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シルクロード学コミュのシルクロード人物伝

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シルクロードの歴史上活躍した人物について語り合うトピックです。
興味がおありの人物について、紹介したいことなどありましたら、こちらにお願いいたします。

管理人が特に興味を持っているのは、武帝、張騫(ともに前漢)、班超、甘英(ともに後漢)、玄奘(唐)、マルコ・ポーロ(13世紀)、ティムール(14〜15世紀)、ウルグ・ベク(15世紀)、スヴェン・ヘディン、オーレル・スタイン、ポール・ペリオ(ともに20世紀)などです。

コメント(19)

このトピックの絵柄に「江上波夫」さんが登場してますね

「騎馬民族国家」中公新書 s42.11.25初版
もうひとつ
「遊牧騎馬民族国家」護(もり)雅夫 講談社現代新書 s42.06.16初版
日本国家のルーツ探し、学術的だと(思われている)

京都西本願寺の大谷光瑞さんが「仏教伝来の道の調査」で大谷探検隊が組織された
第一次(1902〜1904)
第2次(1908〜1909)
第3次(1910〜1914)

外国では、1830英国、王立地理学会発足(英国は大切な植民地インドをもっていた)
1845ロシア、帝国ロシア地理協会発足(シベリア支配後、南下して中央アジア支配したい)
ロシアは、地理学者ペ・セミョーノフその弟子ニコライ・プルジェワルシキー陸軍大尉が中央アジアを探検し、地図を作り、いかに先に発見したかを争った。〜1886。
次に、ドイツの地理学者リヒトホーヘン(「シルクロード」の命名者)の弟子スウェン・ヘディンの探検が始まる
第1次(1893〜1897)
第2次(1899〜1902)ロシア皇帝ニコライ2世の協力あり
第3次(1906〜1908)スウェーデン国王オスカルの本格的後援あり1908日本に招待される。帰国して英国王立地理学会と対立、又ロシアのニコライ2世とも決裂。(この辺国際政治に巻き込まれておりますね)
第4次(1923から準備を始め、アメリカでヘンリーフォードに会い探検用自動車の提供を受ける。日本を訪ねたが関東大震災に遭遇。北京から自動車でシベリアを抜けモスクワに至りボルシェビキの歓迎を受ける。1925ドイツのフーゴー・ユンカースから、飛行機をドイツ〜中国にまで飛ばす計画をもちかけられる。1926ルフトハンザより飛行機の援助。中国が反発(裏でイギリス関与?)中国との共同調査とし、1927出発〜1935)
ヘディンは、ヒトラーに魅せられ、ナチに傾斜してゆく

イギリスのスタイン
第1次(1900〜1901)
第2次(1906〜1908)
第3次(1913〜1916)
根こそぎ、ともいえる程、遺物、古文書を持ち帰る
第4次(1929)発掘を禁じられる

フランスのポール・ペリオ
1908、5000点の古文書をフランスに持ち帰る「帝国主義の略奪」と中国から猛烈な抗議をうける

ドイツも1902〜1914に探検隊を送る

なんだか年表の羅列で終わっちゃいました。日本の探検隊も純粋学術的なもの、とは言い難いですね。当時の地政学的グレード・ゲームの最中にやってますから。
>fetchさん
詳しい情報・解説を頂き、ありがとうございます。

19世紀末から20世紀初頭にかけては、列強のアジア進出に翻弄された探検であったようですね。
ヘディンの著作などを読むと、探検に至る過程にも当時の中国の政情不安が強く反映されていますし。
新疆ウイグル自治区のカシュガルも、当時は物資の補給基地として着目され、大国のグレートゲームの渦中に置かれた、という事実もあったようです。

トルファンのベゼクリク遺跡に行った時、壁画がほとんど残っていないことに驚きましたが、壁画の多くはル・コックによってドイツに持ち去られたと聞きました。
列強がシルクロードの文化遺産を持ち帰ってしまったことは、遺跡の保存という観点からすれば、とても残念です。
ただ、それによってヨーロッパで東洋学が深化したという事実もあり、とても複雑な気持ちです。

