません。
私の父母もそうでした。
それが、当たり前のことなのです。

しかし、このたとえ話の父親は、たとえで表されている神様は、それを見逃さないのです。
だれ一人として、見逃さないのです。
それは、失うため、滅ぼすため、罰するためではなく、救い、赦し、愛するためのです。

そして、父親は放蕩息子のもとに走りました。
それは、覚悟を必要とする行動、非常識とも言える行動でした。
現代でも、街中をスーツや和服で走っている大人は少ないでしょう。
もしいたとすれば、何か緊急事態と考えられます。
大人は、普段の生活では走らないのです。

しかし、父親は走りました。
非難を受けることも、無理解も、世間体の悪さも、健康や安全面のリスクも、すべてを負う覚悟で走ったのです。
それは、愛のゆえです。
そこには、中途半端な姿はありません。
息子の中途半端さに対して、父親は完全な覚悟と行動を、リスクや損失を負ってまで貫くのです。
ここで、愛する息子を、失うわけにはいかないのです。

この姿は、イエスさまの姿そのものです。
私のために、あなたのために、愛と覚悟をもって、痛みや苦しみを伴って、救いを成就してくれたのです。
父なる神様の愛を、あなたのための愛を、成就してくれたのです。

今日のメッセージのテーマは、「あなたが救われるための、本当の条件」です。
それは、あなたの悔い改めが、本心からの立派なものであるということではありません。
あなたの立ち返りが、完全であることでもありません。
あなたの信仰が、岩のように堅いからでもありません。

あなたの中途半端でみっともない悔い改めを、あなたの不十分な信仰を、そのまま受け入れて、走り寄り、抱きしめてくれる神様の愛が、それを成就するためのイエスさまの十字架が、「あなたが救われるための、本当の条件」なのです。
救いは、つかみ取るものではありません。
あなたが、神様につかみ取られることによって、救いがあなたのものになるのです。

父の日、この父なる神様の大きな愛を、しっかりと味わいましょう。


【参照聖書箇所】
ルカ15:1-10
1 さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、
6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
8 また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。
9 見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

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