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[西洋甲冑]Avalon[中世文化]コミュの 古代〜中世〜近代の雑学

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本やTVなどででてくるあまり知らない中世雑学をのせていきましょう

コメント(111)

中世では医療も十分ではなく戦争もおおく、天然痘などの疫病も流行したから人々にとって死は身近だった。だから絵画では骸骨が死の象徴としてよく登場する。教会は死んだ人を埋葬するが、階級の高いものや熱心なものは墓地ではなく教会の中に埋葬された。ヨーロッパの教会の床にはそのようなひとがたくさん埋葬されており、いまでも磨り減った床石には名前が刻まれ、その下に人埋葬されているのが確認できる。
教会に自分の遺体があるのは名誉なことであり、それがきれいな装飾となればすばらしい。
ローマにあるサンタ・マリア・インマコラータ・コンチェツィオーネ教会
http://www41.tok2.com/home/kanihei5/cimitero.html

以下 抜粋
ここにも砂時計が見られ、生が終わり死の到来を暗示しているが、この部屋の前の廊下には、指の骨を利用した「永遠」を示す「時計」がみられ、死を迎えても人生は続くということを表現している。 ↓左上の円形が、「永遠の時計」 そして、この最後の部屋には、こんなフレーズが、5ヶ国語で書かれている。 「What you are now we used to be: what we are now you will be_」「私達はかつて今のあなたのようだった:あなたもいずれ今の私達のようになるでしょう」
その数4000体。はじめは、現在の骨アートのみられる部屋に並べられていたようだが、法王の許可も取り付けて、19世紀までに、徐々に現在みられる形にされていった。 それにしても、こういう場所を訪れると、キリスト教の死に対する考え方の違いに驚かされる。日本では、神道の影響で「死・死体」は「忌むべきもの」とされることが多いし、仏教にしても、「輪廻の思想」から、魂の抜けた遺体は火葬にされて重要度が低いけれど、キリスト教においては、死人は「復活」するものであり、敬虔なキリスト教徒の遺体は聖なるものである
カルタゴの将軍ハンニバルは37頭の戦象をつれてアルプスを越えた。しかしたどり着いたのは3頭だけだった。というものの、ローマ軍を非常に驚かせた。
ハンニバルがどのようなルートを通ったか、現代でもわからず、謎解きのひとつになっている。時には「象と思われる巨大な骨をみた」とUMAもどきの話もでてくるが正確性のあるものはない。この象はアフリカ産だが小型でマイナーなマルミミゾウであったとされる。肩高240cmで現存する象で最も小さい。
ちなみに最後のマンモスが紀元前1700(クレタ文明、バビロニア王朝、夏王朝)ころにシベリアのウランゲリ島で狩猟された。
また、コルシカには肩高120cmほどの小さな象がいた。
絹は少なくとも紀元前3000年に中国で生産されていた。一説には紀元前6000年ともいわれる。紀元前1000の古代エジプトの遺跡から中国絹の断片が見つかっている。これらは海路、陸路を通して伝わったが生産方法はなぞだった。
中国ではカイコを国外に出すと死罪になるほど厳重に管理されていたからだ。しかし、あるとき死を覚悟して杖のなかにカイコを隠してもちだし、これが西洋で絹の生産のきっかけとなった。しかし、質は悪かった。
ローマでは同じ重さの金と交換されたほどで、贅沢品として何度も禁止されたがだめだった。ちなみに中世では綿の方が絹よりも高価だった。
西洋で量産ができ価値が下がったことと、綿はほとんど生産されなかったことが綿が高い原因だ。(標準的なギャンベゾンは鎧に劣らぬほど高いわけだ)
羽ペンはインクをつける筆記具としては非常に古い。Penはラテン語のPennaがもとでありこれは羽根を意味する。
多くはガチョウの風きり羽根をつかうが左翼から抜いた羽根のほうが右翼よりも高価であった。それは左翼の風きり羽根の軸のカーブのほうが右利きの場合
使いやすいからだ。良い羽根ペンは春に生きたガチョウから採集された。
白鳥、雁、七面鳥、猛禽類、カラス(細い線が書ける)などもつかわれた。
インクは木食子という植物に出来た虫こぶやイカの墨(セピア)などが使われた。さまざまな混合物が試された。特殊な場合には人血なども使われた。
中国では油煙、松煙、膠の混合物を紀元前5000年ころから使っていた。彼らは筆を使った。
近代だが19世紀ロンドンは人口が過密し死亡率も高かったから、墓地が不足だった。教会墓地は出来るだけ埋葬をしていたが「埋葬などは形ばかりであって、棺を積み重ね薄く槌をかぶせるだけ。そのために悪臭がひどく通行人までガスに巻かれて死んだというほどの噂があったり、遺体が腐敗した土はどす黒く、草も生えない。ついには悪臭を放つ汚泥と化し、教会自体が沈みこんでしまった」
「それでも教会を取り巻く塀を高くして埋葬を続けたら外塀が倒壊、遺骸が奔流となって街中に流れ出した」という記録が残っている。
これが元になって、火葬が推進され「世界火葬協会」が設立された。中にはH.G ウェルズも名を連ねている。現在イギリスでの火葬は71%。たのヨーロッパ諸国は10〜30%である。
:お骨のゆくえ 平凡社 横田睦
借金