ぺリオが持ち帰った遺物はパリのギメ美術館に貢献しましたが、ル・コックが持ち帰ったものはベルリンの空襲ですべて失われたと言いますから、様々な運命にも翻弄されているのですね。
>万里子♪さん
コンスタンティノープルの歴史は、様々な変遷があってなかなか面白いですよね。
東方からやって来た騎馬民族のトルコが、ついには東ローマを破って強大な帝国を打ち立てるのですから、本当にドラマティックですね。
マホメット2世については、私はあまり詳しく知らないです。塩野七生の本も読んでいないので、今度勉強してみようと思います。

コンスタンティノープルといえば、東ローマにも興味があります。シルクロードとの関わりでは、東ローマの皇女がモンゴルのイル・ハーン国に嫁いだりもしているようです。モンゴルはユーラシアの覇者だったんだと、あらためて思います・・・。

仏教系の学校のご出身とお聞きしていましたが、本願寺派だったのですね。
大谷探検隊と言えば、トルファンのアスターナ古墳から持ち帰った布製のミイラの仮面をめぐるミステリー?が、とても面白かったです。
確か、ササン朝ペルシャの依頼で長安で作られた2種類の織物が、一つはトルファンのミイラの仮面になり、もう一つは遣隋使が持ち帰って法隆寺に収められている、ということだったと思います。

何だか、すごくロマンを感じさせる話でした。
一週間のご無沙汰です(笑;ロッテ歌のアルバム、ご存じの方は40歳以上でしょう)

私は京都のぼんぼん(バカボンではありません)ですが祇園祭の長刀鉾の装飾品のゴブラン織のタペストリー?に大変興味を覚えます(コンスタンティノープルとかササン朝ペルシャとかの臭いを感じます。
京都に太秦(映画村でご存じかな)という地域がある。秦氏(渡来人)が住み着いたんです。養蚕を伝えたんでしょう、西陣織とかで残っている。(シルクロードの到達点でしょうか)

ユダヤとシルクロード
その秦氏はユダヤという説があります。「ユダヤの失われた10支族」でユダヤのラビが熱心に最近出版されております
出エジプト〜日本まで、まさにシルクロードとユダヤが併走している。満州帝国とユダヤの関係も興味深い。現在の「イスラエル」以前に満州にて「フグ計画」というものがあり、ユダヤの植民が計画されていた。杉原千畝のナチスからのユダヤ人保護6千人は有名でありますが、その前に東条英機らの保護2万人という事実は戦後黙殺されている・・「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー、徳間書店、2006.01.31

張作霖ら、馬賊のシルクロード
「馬賊で見る満州」澁谷由里、講談社選書メチエ、2004.12.10
リットン調査団報告書(渡部昇一、株ビジネス社、2006.11.24)でもいってましたがこの地域の歴史、特殊性(おそらくジンギス・ハン以来からのもの)がある。決して中国の一部では、無いなー
万里の長城を築造して彼ら「東夷」を恐れておりましたからね。

タリバン達のシルクロード
石窟を壊した頃、ビンラヂン、9.11確実に存在をアッピールしてますね(アメリカと2人3脚してるような気もするが;笑)

でもやはり「西遊記」が浪漫があってステキであります!
長々とごめんなさい。
いろんなお話、楽しみにしてます。旅行記も期待しております!
>fetchさん
京都は私も大好きなところです。奥深い歴史が感じられるので、折に触れ様々な京都の表情を見てきました。
が、やはり住んでいらっしゃる方にはかないません。祇園祭は、まだ一度も実際に見たことはないのです。
お書きになっているタペストリーのことは、私も何かで聞いたことがあるような気がします。今はっきりとは思い出せないのですが・・・。
シルクロードの香りがするとのこと、私も、そのタペストリーをじっくりと見てみたい気がします。

太秦を本拠地とした秦氏は、渡来人として日本に織物の技術を伝えたと言われていますね。当時の日本は大変国際的で、中国や朝鮮半島から高度な技術を持った人たちが大勢渡来し、日本の国作りに協力してくれたのでしょうね。
また、シルクロードを通じてインドやペルシャともつながっていた、とても素晴らしい時代であったと思います。

