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たのしい特別支援教育研究室コミュの映画「1/4の奇蹟」と「リズム外れを大切にするアフリカの文化的な伝統」

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映画「1/4の奇蹟」と
「リズム外れを大切にするアフリカの文化的な伝統」
『羽仁 進の新・家族論』(羽仁 進・著・三省堂)を読んで

先日、山本加津子さん(かっこちゃん)へのインタビューを中心にした映画「1/4の奇跡」を見る機会に恵まれました。
その映画の中で語られていた「障害者を大切に扱っていた昔の社会」という話を聞いて以前読んで僕が編集発行していた『研究交流紙 障害児学級での楽しい授業研究』(1992年当時)に紹介した

リズム外れを大切にするアフリカの文化的な伝統
『羽仁 進の新・家族論』(羽仁 進・著・三省堂)を読んで

という資料のことを思い出しました。

その映画の内容に即してまとめられた『1/4の奇跡 「強者」を救う「弱者」の話』(マキノ出版)という本をその映画を見たあとに買い求めました。
その中にこの映画の中で出てきた「インカ時代の織物の話」を転載させて頂きます。


58ページ〜『宇宙をつらぬく 「本当のこと」』より

「6本指の手を5本指の手が守る」

ペルーの首都、リマには「天野博物館」という博物館があります。
インカ時代の素晴らしい土器などが3万点以上も所蔵されていますが、なかでも興味を引いたのは、一つの大きな織物でした。

その織物は、中央に手のひらが一つ、そして、その周りには、またいくつもの手のひらが配置されているデザインでした。
その、中央にある手をよく見たときに、私は驚きました。6本指だったんです。
それを取り囲むように、無数の5本指の手。まるで、6本指の手を、5本指の手が守っているようでした。

このとき私は、博物館の事務局長を務める阪根博さんから、こんな説明を受けました。
「インカの人たちは、病気や障害のある人が、とても大切な存在だ、とうことを知っていたのだと思います」

いわゆる「普通の人」と違う、6本指の人が大切にされていたかと思うと、私は嬉しくなりました。


ここまでは、上記の本からの引用ですが、その他にも映画の中で、
「インカの文明を調べていくとお墓などでは障害を持っていたであろうと分かる人のお墓が一番いい場所に発見されることが知られています。」
というようなことも語られていました。

障害を持った人が大切にされる文明はやはり後世まで語り継がれるような豊かな文明だったようです。


さて、ここまでは前段です。ここからが僕が1992年3月に発行した『研究交流紙 第3期 障害児学級での楽しい授業研究 No.1』に紹介した

リズム外れを大切にするアフリカの文化的な伝統
『羽仁 進の新・家族論』(羽仁 進・著・三省堂)を読んで

いう資料について書き進めていきたいと思います。

僕が教員になって11年目、33歳の頃に書いた文章をそのまま載せてみたいと思います。(ちょっと恥ずかしい・・・その時ワープロで打ったデーターは行方不明になってしまっていますので、改めて打ち直します。だけど、ちゃんと本にして残していたのでその頃の資料に行きつくことができました。その頃はめっちゃ元気すぎるほどで印刷・紙合わせ・製本・全国に100人以上の人に発送なんてことをバンバンやってました。インターネットなんてあったのかもしれませんが、まだ僕には無縁の時代でした。)


リズム外れを大切にするアフリカの文化的な伝統
『羽仁 進の新・家族論』(羽仁 進・著・三省堂)を読んで
和歌山県・養護学校 勇気りんりん

私が障害児教育と深くかかわり始めたのは、5年前に現任校に勤務しはじめてからです。それまで大学の時「養護学校教員養成課程」に籍があったため卒業単位の都合上、養護学校の教育実習に行ったりしましたが、今考えてみると本当に表面的なものでしかなかったということがひしひしと感じられます。

さて、養護学校には実にさまざまなキャラクターを持った子どもたちがいます。真冬でも水道から水を出して水遊びをする子、散歩に行って「しゅろの葉」を見つけると山の中にでも入って行って取ってくる子、河原から大人が持っても重たいような石を大事そうに持ってくる子等々、実に様々なキャラクターを持った子どもたちがいます。

こういう子どもたちは普通の小学校や中学校には、あまりいません。普通の学校生活のリズムには馴染まない子どもたちであるということが言えるでしょう。一般社会から見ると「リズム外れ」の存在であるというふうに言えるかもしれません。

しかし、私はこういう子どもたちに接していて、何か生活の中で忘れていたものを思い出させられるということがよくあります。それは、冷たい水の気持ち良さであったり、何でもないような石の形のおもしろさであったり様々ですが、忙しい日常の中で忘れていたものを思い起こさせてくれるということがあり、
「そんなにあわててどこへ行くんだ? もっとゆっくり人生を楽しんだらどう?」
と言われているような気がしました。

障害児教育というのは、一般の普通教育から言うと少数派です。普通のリズムに合わない子どもたちに、その子どもたちのリズムに合ったような方法で「ヒトから人間へ」の発達を援助していくものだというふうに言えるかもしれません。