ヘロドトスによると、エジプトでアシュキスという王の御代に、どうやらこの王様が相当に贅沢好きだったせいもあるようなんだが、金融が極度に逼迫したため、父親の遺体のミイラを担保にして借金ができる、という法律が公布されたらしい。一応、借金を返さない限り、葬式を出してもらえないという罰はあったらしいのだが…。


マルコ・ポーロは、債権者がなかなか借金を返そうとしない負債者のまわりに円を描くことに成功すると、完済するか、その日のうちに返済するという十分で信用できる担保を出さない限り、その円から出ることは許されない、という大マーバル地方(インド東南部)の慣習を紹介している。無断でそこから出ると死刑になる、とも。


古代ローマ社会が成立する前に地中海貿易を引き受けていたのはフェニキア人だった。地中海は比較的穏やかな海だが、海難事故がゼロではなかったし、彼らの一部にはジブラルタルを抜けてヨーロッパやアフリカに行くものもあって、そっちはさらに危険だった。なにより貿易航路における海賊被害は、船主たちの悩みの種になっていた。
そこで彼らは船で荷を運ぶとき、あらかじめその船や荷物を担保に借金をした。トラブルで損害が発生した場合は、その借金を賠償に充て、返済を免れることができた。ただし無事に航海を終えたら、当然利息をつけて返済しなければならなかった。利息は、フェニキアやギリシアの資料によるとだいたい2〜3.5割ほどで、けっこう高かったが、この風習は地中海世界に綿々と受け継がれ、紀元1230年にグレゴリウス9世による“利息禁止令”が出されるまで続いた。これを“冒険貸借”または“海上貸付”などという。

借金ではないが、こんな話もある。
その昔、金に困った貴族が、外国に荷物を運ぼうという船主とこんな取引をした。運ぶ荷物の何割かの金をくれたら、事故の賠償を肩代わりするというものだ。契約した船が無事に目的を達成すれば、貴族は元手なしに金を得ることができるが、なにかあったら完全に破産だから、ほとんど博打である。
当然、荷の中身や航路上の治安によって貰える金の割合が決まった。安全な航路を通る船なら得られる金も少なかったが、あまりに危険な地域を通る船だと積み荷の半額などという突拍子もないものもあった。たぶんこんなのにまで手を出して没落する貴族が後を絶たなかっただけならともかく、没落の仕方によっては賠償しきれないことにもなって、これでは商人のほうが困るので、商人や船主、個人保険者が組んで、保険組合を立ち上げた。

損害保険(海上保険)の始まりである。


スエズ運河建設を指揮したのは、フェルディナン・ド・レセップス(Ferdinand Marie Vicomte de Lesseps)というフランス人技師だったので、当初運河の管理は、フランスとエジプトが共同でやっていた。ところが、その建設費がエジプトの財政に重くのしかかった。そこでエジプト政府は、管理会社の株をフランスに売ろうとしたのだが、どういうわけかフランスは、その株をすぐには買おうとしなかった。
時のイギリス首相ベンジャミン・ディスレーリ(Benjamin Disraeli)は、この報を聞くや直ぐさまユダヤ系財閥ロスチャイルドと連絡を取り、2000万ポンドを借りて株を買収。スエズ運河の支配権を得ることに成功した。
このときディスレーリが担保にしたのが、イギリス政府。
>天然痘
1796年に予防接種法(種痘法)をジェンナーが発見したきっかけは、軽い牛痘にかかると天然痘の心配がないという迷信だった。
保険とスエズ運河の話は知っていたけど、19世紀になってからのフランスってやることが全て裏目にでてるよなぁ〜
それでも大国として居るだけ凄いと思ったりします。
欧州なんて攻めたり攻められたりで領土が増えたり減ったりしているのにフランスだけは地位を保っている。
私から見ればWW2での敗戦国なだけどね。あと中国もだけど。

>天然痘
ある少女の言葉が切っ掛けでジェンナーが試してみたら成功したという話ですね。
日本では天然痘を克服した人は、神仏の加護を受けたものとして畏敬の対象だったそうです。あばたが残ってしまうので一目でわかるし。ただ幕末の大流行までの話だとは思うのですが。
大阪市の中心部、中央区平野町には緒方洪庵が設立した種痘所の跡地に碑文がたってます。今は「うどんすき」の美々卯が平野町支店として店を構えています。
麻酔
現在の手術では欠かせない麻酔だが、中世では大麻、あるいはマンドレークが使われた。
中国ではアヘン、あるいは針麻酔がつかわれた。
南米文化ではコカが使われた。
全身麻酔は日本の華岡青州がチョウセンアサガオを用いて行った。記録が残っているのはこれが世界初である。手術は成功したが患者は視力を失った。
麻酔自体はかなり効果があったと思われるが、後遺症も多かった。しかし、手術そのものが半ば神への祈祷に依存していたから助かれば儲けもの、術中に死んでも痛くは無いわけだ。もちろん、麻酔は金がかかるので平民は麻酔無しであった。
中世も過ぎると西洋では麻酔そのものが使われなくなる。特に軍隊では麻酔なしでの手足切断が普通であり、海軍の場合、患者は革ベルトで縛り付けられ黒色火薬を混ぜたラム酒を飲まされ術に挑まされた。もちろん戦闘中は麻酔が効くほど待っておれない状況である事はたしかだが。
さて、ルイ16世は包茎であったといわれ手術をして子供たちに恵まれるのだが、
その手術をかなり長期にわたってためらっていた。
確かに麻酔無しであそこにメスを入れられるかと思うと、ましてや彼は学術に詳しい。当時の医療水準を考えると躊躇するのは当然だったろう。
歯の治療で、麻酔がなかったら死ぬなー。
歯周病治療のとき、歯茎にメスを入れて、ベロンとめくるのですが、麻酔のお陰でなんともなかった。
古代ギリシャのオリンピック