ユダヤ人は、長い迫害の歴史を生き抜いて自らの文化を守ってきただけに、様々な願いが後の世に浪漫を生み出したのでしょうね。
日本にも、いわゆる「貴子流離譚」というような、歴史上迫害されたり悲劇を背負った人物を主人公にして新たな世界で活躍させるといった典型的な物語が幾つかありますが、同じような願いがユダヤの人たちにもあったのかもしれません。

バーミアンの事件はとても残念でしたね。大仏が破壊されたこともそうですが、この事件によってイスラム教徒全体に対する誤解が生まれてしまったような気がして、そのことがとても悲しいです。

今回もいろいろと教えて頂き、ありがとうございました。
*マルコ・ポーロをめぐる謎*

「日本を初めてヨーロッパに紹介した人」
「マルコ・ポーロ」という名前を最初に聞いた際、身近な大人から彼についてそう簡単に説明されたのが、マルコ・ポーロとの出会いでした。小学何年生の頃だったでしょうか。
その後、私が小学6年生の時(1979年)、「マルコ・ポーロの冒険」というテレビアニメが放送されました。もともと根が歴史好きだったためか、この番組には大変な感銘を受け、中学生になりシルクロードの歴史に傾倒してからもずっと、「マルコ・ポーロの冒険」の印象が強く残り続けました。
アニメの中のマルコが、真摯で誠実・正義感の強い理想的な青年(私にとってはですが)として描かれていたこと、そして何より、番組中に実写でゆかりの風景を紹介する場面があり、そこで見たシルクロードの光景が素晴らしかったことが大きいです(この辺り、学術的話題ではないですね、すみません笑)。

シルクロードはもとより、マルコ・ポーロの出身地であるヴェネツィアに行ってみたいという思いを持ち続け、十数年前、ついにヴェネツィア訪問を果たしました。街の一角に、マルコの晩年のあだ名を冠した「ミリオーネ広場」という場所があり、その広場の奥には、「マルコ・ポーロの家」と伝えられる大きな石造りの家があったのです。

ただし、この家とマルコ・ポーロとの関係は、実際には後世の創作であると思われます。多くの研究によると、ポーロ家の確実な所在は今もって分からないと言われているからです。
それどころか、最近ではマルコ・ポーロの実在性そのものを疑問視する見解も現われています。

日本におけるモンゴル研究の第一人者と言われる杉山正明氏は、以下のように指摘しています。
マルコ・ポーロの名は、同時代の漢文資料にも、またモンゴルがペルシャを征服して立てた国(イル・ハーン国)の歴史書にも、『東方見聞録(世界の叙述)』によれば当然語られるべき箇所があるはずなのに、全く見受けられないこと。
また、『東方見聞録』の最古の写本と言われるテキストには、『見聞録』が成立した年と明記されている1298年の時点では絶対に知り得ないような情報が、公然と載せられていること。
一方で同書には、当時実際に元朝のフビライ・ハーンの側近くにいた者でなければ知り得ない情報も多く含まれていること。
これらのことから、マルコ・ポーロという特定の個人が存在したのではなく、フビライの側近くに仕えた、立場やポジションを微妙に異にする複数の西洋人の見聞が、後に「マルコ・ポーロ」の名を借りて語られたのではないか。(『逆説のユーラシア史』杉山正明 2002年 日本経済新聞社 参照)

マルコ・ポーロの名が、『東方見聞録』以外の歴史資料に一切現われないという疑問は、以前から出されていたものです。マルコ・ポーロの実在・非実在については、今のところ学問的結論は出ていないそうです。
作家の陳瞬臣氏は、マルコ・ポーロの名が歴史資料に見られないのは、彼がいわゆる「隠密」としての役割を担わされていたためではないかと推理していますが、もちろん、小説的空想の域を出ません。

そして最近になって新たな疑問が浮上しました。私が以前、海外旅行でお世話になっていたある旅行社のパンフレットに、マルコ・ポーロの生誕地はクロアチアのコルチュラ島であると記載されたのです。マルコ・ポーロとクロアチアとの関係については、私は寡聞にして知りません。
旅行社の名誉のために申し添えますが、その旅行社は、多くの著名な歴史学者の方たちにも支持されている優良な会社です。
私自身と親しい添乗員の方もいるので、上の疑問について一度聞いてみたいと思うのですが、最近利用していないので(笑)、そんなことだけを聞くのは、聞きにくいですね・・・。
<補足>
クロアチア・コルチュラ島について、いくつかのサイトで調べてみました。
コルチュラ島をマルコ・ポーロの生誕地とする話は、今では一般的によく知られていることのようです。ただし、史実というより、むしろ伝説として受け止めるべきもののようにも思われました。
島の一角に「マルコ・ポーロの家」と伝えられる建物があり、季節によっては内部の見学も可能、とのことです。
マルコ・ポーロは中国へ行かなかった