つい最近『羽仁 進の新・家族論』(羽仁 進著・三省堂)を読んでいて、「リズム外れをどう考えるか」ということについて興味深く感じることがありました。私は以下の文章を「リズム外れ」を「障害者」と読み替えて読んでみると新たな発見があるような気がしました。

      *              *            *

『羽仁 進の新・家族論』(羽仁 進・著・三省堂)
「創造的家族論のすすめ〈架空対談風に〉」より引用 (p.7〜12)

私●じつは、そのヒント(少数派を育てる家庭という発想のヒント)を、私はアフリカでもらっているんだよ。
リズム外れをどう考えるかという文化的な伝統だ。
客●リズムというと、踊りのリズムのことかい?
私●第一義的にはそうだが、それだけじゃない。生活全体の基盤に繋がっていく重要なものだと思う。
だから、リズムの一致ということを、非常に大切だと考える伝統がある。
村には、それぞれの踊りのリズムがあって、それを身につけているのは、村人だけである。
お祭りの時に、他の村の訪問者があると、特別な衣装をつけてもらったり、仮面をつけさせたりする風習もある。それも、村のリズムを他人に教えないから、そのために混乱が起きないように配慮するためだ。
客●リズムによって共同体のメンバーであることが確認されるわけだな。
私●そう。ところが、時々、村の中に、リズム外れが生まれる。努力しても、どうしても、村のリズムに合わせられないわけだ。
いったい、このリズム外れをどう扱うか。

客●共同体のメンバーである以上は、そのリズムに従えるまで、努力しなくちゃいけない。でなければ、共同体には、入れてもらえない。追放されても、やむを得ないじゃないか。
私●ところが、そうじゃないんだよ。
客●じゃ、どうするんだ。
私●リズム外れは、大切だ、と考えるんだ。ただし、ふつうの仕事をするわけにはいかない。
なにしろ、人が右手をあげているときに、左手があがっちゃう、走りだすときに、とまっちゃう。踊りのリズムは、じつは共同体のリズムにつながっているから、リズム外れを仲間に入れると危険だよ。
みんなが、穴を掘ろうと思って、鍬をふりあげている時に、突然、芋をもって穴の中に入ろうとする。こりゃ危ないよ。
今度は、みんなが芋をもって入ろうとするとき、鍬をふりあげたりする。ますます危ない。だから、リズム外れのためには、特別な仕事を考えなくてはいけない。
お祭りの時に、こっけいな仕草をして、みんなを笑わせる。まあ、芸人のはしりみたいなもんだね。あるいは、神様に食べ物をやったり、世話をする役。相手が神様なら、ノンビリやっても、あるいは、セカセカやりすぎても、たいした被害はないだろう。なにしろ、神様もたくさんいるから、これもなかなかの仕事だよ。
とにかく、いろいろの工夫をして、リズム外れに役をあたえ、大切にする。
これは、私には、大変ありがたい哲学だと思えるわけだ。

客●キミは、吃りだし、不器用な男だからね。
私●子どもの頃から、苦労のしどうしだった。体操なんかやっていても、突然、ピョコンと手があがったり、ひどい時には、飛び上がったりする。叱られどおしだった。
学校というところは、共同生活に適応するまで生徒をきたえるわけで、私を担当した先生は、さぞかし苦労されたと思う。
リズム外れは、それなりに値打ちがあるという文化の中でだったら、お互いに、随分ありがたかった。

客●しかし、何故、リズム外れを、そんなに大切にするのかね? やはり、共同体として、仲間を助け合う伝統かね。
私●ちょっと、違うようだ。リズム外れは、役に立つ。だから大切にするという、シビアな判断、現実的な価値観がある。
客●なんの役にたつのかね。共同体になじめない人間が・・・・・・。
私●村のリズムを完全には揃わせない為に役に立つのだ。村中のリズムを揃わせようと努力しながら、そのくせ、完全にそろってしまっては危ない、と考える。この二重の考え方が、私には、大変興味深かった。
リズム外れの人間を大切にすることによって、村のリズムを、完全に一つのものに統一してしまわないようにするのだ。

客●何故?
私●もともと、リズムは村が勝手に作り出したものではない。環境に適応するものとして、生まれてきた。環境に最適な行動を作っていくのがリズムだ、と考える。
ところが、その一方で、環境は必ず変わる、という考えた方がある。
実際に、アフリカの自然は苛烈な変化を見せるしね。
リズムが単一になってしまった集団は、変化した環境と共に滅びなければならない。リズム外れを大切にしていくことは、いわば集団のリズムに対する空想力を生き残らせることになる。だから、集団にとって必要だ、という風に、大ざっぱに見れば見えるわけだ。

客●その哲学は、歴史的に相当に古いのかい?
私●アフリカの歴史には未知の部分が多いが、最近の研究では、エジプトより古い時代に、つまり世界最古の文明があったらしいね。
客●となると、リズム外れの思想も、長いあいだに作られてきた。
私●だから、例えば、イギリス民主主義の、女王陛下の反対派、というような考え方とは、やはり違うね。

