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風力発電機の丘コミュの自然エネルギーに加速する欧州

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自然エネルギーに加速する欧州〜その源流 ─北欧の大胆なエネルギー政策の転換─

●選択肢なき総選挙
 もはや旧聞だが、過日の総選挙には、いろいろな疑問を感じた。まず、小選挙区では選びたい候補者が見あたらない。選択肢がないのである。それどころか、2大政党制というフィクションの中に、多様な争点や価値観が埋もれてしまったことこそが重大な問題であった。この連載のテーマであるエネルギー問題は、まさにその「埋もれた争点」の典型である。両党のマニフェストは、日本のエネルギー政策が直面している最大の問題である原子力政策、とりわけ核燃料サイクルの問題を避けている。
 とくに自民党を中心とする与党は、今年10月にエネルギー基本計画を閣議決定し、その中で核燃料サイクルの推進を明記しているのだから、今後10兆円を越える負担をもたらすと試算されている六ヶ所村再処理工場の運転開始や、その核燃料サイクルに伴う新たな負担や税の導入、電力自由化における原子力の優遇と構造(発送電)分離を否定していることを明記する責任がある。政治的な争点になっていないと言えばそれまでだが、今後も核燃料サイクル路線を続けるかどうか、より具体的かつ直面する問題では、六ヶ所村再処理工場でアクティブ運転にはいるかどうかは、費用面でも数十兆円規模の問題であり、エネルギー政策としては取り返しのつかない選択になることを考えれば、政治的な争点としない両党の見識の方こそが問われる。
 穿ってみれば、政治的な争点とすることを避けたとしか思えない。「新エネルギー」や「原子力の安全強化」などのきれい事だけを前面に出し、やっかいな問題は争点にしないことが両党の「党益」に叶っている。電力会社から送り出した議員や、原発立地県の族議員がエネルギー政策を守旧する自民党は、あらかじめ争点を避けることで、エネルギー基本計画を粛々と遂行することができる。対する民主党も、党内のエネルギー政策を電力総連などの「エネルギー守旧派」に支配されているという党内事情があるために、エネルギー基本計画に添って原子力の優遇や核燃料サイクルへの国の支援を行うことは自民党の既得権益層と「党益」が一致している。そもそもエネルギー政策基本法そのものが、「原子力国策化」という鎧を隠しながら国会での論戦を巧妙に避け、両党の合作で成立した「詐欺的な法律」である。その上、今回の総選挙でも2大政党のマニフェストがいずれも核燃料サイクルの問題を避けているのであるから、これはもう「詐欺的なマニフェスト」と断じざるをえない。
 こうした「詐欺的なマニフェスト」を生み出してしまう2大政党制への幻想は、結局、イギリスとアメリカという典型的なアングロサクソン国家が「進んだ国」であると考える、一部知識人の植民地的感性の問題であるように思える。アングロサクソン的な「白黒をつける」という発想は、いかにも20世紀的であるし、日本的な政治文化にも合わないのではないか。多様な価値観を汲み上げながら政治的な規範性を高めていく、欧州大陸的・北欧的な政治システムの方向への成熟が日本でも必要ではないだろうか。

