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日記ロワイアルコミュの神様になった日本人

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200億円exclamation ×2

 


東日本大震災の被災者を案じ、台湾の人たちが送ってくれた義捐金の額です。



そして…9割は【一般人】からの寄付でした。
※現在も伸び続けているそうです。



台湾では、地震発生直後から、テレビTVで緊急特番を放送。



多くの有名人や政治家、総統までもが日本の危機的状況を訴え、支援を呼びかけ続けてくれました。


 
さて…



ここで一つの疑問が出てきます。



【なぜ台湾の人たちは、そんな大金を日本のために送ってくれたのか?】



それは…



日本をとても愛してくれているから。



何故?




日本のアニメやファッションなど、日本独自の文化が好きだから?
 






それもあるかもしれません…



でも…



それだけではなかったのです。



ここからお話するのは、ほんの数十年前に起きた真実のお話…



そう…



その裏には、台湾人なら誰もが知っている物語があったのです。





…1895年、日清戦争に勝利した日本は、台湾を治めることになりました。





日本は、国内の食糧不足を補うため、台湾の農業強化を打ち出しました。しかし、台湾一大きな嘉南平野は、作物がほとんど取れない状態。



原因は【水事情の悪さ】
 


乾季は日照りで飲み水さえないが、雨季には洪水が絶えず起きるという有様。



そこに、日本から土木技師として派遣された男がいました。





《八田與一(はったよいち)》





彼は台湾にダムを建設するため、水源や地形の調査にやって来ました。



早速、台湾総督府に上申する八田。



『ダムに最適な場所は、ここ、烏山頭(うさんとう)地区です。大規模なダムが造れますexclamation



しかし…台湾総督府は難色を示します。



「こんな大きなダムは不可能だ、もう少し規模を小さくしなければexclamation ×2



食い下がる八田。



『それでは水量が少なく、平野全体に水が行き渡りませんexclamation

 

「しかし…予算がない…」



『一時しのぎではダメなんです。



農民たち全体が豊かにならなければ、造る意味がありませんexclamation



工事費用は莫大で、台湾総督府総予算の3分の1にもなり、金額的にも規模的にもあまりにも大きすぎて、当時、誰も本当に実現するとは思わなかったといいます。



しかし、小さいダムでは水が行き渡らず、住民の格差が生まれてしまう…彼は自分の思いを曲げず、計画書を何度も練り直しました。



【※嘉南平野に巨大ダムが完成されたとしても、この地域に必要な水量の3分の1しか供給できないことを八田はわかっていました。そこで八田は一種の社会主義的管理体制とも言えるような計画を打ち出しました。



各地域に水を3年に1度だけ供給するシステムです。このために稲作とサトウキビ栽培と畑作の3種を1年ごと順番に行なうことにします。



なぜなら、稲は大量の水が必要であるが、サトウキビはさほど必要ではなく、芋などの畑作にいたってはほとんど必要ないというのです。



水不足も解決する…



この案がうまく機能するには、農民が作る作物をきちんと守らなければならないし、互いがエゴを捨て、協力し合う必要があり、成功すれば農産物の飛躍的増産が期待できました。



八田のこうした考えは、真宗王国(浄土真宗)と言われていた彼の郷里(石川県)の持つ宗教的風土の影響によるものと思われ、八田の内面に染み付いた仏教精神は、給水を受ける農家だけが豊かになるという不平等を許さなかったといいます。



『同じ嘉南に住む農民が給水地域だけ近代農法で豊かになり、残りが封建的な貧しさから脱却できないというのは、台湾の将来にとって決して良いことではない』



と言って自説を押し通したといいます。】



3年後の1920年…



粘り強い交渉の末、八田は、費用の半分を農民たちも担うことを条件に、ダムの建設許可を勝ち取りました。



ところが…



地元住民は大反対。



「なぜ我々がお金を負担しなくてはいけないんですかexclamation



詰め寄る住民に、八田はダムの必要性を必死で説きました。



『ダムができれば必ず豊かになる。皆さんの子供や孫たちの世代が、安心して暮らせるんですexclamation




「僕たちは騙されないぞexclamation



 こうして、住民の無理解などの問題を抱えつつ、何年続くか分からないダム建設がスタートしました。



日本人・台湾人合わせて約2000人が、険しい山奥での力仕事に従事。しかし、衛生状態も悪く、労働環境はまさに最悪でした。



そこで八田は、環境改善のため、上司に要請。



『家族と住める宿舎を作って下さいexclamation

 