4年に一度ひらかれ1200年間一度も中断されなかった。
テレモピュライの戦いでスパルタ300人の戦士と戦ったぺルシャ王は他のギリシャ同盟軍はオリンピックで観戦に行ってることをしり愕然とした。「国の存亡よりもレスリング決勝戦のほうが大事なのか!」

そのオリンピックは5日間開催されるがスポーツだけでなく芸術、音楽、言論、劇、舞踊、全てが行われた。オリンピックはゼウスの祭典だったが実質的な支配はバッカスだったかもしれない。あるいはアフロディテか?観戦は女性は原則的に禁止だったが集まってくる人を目当てに多くの女性も来たし、男も性別を問わず恋をした。

ゼウスの祭典の競技会にはでられなかったがヘラをたたえる祭典には少女だけのものがあった。丈の短いチュニックを着て左の乳房をだした。目がハート
例外はスパルタでここでは女性も槍投げ、円盤投げ、レスリングをした。もちろん男と同じく全裸でオリーブオイルを塗った目がハート目がハート
スパルタの少女は「ファイノメリデス(太ももを露出するひと)」と呼ばれたうれしい顔うれしい顔

スタジアムの反響回廊は驚異的な設計であらゆる音が7回こだました。
そのオリンピックは神への祭典でもあったためたくさんのいけにえが屠られ、トイレも無く風呂もなかったので恐ろしく不衛生だった。水源も遠かった。ハエは大量に発生し、ブヨ、蚊、アブ。人伝いにシラミ、蚤。疫病が発生しなかったのはゼウスのおかげであった。哲学者タレスは観戦中に脱水症で死んだ。

オリンピック選手の指導者はそれぞれが独自の練習法を考えたが、それは現在のフィットネス方法とやってることは同じだ。本もあった「鋼鉄のヒップ」「スーパー腹筋」「二週間で出来るスーパーボディ」完璧な肉体を美とあがめる裕福層はこれらを買い求め、健康を壊してまでフットネスしたのも現代と同じ。

エーゲ海に囲まれたギリシャでは泳げることは当たり前であった。オリンピアにはプールがあったが競泳はなかった。しかし、他の国家のスタジアムではボートや3段櫂ガレオン船の競争もあった。
ついでにガレオン船のこぎ手は奴隷ではなく、貧しくはあっても市民でありほとんどが志願だった。給料は支給されたし戦闘では最終的に剣を持って戦った。

多くの資料は壷などに書かれた絵を見てわかる。短距離走は面白いことに右手右足、左手左足がペアで動かされている。これは長距離走が左手右足 右手左足と普通にかかれていることから あきらかに意図的である。

レスリングで有名なミロは少年のころから子牛を抱えあげるトレーニングを積んで5回優勝した。あるとき田舎で木の幹にくさびが打ちこまれているのを見て
力自慢の彼は幹を素手で真っ二つに割ってやろうと手をかけた。ところがくさびがはずれ手を挟まれて動けなくなった。その夜、狼があつまり食い殺されてしまった。





源氏

“南北朝”というと、日本では源氏が開き北条氏に乗っ取られた鎌倉幕府が倒れたあとの時代を指すが、南北朝時代は中国にもベトナムだとかにも存在する。というか、二つの政権が南北に分かれて争ってたら、それで南北朝である。ただ南北朝時代は、各国に一つずつしか命名されない。ベトナムの南北朝も、所謂ベトナム戦争ごろのことではなく、16世紀の話である。しかし、ここでの本題は、中国の南北朝、だいたい5〜6世紀の北魏のお話。
(前振り長すぎ)