●欧州の自然エネルギー政治
 ところで欧州に目を転じれば、エネルギー政策の選択は、地球温暖化問題とも相俟って、経済社会の基本構造を左右する、極めて大きな政治的な関心事となっている。ドイツでは、現在の与党である社民党・緑の党が1998年に政権を取ったときには、「脱原発と自然エネルギーシフト」の政策合意が最大の関心の的であったし、去る11月14日にはその政権合意に添った原発閉鎖の第1号となるシュターデ原発が停止されている。また英国でも、人気にかげりが見えるとはいえ、「第3の道」を標榜して登場したブレア政権の売りの一つが自然エネルギーであり、1998年には「新しい自然エネルギー」を公表し、今年2月には2020年までに自然エネルギー供給を20%へと拡大し、2050年には二酸化炭素を60%も削減する野心的な目標や狙いを盛り込んだエネルギー白書を発表している。
 そうした中で、昨年8〜9月に開催されたヨハネスブルグ・サミット(WSSD)でも、「自然エネルギー目標値」が最大の争点となった。サミットでは、アメリカや日本、OPECが強く反対したために合意は決裂したが、これに対して欧州連合やブラジル、インドなどが「自然エネルギーの拡大のために志を同じくする国々の連合」を立ち上げ、広く参加を呼び掛けた。また、ドイツのシュレーダー首相は、来年6月にドイツ・ボンで「自然エネルギー2004」という国際会議を開催することを宣言し、実質的にその新しい「連合」のための最初のホスト国となることを約束した。このように、今や、国際社会による自然エネルギーへの関心がうねりのように盛り上がりつつあり、「自然エネルギー国際政治」が始まりつつある。その中心にあるのが欧州であり、とくにドイツと北欧が牽引しているのである。
 欧州連合15カ国の政治力学を見ると、政治的な大国は、言うまでもなくドイツとフランス、そしてイギリスである。これら3カ国の思惑がさまざまにぶつかり合って、欧州連合の政治の大きな流れが定まっていくのだが、15カ国が対等な権利を持つ欧州連合では、小国の役割も見逃せない。スウェーデン出身のヴァルストロム欧州委員会環境担当委員が、地球温暖化の国際交渉やヨハネスブルグサミットでもつねに最前線で大活躍しているし、2001年のCOP6再開会合において、米国ブッシュ政権が離脱を表明して存亡の危機にあった京都議定書を、当時欧州連合で議長国を務めていたオランダのプロンク環境大臣が「救った」姿を覚えておられる方も多いだろう。とくに1994年以降、スウェーデン、フィンランド、オーストリアが欧州連合に新たに加わることで、それ以前はドイツ、オランダ、デンマークの3カ国に過ぎなかった「環境ブロック」が6カ国に拡大し、欧州連合の環境政策やエネルギー政策に影響を及ぼす効果が大きくなったのである。
 また、北欧での先行的な経験がドイツのような大国での実施を促し、国際社会への影響力が増幅するという効果も見られる。脱原発を巡る政治決定や環境税の導入、そして自然エルギーの導入に関しては、明らかにこのような北欧での経験や知見の移転や相互作用を見ることができる。

●第4の波
 さて、今日盛り上がっている自然エネルギーへの関心は、大きく言えば「第4の波」にあたる。
 第1の波は、1970年代初頭からの原子力論争である。当時は、1972年のストックホルム人間環境会議に象徴されるように、世界的に環境問題への関心が高まっていた。このときの環境問題への高揚は、1962年のレイチェル・カーソンの「沈黙の春」あたりを起源とする「新しい環境主義」と呼ばれ、対抗的政治文化と呼ばれる思潮と重なって、社会や文明の根源的な問い直しを伴うものであった。後述するデンマークの例に見られるように、とくに1973年の第1次石油ショックを契機として、政府が進めようとした原子力開発への批判が社会的に大きな声となっていった。このとき、「政府の原発」に対抗する象徴が「民衆の自然エネルギー」であったのだが、当時はその技術が実用化段階にはほど遠く、まだユートピア的な段階に留まっていたといえよう。
 第2の波は、1970年代後半から80年代前半にかけての石油代替エネルギーへの関心である。1970年代の2度の石油ショックを経て、政府の関心は石油の代替エネルギーに向かっていった。日本のように原子力を中心的なオプションに据えていた国と、北欧のように原子力というオプションが消えた国とでは、政策の重心に違いはあるものの、政府が石油代替エネルギーの目的で自然エネルギーの研究開発に力を入れたことは共通していた。
 第3の波は、1980年代後半から急速に盛り上がった地球温暖化問題への懸念である。さまざまな自然エネルギーへの取り組みも行われたが、とくに「自然エネルギー電力の買取り」などの市場を活用した新しい普及制度が発展したことと、地域レベルでの取り組みが特筆される。この90年代を通して、さまざまな成功事例が誕生した。
 そして今日の第4の波である。ドイツや北欧で自然エネルギーの普及が成功を収めた経験を背景に、欧州連合では、域内での自然エネルギーによる供給力を大幅に拡大できるという見通しから、地球温暖化などの環境保全を筆頭に、エネルギーセキュリティの向上、産業・雇用の拡大、そして地域開発という4つの側面から、自然エネルギーに大きな役割を期待している。