ちょうど9年ぐらい前、フランシス・ウッド著「マルコ・ポーロは中国へ行かなかった」を読んだとき、「エッ、嘘でしょう! 高校時代の世界史にマルコ・ポーロが出てきたのに…」。
フランスでこの本が出版されると、ヨーロッパ中の子どもたちから、著者に抗議の電話が鳴り続けたと云います。

私は読み進むのを中断して、高校生用歴史参考書で確かめたのを覚えています。「1275年マルコ・ポーロ、世祖(元朝のフビライ・カーン)に会見」と、その上マルコ・ポーロの旅行経路まで地図上に記されていました。

しかし、歴史研究者は「マルコ・ポーロは中国へ行っていない」と主張しています。その理由として、

  マルコ・ポーロの公式記録が元朝に残っていない
  万里の長城の記録がない
  中国女性の纏足(てんそく)に関する記載がない

と、その他いろいろ列挙しています。これがきっかけになり「東方見聞録」を繰り返し読んでみました。フッと大きな疑問が湧いてきたのです。

それは、マルコ・ポーロがまったく恋をしていなかったことです。1274年、マルコ・ポーロは17才のときヴェネツィアを発ち、旅の途中も、17年間の中国滞在中も、まったく恋をしていません。

父ニコロと叔父のマテオが同伴し監視付きとはいえ、青春まっただ中の多感な時期に、恋をせずに過ごしたなんて信じられません。

元朝のフビライ・カーンの側近中の側近となったマルコ・ポーロに、高官から自分の娘を結婚の相手にと申し出があったと思います。当のフビライ・カーンからも結婚の勧めがあったとしても、不思議ではありません。

マルコは全部断ったのでしょうか。恋をしなかったのでしょうか。「行かなかった」から、「記せなかった」のではないでしょうか。

非常に個人的な感想ですけれど(独断と偏見かも…)、「マルコ・ポーロは中国へ行っていない」と思います。しかし、東方見聞録の大筋は、当時の歴史的事実とよく合致しており、資料的価値が減ずることはありません。

マルコ・ポーロは、どうやって各地の地誌・伝説などを入手したのかが気になります。

考えてみれば当時のアジアは、モンゴル帝国が広大な地域を征服し、一挙に国境が消滅し、巨大なモンゴル帝国が出現しました。国境を通過する度に科せられる関税がなくなったのです。しかも、駅伝制度が整備され、安全に交易ができる環境が整ったと考えられます。

この状況を的確に捉え、商売に結びつけたのはイタリア商人でした。
11世紀末、十字軍が小アジアからシリアやエルサレムに遠征するに伴い、イタリア商人は、十字軍の兵員や補給物資の輸送で商機を掴み、富を蓄えていきました。

さらにアジアと接し、モンゴル帝国と交易し、モンゴル帝国の隅々まで進出していきました。こうした商人たちが、マルコ・ポーロの情報源と推定できそうです。もちろん、マルコ・ポーロも貿易商人として、小アジアやシリアに出入りしていたことでしょう。

このように考えを進めてくると、結論は限りなく「マルコ・ポーロは中国へ行かなかった」に近づいてきます。
もちろん個人的な感想を基に、独断と偏見から導かれた結論です。
 
こんにちは。マルコ・ポーロの記述、興味深く読まさせていただきました。

ヴェネチアの「マルコ・ポーロの家」、行ってみたい!と思った矢先に、実在ではないかも、、。中国に行っていない?、、、。クロアチア出身、、? 興味がわいてきました。
「マルコポーロの冒険」読んでor見てみたくなりました。

