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古代城柵「ぬたりの柵」コミュの今城塚古墳のニュース

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今朝の新聞に驚くべき記事が出ていました。驚くべきというほどでもないかな?

大阪高槻市の今城塚古墳から、石組み遺構が出てきたということです。
調査の結果、墳丘は三段築成で江戸期の大地震で石組みが崩れ落ちていたらしいとのこと。
一番上の段は、中世のとりでを作るために壊されています。

何が問題かというと、もし、今城塚古墳が三段築成だとすると、前期古墳からの特徴を有することになり、三王朝交代説が否定されるからです。

今城塚古墳は、学会ではおおむね継体天皇稜としてよいとの評価です。

三王朝交代説というのは、崇神天皇からの古王朝、応神天皇からの中王朝、継体天皇からの新王朝の三王朝が交代してきたのが日本の皇統系譜だという説です。もちろん、反論がいろいろあります。

この三王朝は、それぞれ、古墳時代前期、中期、後期にほぼ対応しているといわれています。

継体天皇は、越の国(越前三国付近)から、畿内に入り、実力で古い王朝を征服した新王朝ではないかとする説が有力です。三王朝交代説をとらない学者でも、武列朝と継体朝の間は断裂しているとみる人は多いですね。

コメント(17)

小生も新聞で見ました。
今まで、さらっとみすごしていた記事もよく読むようになりました。
しかし、このような内容までは知りませんものね!
宮内庁が正式に認めている継体天皇陵は、今城塚古墳のすぐ近くに別にあります。

日本考古学会では、毎年のように宮内庁にいろいろな天皇陵の発掘を認めるように申請を出しているようです。

これまで、頑として認めてこなかったそうですが、今年から特別なケースの場合は認める方向で検討しているとか。まあ、特別なケースとは、風雪などで古墳の墳丘がくずれて修復作業のおりに見せてやるというようなもんじゃないでしょうか。

宮内庁の公認している天皇陵は、99%その天皇陵として適合していないらしいです。明治時代はじめに地元の言い伝えを無視して勝手に名づけたもののようです。
画像が宮内庁が継体天皇陵としている茶臼山古墳です。これは、別の天皇か、あるいは別の王族の古墳でしょうね。

石像は福井市にある継体天皇像です。
古墳だけで言えば、千葉県は宝庫です。
近隣の我孫子市もそちこちに。
たぶん士族のでしょうかねー?!
ネットで調べましたら、我孫子の近くに古墳公園というのがあるんですね! 7世紀初頭というと畿内では大和朝廷ができていますが、関東や東北地方ではまだ古墳時代の名残が残る頃ですね。

たぶん、その地域の豪族の墓なのでしょう。その少し前の時代には、大和朝廷から命令されて各地方には、国造というのが置かれています。

その後の時代の律令政権と異なり、その地域地域の豪族に支配をゆだねていたらしいです。律令の時代は、中央から国守(国司)を派遣していましたから。
実家の近くの行田(ぎょうだ)にも埼玉(さきたま)古墳群がありますし、近くの「吉見の百穴」という横穴式の古代墓地群もあります。
どこにも歴史的な遺構はあるものですね!
当時は天皇が実政権を治められていたのでしょうか?
それとも今の時代と同じだったんでしょうか?
(⊃Д`)・゜・『歴史はからきしで・・・興味はあるんだけど』

やす様の写真の古墳は見事ですね!
大学時代に近隣在住の友人に『吉見の百穴』へ連れて行ってもらいました。
とても不思議な古墳ですね。

千葉県でいいますと芝山古墳が一番有名でしょうか。
(^−^)『埴輪の町として有名です!』
やす様。
さきたま古墳群には、稲荷山古墳というのがありましたっけ?
そこから鉄剣が出ていて、「ワカタケル大王云々」という文字が刻まれていることで有名な古墳ですが・・・。
この大王は雄略天皇のことなんです。
aloha^^/様。
古墳時代は、一般的には、古墳時代前期が4世紀、中期が5世紀、後期が6世紀となっています。ただし、古墳時代前期が、弥生後期である3世紀後半にまでさかのぼれるという考え方が、主流になりつつあります。(というと、反対する研究者もいますが。)

4世紀はなぞの世紀、5世紀は「倭の五王」の時代、6世紀は中央集権国家が確立されつつある時代といわれています。

いずれも天皇(天皇という呼称は後世の時代になってから)が政権を掌握していたようです。といっても、4、5世紀はまだまだ中央集権国家ではないから、畿内のある程度の地域を治めていたに過ぎないです。