“北魏”は、鮮卑(せんぴ)族拓跋(たくばつ)氏という北方騎馬民族が建てた国である。“北”は後代に区別するためにつけたもので、当の国では単に“魏”と称していた。魏は戦国時代や三国時代などにも存在し、しかも件の“北魏”が“東魏”と“西魏”に分裂しているのだ。ややこしくてしょうがない。
その北魏の拓跋氏だが、5世紀の終わりごろの漢化政策によって、中国風に“元”という姓に改姓した。中国周辺の民族が中国文化に耽溺して、名前を変えたり、自分の生活を変えたりというのはよくある話だが、これもその一例である。このとき、拓跋ではなく禿髪(拓跋と同音かそれに近いと思われる)氏の臣下に“源(元と同音)”の氏を与えたことがあり、これが日本の皇族離脱者に“源”姓の与えるという慣習としても伝わったという説がある。
この慣習が、いつ、どうやって日本に伝わったかはわからないが、ちょうど6世紀初めごろの北魏の皇帝が仏教を熱心に信仰し、さらに日本に仏教が伝来したのが6世紀前半くらいといわれているので、このとき一緒に伝わったのかもしれない。きっと日本でも中国文化に憧れて、取り入れたのであろう。

残念ながら“源氏”の始まりは、漢民族にはないのであった。
当時、貴族はベッドの中でさまざまなことをした。例えば王は謁見をベッドの中から行った。天蓋つきのベッドはそのような場合、威厳をもたせるがもちろん夜はプライベートのための目隠しであり寒気を防ぐためでもあった。
ベッドに入る前はウォーム・パンという蓋つきフライパンのようなものでベッドを暖めるのが召し使いの仕事だった。トイレもベッドの中でたした。使ったのは尿瓶だった。もちろん平民は尿瓶など買うお金はないので尿瓶を使うのは金持ちか貴族だけだったから、豪華な彩色や彫刻をした陶器があり現在ではそのコレクターも多い。
ルイ14世は歯がなかった。これは侍従医の健康法を信じたためで、それは「全ての病気の源は歯である」というなんとも理解しがたいものなのだが、それを信じた結果である。当然麻酔無しで歯茎には焼きコテを当てられた。このような拷問的治療を何度も繰り返すのだから、さすが一国の王様であった。で、その結果流動食めいたものしか食べられなくなりおなかを壊したので浣腸をされた(浣腸と瀉血は当時の一般的な治療だった)何度も浣腸をされるので痔になった。ベルサイユ宮殿におまるがたくさんあるのはそのような意味もある。

ついでに瀉血は医療用ヒルをつかった。これは現在でも効能があることは証明済みで欧米ではヒル治療が見直されている。

もう一つ医療といえばマゴット(maggot)ウジである。ウジは殺菌効果のある分泌液をだしながら腐った肉を食べる。生きている組織はたべない。これはローマ時代から知られていた。現在でも糖尿病の壊疽ちりょうなどに使われる。
フランス革命はギロチンがその象徴だが、ルイやマリー・アントワネットをはじめ多くの首をはねた処刑人アンリ・サンソンは熱心な死刑廃止論者であったし王家を敬愛していた。何度も死刑廃止嘆願書を出したが結局は歴史上2番目に数多く処刑した人物となった。ルイの首をはねた時彼は禁止されているミサを私費を払って行った。

また、ギロチンは奇妙な流行を生んだ。玩具がでて鶏の首をはねる遊びが流行した。サロンでは政治敵の人形があり、首をはねると赤いリキュールがでてくるという悪趣味なものだったし、舞踏会では首筋で髪を短く切り赤い布やスカーフを巻いた。

そのギロチンはシュミット工房というチェンバロ製作会社にオーダーされ、独占企業となった。この会社は現在でも楽器を作っている。

フランス革命がもたらしたものは、人間中心、ローマに返る人文ルネッサンスとも言うべきものだったからローマ風の衣装も復活した。それはそれまでの窮屈なロココスタイルとは違い、大きな反動があり開放感があった。それはゆったりとして、生地はすけすけ、乳首もほかもという現代でも目のやり場に困るものだった。

革命記念日ですけすけ、薄手のこの服装をした若い女性は肺炎になって死んでしまった。
傭兵
傭兵といえばランツクネヒトが有名だが、元もと彼らはスイス傭兵の弟分になる。両者は犬猿の仲で商売敵でもあり、戦場で会うととことんやり合ったが、その内容はかなり違う。
スイスは山岳で主たる産業もないので「傭兵」は出稼ぎ産業で「血の輸出」といわれた。国元の公的機関が窓口となり各国に派遣された。
初期の頃は派遣先との契約で敵味方、同じスイス人同士戦わないよう調節されたし、もしそのような状況の場合は契約違反となった。
彼らは自国産業の誇りをもって(臆病だと仕事が無くなる)勇猛果敢に戦った。
中世当時、捕虜は身代金のために生かされたがスイス傭兵は相手に恐怖を与えるためすぐに殺した。
近世、フランスのルイ14世は幼い頃池でおぼれかかりスイス傭兵に助けられたといわれ、彼らに親近感を持ち常設軍の中に取り入れていたが、彼らの司法、その他独立性はフランス軍とは別に保証されていた。スイス傭兵の賃金は高かったのである高官が「彼らに支払う金を敷き詰めるとパリからべーゼルまでを覆ってしまう」とスイスの将軍に文句を言ったところ「フランス人のためにスイス人が流した血はパリからベーゼルまでの全ての河川に満ちあふれている」と切り替えされた。
ルイ14世は「ナント勅令」を廃止しユグノー教徒を追い払ったが、かれらは優れた技術、頭脳集団でありその一部はスイスに行き時計を作り始めた。これがスイス時計の始まりになり、スイスはここにきてようやく傭兵以外の輸出産業が
始まった。スイス傭兵はフランス革命で王室を護り最後の一兵まで戦った。