●原子力論争がコミュニティ風車を生み出したデンマーク
 デンマークでは、1973年の石油ショックの直後に、電力会社が全土にわたる15基の原発の建設計画を公表し、これが社会を2分する原子力論争の始まりとなった。原発を進める電力会社や政府に対抗して、翌年には「OOA」(原子力情報組織)という全国規模の環境NGOの組織が発足し、折からの新環境主義の盛り上がりを背景にして、コペンハーゲン大学やデンマーク工科大学の教授など知識人もこれに積極的に協力した。OOAは、いきなり原発への反対運動を展開するのではなく、当初は「エネルギー政策を議会で決定する権利」を掲げて、3年間のモラトリアムを勝ち取ることに成功したのである。モラトリアムによって、政府は、中立な立場から国民に対して情報提供を行うよう要求されるとともに、議会に対してはエネルギー計画を提出した。これに対してOOAは、対抗的なエネルギーシナリオを作成し、メディアなどを通じて社会的な議論を喚起するとともに、地域でのエネルギー問題への関心を高めるために、15カ所の原発候補地に「エネルギー情報センター」も設けた。その後、首都コペンハーゲンの対岸に、スウェーデンがバルセベック原発を建設したことが大規模な原発反対デモを引き起こし、1979年には米国スリーマイル島原発での危機的な事故によって、デンマークにおける原子力の命運は、ほぼ尽きたといえるだろう。ただし、政府が公式に原子力をエネルギーオプションから放棄するのは1985年になる。
 その間に、風力発電は、原子力への対抗の象徴になった。デンマークには、フォルケホイスコーレ(民衆高等学校)と呼ばれる生涯教育機関が全国に約100程度広がっている。フォルケホイスコーレは、作曲家や詩人として著名なグルンドビーが提唱し、約150年前に民主化運動の一部として始めたもので、1960年代からの対抗的な政治文化を受け止め、さまざまな試行がなされたが、その多くが地域における原子力批判の拠点となった。中でも、ユトランド半島西部のトヴィン(Tvind)フォルケホイスコーレでは、1978年に高さ53メートルにも及ぶ当時世界最大の風力発電を自らの手で建設したのだが、この風車は、その大きさだけでなく、専門家に頼らず自ら建設したことによって、建設前から、原子力論争の中でシンボルとなった。
 そして、1970年代終わりには、今日の現代風車に連なる試みが始まっている。デンマークにおける発電風車の開発は、19世紀末に、フォルケホイスコーレの教師ポール・ラ・クール(Poul la Cour)に始まり、第二次世界大戦中に石油と石炭の欠乏に苦しんだデンマークでは、一キロワット程度の小型風車が千基以上普及していた。その後、風力発電への関心は急速に薄れていったが、原発反対運動を通して風力発電への関心が再び高まる中で、クリスチァン・リーサヤーが22キロワットの風力発電機をつくり、電力会社と交渉して系統連系を開始した。1978年春までに、30基を越えるリーサヤー型の風力発電がデンマーク全土に拡がり、同年にはデンマーク風力発電所有者協会(DV)が設立された。また、1980年に、オーフス近郊で初めての風力協同組合が設立された。これらのリーサヤー型の風力発電、デンマーク風力発電所有者協会、そして風力協同組合が、その後のデンマークにおける風力発電発展の原型となった。
 DVと電力会社、そして政府の3者が1984年に締結した3者協定は、風力発電からの電気を電気料金の85%で購入することを定めたもので、デンマークでの順調な風力協同組合の成長をもたらし、これがドイツに「輸出」され、法制化されることで、1990年代におけるドイツの爆発的な風力発電の拡大に繋がっている。これが、米国でカーター大統領時代の1978年に導入された公益事業規制法(PURPA)と並んで、自然エネルギー電力分野における「第2世代の環境政策」のルーツにあたる。また、各地のエネルギー情報センターは、その後、欧州委員会に「輸出」され、今日、地域エネルギー事務所として欧州各地で重要な役割を担っている。