では、話の続きを楽しみにしています。 
>golfinさん、ゆみみんさん
書き込み、ありがとうございました。
私が東洋史を学ぶ学生だった頃(1980年代後半)には、マルコ・ポーロの実在性や中国への旅が事実であるかどうかを疑問視する説はまだ出されていなかったので、正直なところ、とても驚き、かつ新鮮に捉えています。

フランシス・ウッド氏の著書については、私の読んだ杉山正明氏の本の中でも触れられていました。杉山氏は、私の上の書き込みでも触れたように、特定の個人としてのマルコ・ポーロの存在そのものを疑問視する立場を取っていますが、ただ、ウッド氏の説に対しては、研究者として別の意味での批判もしています。
ウッド氏は「マルコ・ポーロが万里の長城を記録していない」ことを挙げていますが、元の時代には、そもそも長城は存在しなかったのだそうです。(もちろん、長城自体は秦の時代に作られていますが、その後荒廃し、現在見られる長城は明代に再建されたものです。)

ただ、ここで一番問題となるのは、やはり、マルコ・ポーロ一家についての記録が、元朝やイル・ハーン国などの公的な歴史書に残されていないことなのだと思います。
この点については、ウッド氏も杉山氏も一致しているようですね。

golfinさんご指摘の、マルコ・ポーロが恋をしなかった、ということについて、興味深い見解と思います。17歳から40歳くらいまで、人生で一番充実していたはずの時期を旅とフビライの宮廷とで過ごしていたのに、一度も恋をする機会がなかったのは、確かに少し不自然な気がします。

ただ、これも見方を変えれば、人は自分の身に起きたことすべてを語るとは限らない、とも言えるかもしれません。中国滞在中に妻か、あるいは恋人を持っていたとしても、何らかの理由で彼女をイタリアに連れて帰れなかったとしたら、そんな悲しい過去については語りたくなかった、ということも考えられなくはないと思います。もちろん、これは私の想像に過ぎないのですが・・・。

マルコ・ポーロが実在して、もし本当に中国に行っていたとしても、彼があまり自らを語りたがらない、客観的な叙述を好む冒険家であったとは言えるかもしれません。ヴェネツィアの公文書館には、マルコ・ポーロの遺言書なる文書が残されていますが、そこにも、彼自身に関する記述は見られないのだそうです。

マルコ・ポーロが存在しなかった、あるいは存在したとしても中国には行っていない、という説は、正しいのかもしれないと思います。前述の遺言書も、その主の名が「マルコ・ポーロ」だというだけで、彼が本当に東方旅行をしたのか、あるいは東方旅行をしたとされるマルコ・ポーロと同一人物であるかどうかは分からないのですから。

ただ、そうした史実は別として、私は、ウッド氏の著書に対してヨーロッパ中の子供たちから抗議の電話が殺到したというgolfinさんがお書きになっているエピソードを、率直に微笑ましく思いました。
マルコ・ポーロは、ヨーロッパの子供たちから愛され続けているのですね。それはそれで、素晴らしいことだと思います。マルコの存在が史実そのものでなくても、かつての私がそうであったように、子供たちが歴史や東洋に関心を持つ一つのきっかけとなるならば、マルコ・ポーロの伝説は、大いに意味を持っていると思うのです。
 
きみこさんの推測「マルコ・ポーロは客観的な叙述を好む冒険家」は、当たっているかもしれません。多々そういう記述に遭遇するからです。

たとえば、パミール高原(標高およそ五千メートル)を旅しているとき、「厳しい寒気のせいで、この地では火を燃やしても赤々とは燃えないし、… 食物を煮炊きしても、でき上がりがうまくない …」と、科学者の目で観察しています。
我々現代人は、高所では気圧が低いため沸点が下がることを知っています。しかし、この時代はまだそこまでは判りません。
もし、マルコ・ポーロが別の機会に北極を旅したら、この体験を踏まえて何と説明するか興味のあるところです。

また、「これら諸地方の住民は米・ヒエ・アワを常食とし、… この種の穀物は一粒から百倍の収穫を得て … 膨大な人口を養っている … 」と観察しています。
種子生産性百倍の根拠をマルコ・ポーロは示していませんけれど、恐らく穀物商人として、中国の穀物生産性の高さを驚きの目で見ていたのではないでしょうか。
余談ながら古代メソポタミアでは、最盛期の麦の種子生産性は76.1倍と計算されています(三笠宮崇仁編生活の世界歴史1古代オリエントの生活)。
 
