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集え!ガチな映画感想家達よ!コミュのミッシング  (2003)

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邦題; ミッシング  (2003)
原題; The Missing  

137分


監督: ロン・ハワード
製作: ブライアン・グレイザー 、 ダニエル・オストロフ 、 ロン・ハワード
製作総指揮: トッド・ハロウェル 、 スティーヴ・クリスタル
原作: トーマス・イードソン   『ミッシング』(ソニー・マガジンズ刊)
脚本: ケン・カウフマン
撮影: サルヴァトーレ・トチノ
音楽: ジェームズ・ホーナー

出演:
  トミー・リー・ジョーンズ    サミュエル・ジョーンズ
ケイト・ブランシェット     マギー・ギルクソン
エヴァン・レイチェル・ウッド  リリー・ギルクソン
ジェナ・ボイド        ドット・ギルクソン
アーロン・エッカート     ブレイク・ボールドウィン
ヴァル・キルマー       騎兵隊中尉
エリック・シュウェイグ
セルジオ・カルデロン
スティーヴ・リーヴィス
ジェイ・タヴァレ
サイモン・ベイカー
マックス・パーリック
レイ・マッキノン
ラモン・フランク
クリント・ハワード
ランス・ハワード

19世紀末のアメリカ西部を舞台に、孫娘が誘拐されたことで、確執を抱えた父と娘が過去のわだかまりを乗り越え、協力して救出へ奔走する姿を描いたウエスタン・サスペンス。監督は「ビューティフル・マインド」「アポロ13」のロン・ハワード。出演は「逃亡者」のトミー・リー・ジョーンズと「エリザベス」のケイト・ブランシェット。

1885年、アメリカ・ニューメキシコ州。荒野の一軒家で医者として生計を立てている女性マギー。彼女は2人の娘、反抗的な姉リリーとしっかり者の妹ドットを女手一つで育て、恋人ブレイクの助けも借りながら平穏な日々を過ごしていた。そんなある日、20年前にアパッチ族との生活を選んで家族を捨てた父親ジョーンズが突然帰ってきた。過去を悔いるジョーンズだったが、マギーは決して許すことが出来なかった。ところが翌朝、町に出掛けた娘たちとブレイクが何者かに襲われ、リリーがさらわれてしまう事件が発生する。犯人がネイティヴ・アメリカンだったことから、マギーは不本意ながらも彼らの習性をよく知るジョーンズに協力を依頼する。そして、2人は一緒に追跡を開始するのだった…。

上記が映画データベースの記述である。 「真の男」のための局と銘打ったオランダ民放テレビのゴールデンタイムとして観た。 

真の男のマッチョな局ではあるが本作には現代の思潮の表れか西部でたくましく生きる女たちのストーリーがハードな世界の底流にあるように思う。 それは西部劇で追跡譚というジャンルにもあって大抵はインディアンや悪漢にさらわれた家族を追うという、もしくは復讐譚であったりする。 ジョン・ウエインのものでは「捜索者(1956)」、少々趣を異にした「マクリントック(1963)」などが見られ、近くはコーヘン兄弟のジョンウエイン映画の焼き直し「トゥルー・グリット(2010)」が思い起こされる。それについては下のように書いた。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/63277430.html

それにしても本作はチャンバラ、戦争映画、西部劇でそだった世代には佳作に映るだろうと思う。 それは西部劇で育ち自らもジョン・ウエインが死期を悟り映画に向けての遺言ともいうべき「ラスト・シューティスト(1976)でローレン・バコールの息子を演じた当時22歳のロン・ハワードが本作の監督でもあるからだろうとも想像する。 クリントウッドにしてもハワードにしてもそれにトミー・リー・ジョーンズにしても西部劇を現代に継承する映像作家たちである。 今西部劇が少ないのは需要が少ないのと現実が西部劇から遠くなっているということにも起因するのではないか。 自分がこの20年来道楽として行っている黒色火薬を使って当時の銃器を撃つ古式銃射撃で興味を示す若者の数が現代銃器射撃の割合からして圧倒的に少なくなっていることにも現れているだろう。 邦画にしてもスター俳優を輩出したチャンバラを継承し時々制作される時代劇の人情話は別として活劇チャンバラものが減っていることにもそれと似たものを感じさせられる。 けれど例えば黒澤がスケールの大きい合戦を撮るのにロケーションに苦労し味気ない自衛隊の演習地ぐらいしかもうその場所が求められなかったのに反して西部劇では未だにその大自然が充分絵になる環境が残っているのを我々は幸せとすべきだろう。 そういう意味では西部劇にはまだ昔をかなり写実的に表現するための装置が存在する。

本作を始め現代の西部劇には「女性に優しく平等に」という現代思潮が侵蝕しているようなニュアンスを上に書いた。 それは世界がこの50年ほどの大衆消費経済の中で大きく変り、それにつれて50年前のようなマッチョな作風が受け入れられがたくなっていていることにも依るだろうしそれを敏感に興行収益に感じ取る映画産業の方向転換と見て取れるかもしれない。 それも過去の西部劇社会に在ったであろうストーリーを綴ってパラダイム変更をしただけだとも言えるかもしれない。 その例を家族を棄てて出て行き文明の敵である蛮族インディアンもどきとなった父に対峙するケイト・ブランシェットとその娘達にみることが出来るだろう。 ここでは娘に対してボソボソと口を開く大根役者ともみまがうトミー・リー・ジョーンズとの対比は秀逸だ。 それに本作で末娘のドットが「トゥルー・グリット(2010)」での父親の敵討ちを誓う少女と同じくストーリーを推進する要素となっていることを思い起こすと現代思潮の侵蝕という意味が分かるだろう。 ただそのときストーリーがどれほど面白いか面白くないか、当時そうでありえたのかどうか、が現代に西部劇を観る我々に語りかけてくるのだが、そうならばシャロン・ストーンが快刀乱麻にマカロニ・ウエスタンよろしくぶっぱなす「クイック&デッド(1995)」はどうなのかというと話になるとそこでは議論の余地があるだろう、ただそういう話は嘗ては海賊が出没したことをネタに妖怪たちが乱舞する中自らも妖怪であるらしいジョニー・デップの海賊冒険譚にも通じ、そうなると我々が良質の西部劇とみる作品群を語る地平から些か距離が出来すぎた感がある。 けれどそういう意味では本作で安倍の清明よろしく蛮族・悪役インディアンが呪術を駆使しケイト・ブランシェットに纏わりつき、それに対抗して果てはキリスト教の神も加えてと競合させるシーンには1885年ではさもありなんと自分の立場を贔屓の引き倒し気味に移動しているのを認めないではいられない。

本作で騎兵隊中尉としてチョイ役で出演しているヴァル・キルマーの「サンダー・ハート<未>(1992)」ではインディアンの血を引くFBI捜査官として現代のインディアン居留地やウンデッド・ニーを背景にした興味深いものだったことを思い出す。 

西部劇に現れる現代思潮と書いた。 それでは邦画の現代時代劇に見える女性の像は如何なものか。 池波正太郎や藤沢周平ものでは西部の女に匹敵する時代劇の女は期待できず、それを期待するのは間違っているという声も聞こえそうなのだが、それは日本が「文明開化」した明治まで待たなければ出てこない、またそういうドラマがテレビを中心に制作されていることを見ると明らかだろうとも聞こえるようで、それならそれはある種のリヴィショニズム的現代思潮である「明治以後は女性が解放され、それ以前は儒教思想に則った貞女が鑑だった」の像を再生産する以外の何物でもない。 それはある種、俗情との結託ともいえるものなのだ。

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