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†イエス・キリスト†コミュの『キリスト教講義』(若松英輔/山本芳久著:文芸春秋)

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コミュニティの皆さん、こんにちは。『キリスト教講義』(若松英輔/山本芳久著:文芸春秋)という本を読んだ方、いらっしゃいますか。私は2日ほど前にこの本を読み、大変面白かったので紹介させていただきます。内容は、批評家の若松英輔氏と、中世哲学が専攻の学者、山本芳久氏との対談の形式で構成されています。内容は非常に面白く、私がこれまで読んできた本の中では、間違いなくベスト10には入るくらいの面白さです。アマゾンのネットショップでの読者レビューのコーナーをみても、星5つの最高評価を付けている人が70%以上いて、非常に評価が高いです。まだ読まれていない方は、ぜひ読んでみることをお薦めしたい本です。特に印象に残ったポイントを5つほどピックアップして紹介します。

1.本書の第1章に、「自己愛には2種類ある」ということが述べられています(P48)。その2種類とは、神や隣人を排除して、自分の目に見える狭い利害関係のようなものだけに執着する自己愛と、神や隣人に開かれた原理となるような意味での自己愛―自己を真に大切にすること―があるとしています(P48)。

私は以前、福田恒存の『日本を思う』という本に出てきた福田の次のような問題提起の一文が大変気になっていました。その一文はつぎのようなものです。

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相手を突き放し、自分と他人との間にあくまで距離を置こうとする西欧の冷酷な個人主義が、なぜ「愛」の思想と道を通じているのか、その反対に、距離と孤立を恐れ、自他の未分状態のままにとどまろうとする穏和な仲間内の道徳観が、なぜ自衛本能にしか道を通じていないのか。(『日本を思う』文春文庫 P81)
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この福田の問題提起についての直接的な解答が、まさに『キリスト教講義』の中に登場した2種類の自己愛ということなのではないかと思いました。すなわち、自分と他人との間にあくまで距離を置こうとする西欧の冷酷な個人主義の土壌のほうが、かえって「愛」の思想と道を通じやすい。逆に、距離と孤立を恐れ、自他の未分状態のままにとどまろうとする穏和な仲間内の道徳観が支配的な社会では、かえって「他人に出し抜かれないように…」というような警戒心のマインドが台頭し、「狭い利害関係のようなものだけに執着する自己愛」が支配的になってしまうのではないでしょうか。

2.本書の対談者の一人である山本氏は、中世哲学、とくにトマス・アクイナスの研究家として知られています。このトマスが自己愛と隣人愛との関係について語っている部分の訳語の使い方として、「合一」を使うべきか、それとも「一致」を使うべきかという、一見すると細かい問題を提起しています。「合一」と「一致」はどう違うか、山本氏の見解は以下のようになります。すなわち、

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「合一」と言うと、相手と自分との区別ができずに融合してしまう、区別が消去されてしまうといった意味に近くなってしまうと思うのです。そこでは個というものが消滅してしまいかねない。(中略)でも、どれだけ深い結びつきが形成されようとも、相手と自分との区別が消え去ることはない、むしろ別々のものが別々のものに留まりながら、深い関係を形成するようなあり方について言う、そのためには「一致」という言葉があてられるべきだと思うのです(P54〜55)。
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この部分も、上に紹介した福田恒存が『日本を思う』の中で提起している問題の解答のヒントになるのではないでしょうか。

3.イスラム教の経典にコーランがあることは皆さんよくご存知のことと思います。このコーランはアラビア語で書かれているわけですが、本書(キリスト教講義)には聖書とコーランはどこが違うか、という問題について、非常に興味深い分析が示されています。コーランは、最初から最後までイスラム教の神、アッラーが一人称で語る形式を持った著作らしいのです。このため、このコーランを他言語に翻訳すると、それはもはやコーランではなく、コーランの注釈書という属性しか持ち得ないものとみなされているそうです(P170)。このことは、イスラム教徒になるためには、アラビア語を習得して、アラビア語の原典であるコーランを読むことが出来なければならないことになりそうです。ということは、イスラム教徒になるための「しきい」は高くなるのではないでしょうか。