一方ランツクネヒトは私的企業であり傭兵隊長(社長)の管理と指揮に任せられる。食い詰め者の集まりであったが、「自由」であった。もちろん「自由」とはスイス傭兵の秩序と管理に対してのアンチテーゼではた迷惑な(追いはぎ行為まで含む)自由であった。意外なことにランツクネヒトはまれに見る民主的な組織であり兵の中にアミッサーテンという役職がある。
これは兵の利益を代表する者で兵士集会の選挙できまる。つまりい現代の労働組合のような物であった。
新入りの傭兵は月4グルデンもらったが、これは当時職人親方の稼ぎに匹敵したからかなりいい。はずだが、ここから長槍代がレンタル料として2グルデンひかれ、それ以外にも様々な名目でピンハネされたので現代のタコ部屋とおなじだった。
彼らの服は中世では異様であったが、それは命を張って戦う男気を皇帝が認めたからであった。まさにこれは日本で言うバサラとか旗本奴や歌舞伎者とおなじだった。
税金。
現代も中世も税金をとる名目は様々ある。人間そのものにかけられる人頭税な
どは悪税の一つだが、結婚許可税というのもあった。
もっとひどいのは死亡税。死んだら税金を取られるのだ。
塩は貴重で生活に必需なため中国では10倍もの税金をかけられ2000年もの間、
国家財政の基盤となったが安く密売するもの(塩賊)がでて唐の崩壊へとつながった。これは言ってみれば偽造紙幣とおなじことであった。
天皇家は
世界的に最も古くかつ現在まで血縁のつながっている一族だが、宮中には奈良時代から「小石丸」という種のカイコが飼われている。この飼育を中止しようと話が出たとき、反対したのは美智子皇后であった。現在この種は全国的に飼わ
れている。美術絵画の修復や皇族のドレスはこの絹糸で作られることが多い。
ギロチンの恐怖から逃れた後のフランスの流行は男性のほうが奇妙ですよ

「イギリスの田舎服の奇妙なイミテーション」
イギリスの狩猟服におそろしく長い尻尾をつけた極端に短いチョッキに異様な形の長靴(手持ちの資料の中に図や解説がないのが残念)をはき、非常に高いカラーを頭の後ろに立てて、そしてあごから口まで隠してしまうたっぷりしたえりまきを巻いた。かつらや髪粉はすっかり忘れ去られてしまい、ぼさぼさの髪の毛を、ひたいの上にたらした
…1790年代フランスのおしゃれな男性たち”アンクロワヤブル”の流行

手持ちの資料の著者はイギリス人なので多少皮肉って書いているところもあるとは思います

女性の2ローブ・アン・シュミーズ”は薄い生地のハイウエストでスカートは足首まで
下着はつけてますが透ける生地を霧吹きで湿らせてギリシャ彫刻のように体の線と衣装の起伏が出るようにしたといいますから確かに目のやり場には困ったでしょうがロココ調よりはおとなしいかもw

この頃から発行され始めたファッションプレート「ギャレリ・ド・モード」
「ギャラリ・オブ・ファッション」等はビキトリア・アルバート・ミュージアムに収蔵されてるらしいです。見に行きたいなぁ
周の時代。
この時代の戦いは戦車だった。車輪をもつ戦車は地面の凹凸に大きく影響したので、軍事同盟を結ぶと農地の畦(あぜ)の方向をお互いにそろえた。畦の向きをかえると戦車は進みにくくなるからだ。
ロンドンにあるテンプル教会は名のごとくテンプル騎士団が建てたもので、中心となるラウンドチャーチには9人の騎士像がある。その一人、ウィリアム・マーシャルはトーナメントの達人で、イングランド中のトーナメントで連戦連勝、500以上の一騎打ちに勝利し一度も負けなかった。
魚料理用のナイフとフォークはヴィクトリア時代以前はなかった。それ以前はフォークを2本使って食べた。だから、この時代の社交界に入りたい人は自分の家はヴィクトリア時代以前から続いている古い家系であるとPRするため、魚をフォーク2本使って食べた。つまり、我が家にある銀のディナーセットはヴィクトリア以前に購入した由緒ある古いものなので、魚用フォーク・ナイフはセットの中に入っていなかった。というわけである。
ルイ16世は人道的見地から死刑廃止を考えていたがロベスピエールやマラーもおなじだった。しかし、ギロチンという手軽な断頭マシンの登場で処刑が簡単手軽に出来るようになってしまった。また、断頭台へ送られた人々は粛々と運命を受け入れたため、さらに処刑死が事務的に受け入れられた。
ルイ15世の妾、処刑人アンリ・サンソンもつきあっていたデュ・バリ夫人のように泣きわめき、助手の腕を咬みちぎるほどの抵抗が多ければ、もっと処刑は減っていただろう。とアンリ・サンソンは書いている。