●バイオマス普及を担ったスウェーデンの地域エネルギー公社
 ところで、スウェーデンでも原子力論争は社会を二分したが、デンマークとは違った道のりを辿ることになった。スウェーデンの原子力開発はデンマークに先行しており、原子力論争が沸き起こった1970年代初頭には、すでに2基の原子力発電所が商業運転を開始していた。また、巨大な国営電力会社が原子力推進の中心にあったことや、大きな原子力開発企業を有し、電力分野の中心に「原子力コミュニティ」が形成されていた。したがって、長い政治的論争ののちに、1980年に行われた原発を巡る国民投票も、分かりにくく矛盾に満ちたものだった。すなわち、選択肢は単純なイエス/ノーではなく、推進/条件付き推進/即時凍結の3つであり、投票結果もそのまま見事に3つに分かれた。国民投票を受けた後で議会が定めた結論も、当時建設中ないしは計画中だった6基の原発は完成させると同時に、2010年までに合計12基の原発を段階的に閉鎖していくという、朝三暮四のような矛盾をはらむ帰結となった。スウェーデンでの風力発電は、デンマークと同じような地形や気象であり、かつオープンスペースも広いにも係わらず、現在に至るまで普及が滞っており、産業の形成も見られない。その重大な原因として、スウェーデンの電力分野には「原子力コミュニティ」が根強く生き残り、彼らの「原子力バイアス」によって風力発電がいまだに反原発の象徴として見られているという指摘もある。
 スウェーデンでは、風力発電ではなく、バイオマスエネルギーの利用で成功モデルを切り開いた。地域に電力と暖房熱を供給する地域エネルギー公社が全国に100あまり広がっており、これがバイオマスエネルギーの導入で大きな役割を果たしたのである。1980年頃からの政府による石油代替エネルギーの開発プログラムの中で、地域熱供給の燃料を重油から木くずに転換する実験プログラムが南部の町ベクショーで始まり、これが徐々に拡大していった。とくに、1991年から92年にかけて導入された炭素税などの環境税によって、地域熱供給に利用するバイオマスが優遇され、化石燃料には課税される措置がとられたために、90年代には普及が加速したのである。現在(2001年)では、スウェーデンの1次エネルギー616テラワット時のうち、16%に相当する98テラワット時を、こうした木くずを用いたバイオマスエネルギーが供給しており、その約3分の1が地域熱供給で利用されている。
 また、1992年にリオデジャネイロで開催された地球サミットで「アジェンダ21」が採択されたことによって、スウェーデンでは、持続可能な社会に向けた地域レベルでの取り組みが急速に広がった。その中でも、「化石燃料ゼロ」を宣言したベクショー市をはじめ、地域のエネルギー公社との協働による自然エネルギーへの取り組みが成功例として注目された。
 こうして、スウェーデン、そしてフィンランドが先行した木質系のバイオマスエネルギー利用技術や環境税を組み合わせた普及手法は、その後、欧州大陸、とくにドイツへと「輸出」されている。とくに地域熱供給は、住宅の暖房環境を改善する「エネルギー福祉」という視点に加えて、バイオマスや太陽熱などの自然エネルギーやコージェネレーションの廃熱を有効利用することで二酸化炭素を削減する効果的な手法として重要なものである。この地域熱供給とバイオマスエネルギーとの共進化は、あらためて取り上げることとしたい。

●ボトムアップのエネルギー政策へ
 以上見てきたとおり、自然エネルギーへと加速する欧州のエネルギー政策の源流には、北欧の大胆なエネルギー政策の転換があり、そこでは市民運動や地域のエネルギー公社などによる「ボトムアップ」の取り組みが大きく作用している。これは、極端なトップダウンのエネルギー政策が支配してきた日本とは、大きな違いがあることが分かるだろう。日本では、エネルギー政策を「国策」に閉じこめ、しかも経済だけの視点から、エネルギー業界と産業界との調整することが「エネルギー政策」を意味してきたからである。その結果、地域社会は、原発や石炭火力の立地にしても、ダム開発にしても、一方的にエネルギー資源を収奪され、開発される立場に追いやられてきた。また、日本の住宅は貧相な暖房環境のまま放置され、暖房手段がエネルギー業界の「食い物」にされてきた結果、寒く、乱雑で、しかも室内環境と地球環境の両方を汚染する暖房がはびこり、前号で触れた北欧やドイツに見られる質感の高い「エネルギー福祉」の温熱環境とはほど遠い状況なのである。
 日本でも、この10年間で市民団体や地方公共団体によるエネルギー政策への取り組みがようやく見られるようになってきた。こうした多様な取り組みが、霞が関の「官」による薄っぺらな「エネルギー社会像」から抜けだし、やがては「社会の質」を高めていくことを期待したい。

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