客●民主主義の野党とか反対派というのは、与党や政府にとって代わって、自分の理想を実現していくという姿勢を、少なくとも頭の中、心の中では持っている。
私●リズム外れは、まるで、そんなものじゃないんだ。どんな時代がきても、彼らが村の長老になったりはしない。だいいち、長老に反対もしていない。反体制としてくることはできない。
もう故人だけど、山下清のような人は、かなり我々の社会で知られているというか、認められていたリズム外れになるんじゃないか。
これは、現代社会の福祉という理念にも入らない。
はじめから、みんなと一緒には扱われないし、扱えないわけだろう。外れているところが、面白かったり、珍しかったり、それで意味があるんだから・・・・・・。
我々の社会で、リズム外れを育てるところがあるとしたら、家庭のあいだにしかないだろうと考えたのだ。

客●しかし、アフリカの歴史文化では、環境に適応するのが、人間の生き方だった。現代の人間は、環境を変えるのが主体的な生き方じゃないかね。
私●そうも言えるだろう。だからといって、リズム外れに、何の意味もないのだろうか。
その時その時で見ると、現代につながる文明の伝統は、環境をより良く変えようという意志と努力でしかなかったかもしれない。しかし、長い歴史を通して見ると、人類が種として生き延びてきたのは、自分達の生き方を絶えず変えてきたからではないか、という方がずっと重いと思う。
その時々では、絶対に善だと思われたものが、じつは害毒となって、そのままなら人類という種を滅ぼしたかもしれない。何しろ、他の生物は、環境を変えようという努力はしなかったから、時間は環境と共にゆっくり流れるのに、人間の時間は、ものすごいスピードで流れてゆく。その行き過ぎを救ったのは、人間自身が自分自身の文化を変えていく、つまり作りもするが、同時にそれを捨てたり、変えたりする知恵じゃなかったろうか。リズム外れのよびおこす空想力は、やはり大切だと思うヨ。


*             *          *


いかがでしたか?

〈「リズム外れは何の役にたつのか」それは、共同体として、仲間を助け合う伝統ではなく、「リズム外れは、役に立つ。村のリズムを完全には揃わせない為に役に立つのだ。村中のリズムを揃わせようと努力しながら、そのくせ、完全にそろってしまっては危ない、と考える。この二重の考え方が、私には、大変興味深かった。〉
と著者の羽仁進さんは書いています。

学校という所は、ある一定の価値観に合う人間を作るようにプログラムされている面があると思います。そして、そのプログラムに合わない子どもは「困った子ども・手のかかる子ども」としてとらえられていることが多いのではないでしょうか。そういう普通教育のプログラムに合わないという意味では、養護学校(特別支援学校)に通ってきている子どもたちは「リズム外れの困った子どもたち」であるというふうに言えるかもしれません。

しかし、これからの社会の中では、本当に〈リズム外れのよびおこす空想力〉というものが必要とされてくるのではないかと私には思われるのです。

〈時間は環境と共にゆっくり流れるのに、人間の時間は、ものすごいスピードで流れてゆく。その行き過ぎを救ったのは、人間自身が自分自身の文化を変えていく、つまり作りもするが、同時にそれを捨てたり、変えたりする知恵じゃなかったろうか。リズム外れのよびおこす空想力は、やはり大切だと思うヨ。〉

と羽仁進さんも書かれていますが、「人間にとって本当の幸福とはなんだろうか?」というようなことを考える時、普通一般には「知恵遅れ」と言われたりする「実は時間と環境の流れを合わせて生きていく特異な才能を持った人々」から私たちが学ばなければならないことは多いのではないかというようなことを考えたりするのです。


*           *        *


僕が当時担任していた中学部のクラスで保護者や兄弟の間を回していた『まわるらくがき帳・ひまわり』にミキちゃん(仮名)のお姉さん(当時高校生)が書かれた文章を紹介したいと思います。


障害を持つ子の家族は誰だって将来のことを心配しますよね。私だってそうです。このままでいいのだろうか・・・って。他人は同情みたいなことをしてくれるけど・・・。

【私は、障害を持つ子は、私たち以上に広い視野を持っていると思うんです。障害のある世界を知っているから。】

私は‘障害’という言葉は、はっきりいって好きではありません。国語辞典を引くと意味がのっているのですが、あまりいい気のする言葉で示されていないんです。

今は、そんなことは言ってられません。中3という機会に、みんな一歩でも大きくなって、自立できるように私たちが手助けしてやらねばなりません。自立といっても、かなり意味が深いようですが、必要最小限のこと、例えば日常生活において最低限なことは、ある程度できるようになって欲しい。
(引用終わり)


私たちが手助けできることは援助しつつ、障害を持っている子どもたちが知らせてくれる〈リズム外れ〉の素晴らしい空想力も学んでいきたいものだと改めて思いました。

1992年3月23日発行
『第?期 障害児学級でのたのしい授業研究 No.1』(編集・発行 勇気りんりん より)

コメント(1)

こんな資料も残していたんだなあと思い出しました。表情(嬉しい)

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