最盛期ではフランス国中で数分に一つの頭が切り落とされた計算になる。

処刑人は特殊な立場だった。貴族並みの年俸をもらい、貴族ともつき合い、帯剣も許されていたが、一般的には卑しい身分と見なされ市民権もなかった。

日本の斬首と西洋の斬首では大きく異なる。日本では武士は切腹とともに頸をおとされる。しかし、武士以外は切腹がないので助手が数人で手足を押さえるのため、死刑囚があばれてし損じることもあった。
西洋では斬首は貴族だけであり一般人は絞首刑だった。高貴な人間は覚悟を決めたら自ら首を差し出すべきある物だったので
執行人は一人であり、死刑囚の人格と協力が要求されたのである。

中世の山城は山の頂上に建てられるがそこまで行く道路は時計回りに山を回るようにつけられることが多い。
これはこちら方向だと攻撃側は盾を持たない右半身をさらすからである。
叙事詩「ヴァイガロイス」のなかでグロイス城の特殊な防御が述べられている。
それは水車動力によって回転する鎌が城門をまもり、」通過するときはこれを止めねばならなかった。
これげ実際にあったかどうかは不明。城には塔があるが、入口は通常2階以上にありハシゴか階段で上り下りしいざとなったら立てこもった。この塔は最後の守りであり、堅牢だった。地下は掘り抜きの深い穴があり地下牢に使われた。罪人はロープで吊されておろされた。糞尿、汚物はそのままで蓋を閉めると真っ暗である。一番上には塔番が住み込んだが、彼の重要な仕事なので結婚は出来なかった。
城は良質な水源を確保するのは大切だった。ニュルンベルク城の井戸は70m、
ハールブルク城の井戸は128mあった。

出されたフィンガーボールの扱いを知らずに飲んでしまった客人の名誉を守るために、女王自らもフィンガーボールの水を飲んだというマナーは有名だが、
ドイツのシュバーヴェン伯爵が催した宴会で皇帝フリードリヒ2世の酒盃のなかに蛙が入っていた。伯爵はその蛙を生きたまま飲み込んだ。
これで皇帝を毒殺しようとしたのではないかという疑いを晴らしたわけだ。
1000年ごろの男子の上着はひざあたりまでの長さだったが、次第に長くなりすそを引きずるほどになった。ノルゥェー王スヴェルレは「廷臣も騎士も女みたいな衣装だ」と嘆いたが、その後すそは短くなり、1300年ころになると「若い男の上着は短すぎて尻も股間も隠していない、恥知らずなこと」と嘆くようになった。
レディの服も長くなりついには前を持ち上げないと歩けなくなるほどだった。
当時、姿勢は上半身を後ろに反り返らせるのがエレガントとされていて、写本にのポーズもそれが多いが、そうしなければすそが絡みつくからでもあった。
服の左右を色変えしカウンターチェンジにしたものは「ミパルティ」というが、特に高貴なものとされ、本来騎士のみに許されていた。また、色には意味合いがあり
赤は燃える恋、または名誉、闘争。緑は芽生える愛、青は誠実、黄色は幸福、黒は死であった。現在は黒のみが喪服の色として残っている。
中世軍隊の進軍速度は平均一日に20キロほどだった。これは8時間平均で  とな
る。馬に乗った騎士も結局は野営設備を運ぶ荷馬車や従者に合わせるしかないので、
馬に乗っていて楽であるということしかない。
当時の道路事情を考えると、速いほうである。ところが猛烈な強行軍もあった。12
68年1月の記録では二日で107キロというのがあるし、フリードリヒ皇帝は12
36年10月30日から11月1日のあいだの朝までに 112キロも移動している。
夏は「血の季節」といわれ7月から9月までは戦争三昧であった。12月と1月は5
00年の間に9例の戦争が記録にあるだけであった。日曜日に闘うことは良いとは思
われていなかったが、土曜日は戦闘日として好まれていたようだ。満月の夜にも戦闘
が好まれた。

旗持ちは最も勇敢な戦士が持つ栄誉あるものだったが、これは
旗が倒れること=司令中枢が蹂躙された=負け戦が視覚的にわかる。わけで旗を倒さ
れてはならなかった。イタリア人はそのうち旗と車と合体させ牛に引かせた。
牛は馬と違ってあまり興奮しないからだ。これは旗車(カルロッチョ)とよばれ後に
は狭間で防護され 護衛がのりこみ簡単な移動砦となった。

13世紀頃はガラスはたいへん高価だった。離れた場所に幾つか家を持っていた貴族はガラス板がはめ込まれた窓を枠ごとつくり一つの家から別の家に移動させた。

パンの価格は種類ごとに法律できまっていた。また、その年の小麦収穫量に応じて変更された。
質や量をごまかさないためにパンには店の焼き印をおした。不正を摘発されたパン屋はそのパンを首から下げてさらしものとなった。