5世紀(異論はありますが、一般的には応神、仁徳朝から)は朝鮮半島や大陸にも倭の大王ということで認識されていましたが、まだまだ統一国家ではないと思います。「倭王武の上表文」というのが、それを物語ります。
そして、6世紀からの継体天皇以降からしっかりした権力をつかむのですが、それでも辺境では中央集権にはむかう勢力がいました。

そもそも、継体天皇自体が、応神天皇からの皇統が弱体化したところへ、越の国(今でいう越前三国地方)、あるいは畿内の北の地域という説もあるが、そこから攻め込んで実力で政権を奪い取ったのではないかとする説が有力です。

日本書紀が当時の政権に都合の良いことしか書いていませんので、すべての記事を信用するのは危険なんですが。
4世紀の崇神天皇から始まる皇統は実在しないと言う説も、もちろんあります。
古代史は学者によってさまざまです。推理小説みたいなもんです。
逆にいえば、そこに我々素人が入り込む余地があるともいえます。
考古学的には、各地で古墳時代の3時期ですべて様式の異なる古墳が作られていますが、地域的にすこしずつずれているともいわれています。

当地では、古墳時代前期の古墳と、後期の古墳しか、今のところ見出せず、中期古墳が欠落しています。

まだ、中期古墳が発見されていないのか、あるいは、前期と後期のその間に劇的な地方権力の交代があったのではないかという説もあります。こちらの方が、有力かな。

地方の後期古墳のうち、あるものは、かしわで氏、物部氏の古墳だといわれています。いずれも中央政権と従属関係にあった豪族のはかということになるのでしょう。
古墳時代の勉強は私は系統的にしていませんので、古墳時代の3時代の様式の違いはまだ良く理解していません。
さきたま古墳群は有名ならしいてすね。alohaさんも写真に驚いていたように、9っのうち8っが前方後円墳だそうで、写真のようなスケールで見られます。

ちなみに古墳はいたる所にあるのですね。都心にもありますね。
そうそう自宅にも近い通勤途中の田園調布のあたりに、多摩川台古墳群というのがあります。
公園になっていて、メインの亀甲山(かめのこやま)古墳は名前が結構親しまれています。これも前方後円墳です。
桜の名所として有名です。東横線多摩川駅前になります。

古墳時代のこともいろいろ教えていただくと勉強になりますね。
見事な桜ですね。多摩川台古墳群というのがあるのですか。
昔、三鷹に住んでいたので、あのあたりにも何かあったような・・・。

古墳時代というのは、弥生時代や縄文時代と比べると、短い期間です。弥生はいろいろ諸説がありますが、BC800〜AC300で約1100年、縄文時代に至っては1万年以上、それにくらべて古墳時代はせいぜい300〜350年くらいでしょうか。

まあ、畿内以外では7世紀はじめくらいまで古墳文化が続いていたとする考え方もありますので、少し伸びるか?

弥生人が古墳時代人になったのか、それともまったく別々の人種なのか、良くわかっていません。弥生人が朝鮮半島や大陸からの文化に触れて突然、あのような大きな古墳を作ったのか。

ただ、弥生人そのものが渡来系の人々であることはまちがいないですし、日本のこのころの歴史を学ぶには、朝鮮半島の歴史の勉強も必要だといわれています。
「古墳」を学問・研究でコミュ内を検索しますと29件ヒットします。
「日本古代史の謎」というコミュに今城塚古墳ニュースのトピックスがありました。
いろいろありますね。
私も検索してみましたら、けっこうありますね。
考古学は、リタイアした中高年の人たちが関心を持つ趣味のひとつなんだそうです。
昨日の新聞に「勝負砂古墳」発掘の記事がりましたね。
未盗掘というのは珍しいことなのでしょうね。
「砂」とかつく地名は製鉄(たたら)の関係とか。
私はテレビのニュースで見ましたが、未盗堀の古墳は珍しいと思います。
聞いた話では、中世ころにはあのような高まりのある丘は古墳であることが、認識されていたらしく、平安末期の統制が取れなくなった時代に盗賊が荒らしまわったらしいです。
ある古墳では、鎌倉時代のものと思われるお碗が見つかったり、灯明具が残されているそうです。

大英博物館だったか、メトロポリタン美術館だったかには、たしか、仁徳天皇陵から出てきた副葬品が所蔵されているはずです。

明治維新の混乱期に、国内の民間コレクターから海外に流れ出たそうです。

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