>golfinさん
米は麦と比べて人口扶養率が高いということは、私も聞いたことがあります。アジアの人口密度が高いのも、このことと関係しているのでしょうか。

マルコ・ポーロが実際にアジアを旅しているとしたら、かなり細かで正確な観察眼を持っていたのでしょうね。
*甘英の西使について*

シルクロードの歴史を彩る様々な人物の中で、私が特に気になる人の一人が後漢時代に活躍した甘英です。
甘英をめぐる歴史的背景の詳細については、近いうちに「砂漠の道〜オアシス・ルート」トピで扱う予定です(最近、トピの書き込みが滞ってしまい、すみません)。

甘英は後漢の時代、西域都護として活躍した班超の部下であったと言われる人物です。班超は、タクラマカン砂漠周辺にあったアーリア系民族の国々(いわゆる西域諸国)を治める武人でした。その班超が部下の甘英を、遠くローマ帝国への使者として西方に派遣したのです(A.D97年)。

甘英は、砂漠を渡り高山を越え、『後漢書』「西域伝」に‘西海,と記される海まで辿り着いたと同書には記されています。
しかし甘英は、そこでパルティアの船乗りたちに海を越えることがいかに困難であるかを告げられ、やむなくローマへ渡ることをあきらめて東方へ引き返したと「西域伝」は結んでいます。

‘西海,がどこであるかについては、カスピ海、ペルシャ湾など諸説ありますが、甘英がローマ本国を目指していたと考えられることや、そこがパルティアの西の境界近くと記されていることなどから、地中海と見なす説が妥当であろうと私は思っています。おそらく、シリア(現在はトルコ領)のアンティオキア辺りに辿り着いたのではないでしょうか。

私が、甘英という人物が気になるのは、西海に到着してから後の彼の行動のゆえです。「西域伝」の記述によると、パルティアの船乗りたちは、この海を渡るのには2年もかかるとか、航海中にホームシックにかかり命を落とす者もいる、などと言って甘英を脅したというのです。
パルティアは、ローマと東方世界との交易を中継することによって大きな利益を得ていたので、後漢の使者がローマへ赴き後漢とローマとの間に直接の通商が開かれることを阻止する目的で、甘英がローマへ渡ることを妨害した、と一般に考えられています。
甘英の身分は低かったと言われるので、そのような背景について彼自身は知る立場になかったのかもしれません。ただ私が疑問に思うのは、困難な旅を経てようやく地中海まで到着した彼が、その程度のことで海を渡るのを断念してしまった、ということなのです。
死の砂漠と呼ばれるタクラマカンを渡り、氷雪のパミールを越えるだけでも、当時の人にとっては命がけであったはずです。その後にもおそらく、飢えや渇き、盗賊などの恐怖に幾度となく襲われたに違いありません。
使命の遂行にかかる歳月や死を恐れるのであれば、地中海に辿り着くよりずっと以前に、旅をあきらめていたはずではないか・・・。
私には、たった一人で後漢の領域から地中海にまで至った甘英が、人づてに耳にしたホームシックの噂くらいで、大切な使命を放棄するとはどうしても考えられませんでした。

高校生の頃からこのことが気になり続け、大学時代には一時、この「甘英の西使について」を卒論のテーマにしようとまで考えました。
ところが、2年の時のゼミ合宿で私がこのテーマで研究発表をすると、居合わせた教授たちから「これで、卒論書けるの?大丈夫?」と心配され、最後には「甘英と心中しないでね」と言われ・・・。

結局、このテーマで卒論を書くことはあきらめてしまいましたが、今でも甘英はとても気になる人物なのです(心中はしたくない笑)。
甘英は地中海に到達したのか?
  何故使命を放棄したのか?