レディの心得。道でレディはまっすぐ歩き小走りなどしてはならない。貧しい者にも挨拶をすること。夫外に胸を触らせてはならない。ピンやブローチを付けるときは夫の手を借りること。
レディは贈り物を受け取らない。密かに渡された贈り物は高く付くからだ。
きちんと対価を払い誇り正しく受け取るべきである。また、品物を買うときももそれにあった対価を支払うべきで値切るのは作った職人への技術を冒涜することである。もっとも、こころからの贈り物は心よりうけとるのがよい。

出産のときは男は医師であっても立ち会わず、すべて産婆にまかせた。ルイ9世は十字軍遠征に后を同行させたとき産婆も一人連れて行った。結局彼女は遠征中に二人の赤ん坊をとりあげた。
分娩がうまくいかないときは妊婦の髪はほどかれ家中の全ての扉、引き出しはあけられ、全ての結び目がほどかれた。

職人の女房は夫と一緒に仕事をすることが多く、娘も息子と一緒に働き仕事を覚えた。大工、タイル職人、家具師、馬具師、一般には男が多い職場も女性は働いたが賃金は安かった。夫が死ねばその後を女房が引き継いで仕事を切り盛りすることも多かった。

薔薇、ザクロなどは十字軍を通じて東方から来た。修道院では果樹園、ハーブ園、など多くの植物が栽培されていた。修道院がなければ絶滅していた植物は多い。

麦角(バッカク)麦などのつくバッカク菌は中世よりその危険性が知られていた。994年にはフランスで4万人が手足がどす黒くなり腐ってしんだ。
この病気は聖アンソニーの火とよばれ、名前の由来はこの病気に掛かっても104才まで生きたと言われる聖アンソニーとアンソニー派の修道会が看病をしたことからだ。病に冒された者は聖地巡礼に行けば良くなった。これはその土地の麦を食わなくなること、つまり転地療法となるのだ。セイレムの魔女もこれが原因ではないかといわれる。
また、このバッカク菌からLSDが作られた。

キョウチクトウ 大気汚染に強くピンクの花を付けるキョウチクトウは生け垣などによく使われる。ところがこれは猛毒でアレクサンダー大王の軍隊は
肉をあぶる串にキョウチクトウの枝を使ったので大量の兵が死亡した。キョウチクトウは燃やした煙でも猛毒なので庭持ちは充分気を付けること。

ヒヨス ナス科のヒヨスは幻覚作用を持つ。これはギリシャ神話に既に登場し、煙をすって硬骨となった巫女達は神託をさずけた。しかし中世では悪魔の草といわれるようになった。ヒヨスは軟膏としてぬっても幻覚作用が起きる。サバトで魔女達が空を飛ぶ前にぬる魔女の軟膏がこれである。幻覚の典型的なものは頭痛にはじまり明るい光、身体の浮遊感、周囲がぐるぐる回るようにかんじ12時間も継続するらしい。

ベラドンナ 昔から使われる毒草だが、このもう一つの特徴は点眼すると瞳孔が拡大するため目が大きく見えることだ。女性達はベラドンナの目薬をつかったが、死亡することも多かった。

イチイ 私の近くの庭にこの木が植えられていて秋に赤い実が付く。これは甘くて食べられるので会社の帰りなどに口にする。ところが実以外は毒がある(知らなかった!)致死量は生の葉っぱで馬なら1グラム。誤って種を飲み込んだら死ぬ程であった。ちなみにイチイはイングランドロングボウの弓材料としてつかわれるので、イギリスではこのイチイを植えることが奨励された。

ドクニンジン
ソクラテスが自殺に使った事で有名だが、効き目の速い毒を飲めるのはエリートだったからだ。当時、毒渡し屋という職業があったようであいての希望に応じた毒を用意し、用法と症状を説明し最後まで看取った。ドクター・キリコのようなものだろう。ドクニンジンは中枢神経に作用するので四肢の硬直にはじまりそれが徐々に中央に到達する。やがて横隔膜が動かなくなり吸が出来なくなり死亡するが最後まで意識はある。自分の死を自分で見るまさに哲学者の毒である。

ケシ ケシは古代から知られており貴重な麻酔として使用された。しかし、近代では阿片の材料となって大量に廃人を作ることとなった。阿片は煙で吸飲するがそれ以前は余りにもまずいのでワインなどに混ぜられたがこの方法は大量摂取ができないのでそれほどひどい中毒にならないのだ。しかし、阿片パイプで吸飲すると多量に摂取できる。阿片パイプはたばこと吸い方が異なる。耳かきほどに取り針金の先に付けて火にあぶる。暖まると粘土のようになるのでこれを小さく丸める。いつまでも転がしていても固くなるので加減が難しい。焦がしてもいけない。ほのかな煙が出始めたらパイプに入れて吸う。この加減は熟練の技がいるので金持ちは「阿片丸め専用係り」をもっていたし阿片窟ではチップにも差が出た。
「毒草を食べてみた」文春新書
麦角も魔女のものといわれましたね