一方、聖書の場合は他言語(旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシャ語で書かれているわけですが)に翻訳されても、それは聖書のままである(P170)。つまり、コーランは他言語に対して閉鎖的であり、聖書は他言語に対して開放的であると言えそうです。このあたりに、イスラム教の広まり方とキリスト教の広まり方の差となって表れているような気がします。

4.本書の第5章「悪」の中に、神はなぜ人間に自由意志を持たせたかについて、アウグスティヌスの著作の内容を引用する形で説明している部分があります。少し長くなりますが、引用でご紹介します。

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そもそもなぜ、自由意志を持った人間を神が創造したかといえば、人間と神が愛に基づいて交流することを、神は創造の目的としていたからだと考えるのです。もしも自由意志を持たないロボットのようなものを創造するのであれば、そこには神との理想的な関係は実現しない。理想的な愛の関係が可能になるためには、人間に自由意志を与える必要があったのだと。しかし、人間に自由意志を与えた副産物として、悪を為すという負の可能性がどうしても生まれてきてしまう。そして、実際にその負の可能性が実現することによって、この世界に悪が成立してしまう。しかし、それは人間が自由意志に基づいてやっていることであって、その責任を神にまで遡らせることはできないのだ、というのがアウグスティヌスの自由意志論の骨子です。(P217)
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キリスト教の教えは論理的な平明さがあるような気がします。これに対して仏教の教えにはこのような平明さはあるのでしょうか。私は仏教の教えを詳しく調べたことは無いので、キリスト教の教えと仏教の教えとの比較論を展開するだけの力量はないのですが、多分、仏教の教えは、キリスト教の教えとは平明さや論理性の点でかなわないだろうという気がします。

5.本書の249ページからは、「日本におけるキリスト教的な言葉の貧しさ」という節が展開されており、その中に、日本のキリスト教の教団が日本の社会に向けて発するメッセージの弱さを批判している部分があります。

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山本 やはり、もうひとつ大きな問題があるとすれば、いまは信仰というものが社会との接点を持った現実的な出来事というのではなく、むしろ個人の心の内面のものと捉えられがちであることです。宗教とは心の内面の問題である、という捉え方が非常に強いと思います。(P252)
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ここで山本氏は、「信仰の営み」というものが、個人の内面世界の営みだけで終わってしまって、信仰が外の世界、つまり社会に対するアクションになっていかない問題が提起されています。この問題に対して、非常に見事に解答を与えている著書を私は知っています。それは、加藤典洋著『日本の無思想』(平凡社新書)です。この『日本の無思想』の中で、著者である加藤典洋は、かつて明治政府が日本国民に国家神道への服従を強制しようと図ったとき、日本におけるキリスト教や仏教への信仰と国家神道への服従との併存をどのように可能にしようとしたのか、その政策上の方便を説明する文脈において、次のように述べています。

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明治政府は宗教に「内」での自由を与えるから、「外」での自由制限は認めよ、といい、その結果、「内」での信教の自由、「外」での宗教行為ではない神道への服従という「ともに真である」二本立てのあり方が日本の「創唱宗教」に生まれることになりました。(P104)
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やや分かりにくいかもしれませんが、要するに、「内(内面)」での信仰と「外」での服従とを、「内と外」を使い分けるダブルスタンダードで対処させるという方策を取ったのです。この歴史的経緯が、現在でも日本人のマインドセットの中で尾を引いていて、日本人は「内」と「外」とで人格を使い分けるというダブルスタンダードにつながっていると加藤は考えているわけです。それが、山本氏の言う「いまは信仰というものが社会との接点を持った現実的な出来事というのではなく、むしろ個人の心の内面のものと捉えられがち」という現状にいたっているのだと考えられます。

以上、私の感想文を読まれて、興味を持たれた方は、ぜひ読んでみることをお薦めします。

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