後漢書に、
  「甘英、条支に至り、大海に臨み渡らんと欲す」
とあり、ここに云う条支はシリアで、大海は地中海なのでしょうか。

ちょうどこの頃、ローマ帝国(大秦)とパルティア(安息)はシリアの支配を巡り争っています。
班超から与えられた使命が単に大秦への派遣であれば、条支がシリアに相当して、かつ、ローマ帝国が条支の支配権を握っていたとすれば、甘英は使命を達したことになります。

莫大な費用をかけての旅ですから、ローマ帝国の首都ローマを訪問が甘英に課された使命と、私は思いますけれど、資金が尽きてしまったのでしょうか。
それとも、別に課されていた使命を達したと見ていいのでしょうか。

モヤモヤとしていますので、よろしく謎解きをお願いします。
 
>golfinさん
「条支」についても諸説あるようですが、私もシリア説を支持しています。当時のシリアの首都・アンティオキアの「ティオキ」の部分を音訳したのが「条支」であるという見方があり(白鳥庫吉の説だったでしょうか、今、手元に資料が見つからないのですが)、私もそれが最も妥当な見解だと思います。
条支がシリアなら、甘英が渡ろうとした海は、やはり地中海と見るべきですよね。

やっとの思いでそこまで辿り着いたのに、なぜ海を渡ることなく来た道を引き返してしまったのか・・・本当に謎です。
アンティオキアがローマの一部であったとしても、後漢の正式な使者としてローマへ派遣されたのなら、帝国本土の首都ローマへ赴き、皇帝かそれに準じる立場の誰かに謁見する(少なくともそれを試みる)はずだと思うのです。
また、『後漢書』「西域伝」も、甘英はパルティアの船人に脅されて引き返したと書いているので、やはり使命を果たさずに帰国したということなのではないでしょうか。

だとしたら「なぜ?」ですよね・・・。私も学生時代、それを考えて卒論にしようと思ったのですが、上述のように教授たちに止められました(笑)。史料が『後漢書』しかなく、そこに書かれていないことについては空想の域を出ない、というのが理由でした。

確かに学術的検証には限界がありますが、敢えて空想することが許されるのなら、いろいろと思いをめぐらせてみたことを少し書いてみようと思います。
ここから先は学問的話題ではなくて恐縮ですが・・・。

『後漢書』「西域伝」に書かれていることは、甘英本人にとってはとても不名誉な内容だと思います。
大切な使命を負って旅に出て地中海にまで到達したのに、パルティア人に脅されて海を渡るのが怖くなったので引き返した、というのでは、あまりにも体裁が悪すぎます。
しかも、このことは甘英自身しか知らないことなのです。もし彼が体裁を取りつくろうと思えば、もっと自分の名誉を傷付けないようなもっともらしい言い訳を、いくらでもすることができたはずです。彼の行動は、後漢の人は誰も見ていないのですから。
甘英は西域の人を何人か伴って帰国したようですが、それとても口裏を合わせることは可能です。自分の言うことに従わないような人物を、故国に連れ帰るはずがありません。

私は、甘英が敢えて汚名を着ているような気がしてならないのです。使命を果たせなかったことについて、いくらでも言い訳が可能なのに、「脅されて怖くなったから引き返した」と、敢えて最も不様な報告をしたその裏に、隠された真の理由があったのではないか、と。
甘英が公の場で話そうとしなかったこと、祖国の正史に残すことを良しとしなかった何らかの事情が、そこにあったのではないでしょうか。
それは使命とは直接関係のない非常に個人的な事情であり、だからこそ公人としての甘英は私人としての顔を正史に残すことを拒んだ・・・。そんなふうにも推測できます。
このトピでいいかな…と思いつつ…。
マルコ・ポーロについて議論している経過がありますので。

こういう本が出たそうです。

マルコ・ポーロ/ルスティケッロ・ダ・ピーサ
『世界の記「東方見聞録」 対校訳』(高田英樹 訳 名古屋大学出版会 2014年1月)
http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0756-6.html

高くてページ数が多くて、かなりの大著のようで、なかなか気軽に買えそうにありませんけど…。
「東方見聞録」のうち特に重要視されている初期の写本を比較して訳出するというかなりの労作です。
>>[18]
コメント頂き、ありがとうございます。
リンク先を拝見しました。三つの版の対校ということで、内容の差異を比較検討するのに役立ちますね。
それにしても、すごい値段…。
近所の図書館にリクエストしてみようか、と思いますが、購入してもらえるでしょうかね…。

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