産婆さんが陣痛促進剤や堕胎薬として利用したそうです
>100…テーブルマナーに関連して

孔子といえば、礼の国ともいわれた春秋魯国の出身で、かの“論語”を著した学者さんである。その彼が魯国の宮廷にお呼ばれされたとき、桃と黍飯が出された。このときのメインディッシュは桃のほうで、黍飯は桃の皮毛を雪ぐ(取り除く)ためのものだったが、孔子サマは先ず黍飯を食べてしまい、そのあとで桃に手をつけた。それを見た宮廷の人たちは笑ったが、孔子サマ曰く、“黍は五穀の長で最上の供物ですが、桃は六種の果実の末席にあり、祭祀に供えることすらできません。下等のもので上等のものを雪ぐのは非礼ゆえ、黍を先に頂きました”。
さて、これが国主だとか宮廷の人に礼を諭すためだったのか、単に貴族の贅沢な食べかたを知らなかっただけなのかは定かではないが、ここには面白いウラがある。桃が饗されている以上、黍飯を食べるための道具は出されていない。つまり(既に発明されていた)箸は、ここになかったのだ。ということは、孔子サマは黍飯を(なんと!)手づかみで食べた?

このころ、箸や匙は既にあったが、羮(温かい汁料理)を食べるのに使うもので、穀類のご飯は手で食べるのがマナーだった。ある古文書には“飯必奉擥、羮不以手(飯は必ず手で捧げ、羮に手は使わない)”とあって、羮を手づかみは大やけどだから誰もやらないとしても、豆なども手で食べてよかったのだ。そのあたり、豆を一粒一粒別の皿に移動させて練習する現代のほうが、厳しいのかもしれない。
様々な分野に利用されている硫酸は、8世紀ごろのイスラムの錬金術師アブー・ムーサー・ジャービル・イブン・ハイヤーン(ラテン名ゲーベル)の手で発見された。ゲーベルは塩酸や硝酸なども発見し王水(塩酸と硝酸の混合物で、金をも溶かす強酸)も発明した、偉大な科学者である。
という説が一般的なのだが、ちょっと違うところがあるらしい。ゲーベルが偉大な科学者で、塩酸や硝酸に関する事績はほぼこの通りだが、硫酸を発見したのは、実は1300年ごろにあるスペイン人のようなのだ。彼のスペイン人は硫酸の製法を発見したのに、それをゲーベルの秘法と宣伝した。
その結果、硫酸の発見者としてゲーベルの名が残っているが、スペイン人科学者については名前すらわからない。
紀元前6000年ごろ、地球ではだいたい新石器時代くらいだが、地球から牡牛座の方向に約7,000光年離れたところで超新星が爆発した。
紀元1054年。その爆発の光が地球に届いた。
中国の宋史巻十二 本紀第十二 仁宗四には、
(嘉祐元年三月)辛未司天監言自至和元年五月客星晨出東方守天關至是没
[(嘉祐元年三月)辛未の日(1056年4月5日)に司天監(天文官)より、至和元(1054)年五月から東の空に出ていた客星(突然現れた明るい星)が消えたと報告があった]
とあり、宋史巻五十六 天文志九 客星の項には、
至和元年五月己丑出天關東南可數寸歳餘稍没
[(客星が)至和元年五月己丑(1054年7月4日)に東南の空に出たがほんの数年で消えていった]
と記されている。その光は昼間でも見え、ピークの時は金星よりも明るかったという。
また“明月記”という日本の藤原定家の日記にも(年代があわないので伝聞らしいのだが)記述があるし、アラビアにも記録がある。さらにはアリゾナにあるアメリカ・インディアンの壁画にも、この超新星爆発が描かれているといわれている。
ところがヨーロッパには、この超新星に関する記録が残っていないらしい。こんなに各地で記録されているのだから、ヨーロッパ人が誰一人として気づかなかったということはないと思うのだが、最初にこの星を記録したヨーロッパ人はジョン・ベヴィス(John Bevis)というイギリス人で、のちにシャルル・メシエ(Charles Messier)がメシエカタログ第1号に収録した。

現在、この超新星の残骸は、“かに星雲”と呼ばれている。
ドイツといえばエーベルバッハ少佐を出すまでも無く「ジャガイモ料理」だが、もちろん、これは新大陸から来たものだ。荒れた土地でも収穫できるこの新しい食材をなんとか農民に広げようと時のフリードリッヒ大王はいろいろ試みたが、ジャガイモは土くれのようで見てくれが悪いのでひろがらない。そこで彼は「ジャガイモは貴族以外食用禁止」と発令をした。すると、貴族が食べる食べ物を皆がほしがりまねをするのでまたたくまに国中に広がった。「人は覗くな。と禁止すれば覗くものである」
おなじくフランスでは敬愛すべきルイ16世陛下はじゃがいもを民衆に食べさせるために畑にうえて立て札を立てた「王家と貴族以外は食してはならぬ」見張りも付けたが警備はわざとルーズであった。もちろんこの方法は大当たりだった。
戦争での傷のてあては昔は麻酔などは無かった。焼きごてをあてて焼却するのだが、これは1.血管を焼き潰し出血を少なくする。2.末梢神経が死ぬので痛みを感じなくなる。3.細菌感染の知識は無かったが結果として殺菌の効果があった。
1,2については間違いの無い事実であることを保証する

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