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集え!ガチな映画感想家達よ!コミュの寝ずの番  (2006)

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寝ずの番  (2006)

110分

監督: マキノ雅彦

原作: 中島らも
『寝ずの番』(講談社刊)
脚本: 大森寿美男

エンディングテー
マ: A・cappellers
『Don't Worry, Be Happy』

出演:
中井貴一     橋太
木村佳乃     茂子
木下ほうか     橋枝
田中章     橋七
土屋久美子     多香子
真由子     美紀
石田太郎     小田先生
蛭子能収     田所
桂三枝
笑福亭鶴瓶
浅丘ルリ子
米倉涼子
中村勘三郎
高岡早紀     バーの女
堺正章     元鉄工所の社長
笹野高史     橋次
岸部一徳     橋弥
長門裕之     橋鶴
富司純子     志津子

日本映画初期の巨人、マキノ省三監督を祖父に持ち、日本映画界のサラブレットとして輝かしい俳優人生を送ってきた津川雅彦が、“マキノ雅彦”名義で満を持して挑んだ映画監督デビュー作。中島らもの同名短編を基に、豪華俳優陣の競演で贈る痛快艶笑喜劇。上方落語界の重鎮の通夜で繰り広げられる人間模様をユーモアとペーソスを交え綴る。
 上方落語界の重鎮、笑満亭橋鶴がいよいよ臨終のときを迎えようとしていた。ところがそこで弟子たちはいかにも咄家らしい粗忽ぶりを発揮し、思いもよらぬひと騒動が巻き起こる――。ともあれ、こうして橋鶴師匠は亡くなり、お通夜の席には弟子はもとより、故人をしのんでゆかりの人々が続々訪れる。やがて思い出話に花が咲く。そして案の定、話の内容は次第に下のほうへと移っていき…。

上記の映画データベースの記述で大体の概要は知られるが本作が完成したときに上方の重鎮で戦後に上方落語の復興に桂米朝らとともに貢献した落語家の話を基にして、、、、と言われればそれは上方の柔と洒脱の春団治ではなく、それは当然その豪快で骨太、同時に粋(すい)を体現した芸風で知られた六代目笑福亭松鶴に違いなく、本作は同じく上方の作家の筆になる落語家の世界と落語を折衷した創作の映画化であることからこの落語家の一門から承服できない部分があってクレームがついたというようなことを聞いたもののそれがどの部分かと想像してみればいろいろそれにあたるようなところも思い当たって苦笑するのだが、それでも落語をめぐる創作として受けとれば本作は後世に残すべき力作だと思う。

思ったことがいくつかある。 本作を見ようと思った理由はここ何作か死を巡る物語を考え、それらは「おくりびと」であったり「歩いても歩いても」であったり「儀式」、「お葬式」であったりしたのだが、ここに本作を加えると本作の世界、落語、芸人世界の特殊さから色濃くあぶられた死の普通とは違った一面も現れて我々の死というものの理解に柔らかい深みを与えるようだ。 伝統芸の伝承と自己研鑽を体現するのを日常として全てを取り込むこの世界でも死は一様に例外でもなく、その大団円の中心に大演題、死人にカンカン踊りを躍らせて酒食をせしめようというむちゃくちゃな噺「らくだ」をもってくるのだから俄然この「死」に我々が呆気にとられている間に「生」が活気づく不思議さが加わりここで人間存在の根源に接する我々に引きつった笑いを喚起させることとなる。 

当然、死に対するものとして「生」があり「死」に直面したときに切実に「生」を希求し、それが「性」への希求として現れるのは当然のことである。 それが本作に覆水となってさまざまなところで吹き上げる。 表ではさしさわりのある「いやらしい」ことや猥歌なのではあるのだがこういう事柄は今では公衆の窓となったテレビの時代にはテレビでは市民権を得られず、テレビが全盛のこんな時代には「愛」だの「恋」だのそんな抽象的もしくは実態なしの言葉に押されて徐々に消えていくような種類のものでもある。 昔、大島渚の作、「日本春歌考」で歌われた春歌は政治の時代のものであり本作と比較するとその視点の違いは大きいものの、それぞれ作品で時代を批評するという、一方は政治的な脈絡の中でアンチテーゼとしてのガス抜き作用の一方、ここでは硬いものははじめから脱臼も何も笑いのプロたちの晴れの舞台としてやわらかく伝統あるサブカルチャーをプロ的に「死」に対峙させ、「いやらしい」猥歌を媒介とするとして実体ある「生」を希求するという共通点をもっているだろうし、けれどこれら様態の違いがこの30年ほどを隔てた猥歌、春歌の存在を示唆しているようだ。

上方の笑いであるから多分これは今世間を席巻する洗練の関東文化にはインパクトが強すぎて厭われるのではないか、西洋かぶれが皮膚の下まで染み込んでそれが今では抗体ができて更にもっとかぶれたいというような今の若者たちには本作に直面するとあっけに取られなんとも下品なもの、堪らないほどいやらしいものと映るかもしれない。 それに近頃の若者はそこまで男女の機微を経験できるような時代ではないのではないかというようなことも頭をよぎるのだが、そういうことでいうと本作でちらりと一瞬焼香の際に来て、素面で何かわからないことを風呂の中で放屁したようにぼそぼそと言いながら香をくべる6代目の弟子、鶴瓶がここでは中井貴一にあたるのかとも思うけれど中井はテレビで丸裸になりちゃちな放送コードを確信犯的に破りパージされるようなことはしそうにはない。 中井はああちゃんのかわいい弟子であり師匠の今際の際に「そ○」を見せて引導を渡し通夜の晩、延々と続く紅白歌合戦では夫とともに三味線をしっかり弾いて歌うしっかりしてかわいい女の夫である。

そういえばここのああちゃんの美しさには参る。 CDてんこもり、六代目松鶴全集の解説書にいくつもある写真の中で師匠が紫綬褒章の知らせを受けたときの逸話がらみで二枚ほどに写っているアーチャンの方が本作には存在感をもって齟齬なく嵌るように思うのだがどうだろうか。

この映画のこともあるのかどうか、昨年鶴瓶は全国数箇所この「らくだ」を演じて回ったと聞く。 若いときにはモダニストだった六代目を実質的に継ぐのは今の売れっ子鶴瓶かもしれない。 と、上方から遠く離れたところでネットだけの情報でそういうふうに思ったりする。ただ、ただの一度も鶴瓶の落語を聴いたことのないものにはそれも無責任な言ではある。

本作の前に「おくりびと」で言葉少なく好演していた笹野高史の、師匠の一番弟子がことの初めのトチリから笑わせて最期までいい。 こういうオジサンが映画にもっと出ると映画の質が俳優の妙な美化から本当に有る有るの現実に戻らせていいのだが、なんせ今は子供ばかりがハシャギまわり世の中ではそういう連中に受けるトレンディーだか、単に視聴率確保だけに踊るそんな状況ではミーちゃんハーちゃんだけのその辺の安物ドラマが氾濫してこういうものは日の目に出ないものとなるのだろう。

かくての産業立国から今やそれだけではなく文化を含めての文明国を目指すこの国で子供の国語の教科書にも落語は載っているのだそうだ。 それなら子供たちにも地歌や小唄、はては都都逸ぐらいは三味線を爪弾きながら語り歌えるように、それにもまして教師たちに都都逸の解説をちゃんと生徒にできるだけの柔らかい教養をつけさせるべきだろう。

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