「何を言ってるんだexclamation我々が必要なのは労働力。



女、子供など必要ないexclamation


 
「しかし…家族と離れ離れでいい仕事などできるわけがありませんexclamation ×2



粘り強い説得により、八田の要請が受け入れられ、工夫(こうふ)が家族と一緒に住めるよう、工事現場の近くに小さな町が作られました。



そこには、学校や病院などの公共施設や、映画館やテニスコートなどの娯楽場もあり、集会所に集まってゲームをしたり、定期的にお祭りを開いたり、工夫たちはここでの生活を心から楽しむことができました。



台湾の工夫たちとも家族のように接する八田。



上からではなく、同じ目線で仕事をする彼の姿勢に心を打たれ、台湾の人たちも次第に心を開いていきました。



地元の反対も弱まり、全てが上手く行くように思われた、1923年…



【関東大震災】



が発生。



日本は、台湾のダム建設どころではなくなりました。



八田は、台湾総督府からダムの建設予算の大幅カットを言い渡され



「台湾人半分のクビを切って、何とか工事を続けてもらえんか?」



と言われたといいます。



この噂はすぐに台湾人工夫たちの間にも広まりました。



「俺たち…そろそろクビらしいぞ…」



「そうらしいな…。日本人が優遇されるのは仕方がない…」



しかし…



八田が解雇したのはすべて日本人でした。



台湾人工夫たちは驚き



《なぜ自分たちを優遇して残したのか》



その理由を尋ねました。



すると八田はこう答えました。



『当然ですよ。将来このダムを使うのは君たちなんですからexclamation



「……。」



『日本人は日本でも仕事ができる。台湾人はこの地でずっと生きていく。



自分たちのダムは自分たちで造ってほしい…』



それが台湾という国に対する八田の思いでした。



この事をきっかけに工夫たちは、さらに八田を心から信頼するようになりました。


【※人選は八田に一任されました。一番苦しかった時です。八田は退職者一人一人を所長室に呼んで、賞与金を手渡した際、胸がいっぱいになって、ぽろぽろと涙がこぼれ始めたといいます。


周囲の人々が八田の涙を見たのは、この時が初めてでした。
 

そして、驚くべきことは、退職者の選別基準。常識的には有能な者をまず残すはず。しかし、彼は有能な者から退職させました。彼らはその能力ゆえに再就職が可能であるという判断でした。


この事は、技術者、経営者の発想を超え、一人の人間として彼らに接している八田の姿勢を見ることができます。】



しかし…



更なる悲劇が八田に訪れます……



ダムの現場で爆発事故が発生。



死亡者50人以上、負傷者100人以上の大事故でした。


八田は、取るものも取り敢えず急いで遺族の家に駆けつけました。



一軒、一軒亡くなった工夫の家族の元を訪れ、土下座し、遺族に詫びる八田。



『申し訳ございませんexclamation



あなたのご主人を殺したのは私ですexclamation ×2大切な人の命を奪ってしまった…



いくら謝っても謝りきれない……。』


「……」


すると、静かな語り口調で、夫を亡くした妻は八田に向かってこう話しかけた。



「八田さん、頭を上げてください。主人は、ダムの仕事を誇りに思っていました。八田さん、どうか…立派なダムを造って下さいexclamation



そう…



亡くなった工夫たちは、自分と同じ思いを抱いていたのです。そして、その想いを家族にも語っていたのです。



八田は決意を述べました。



『必ず…


必ずダムを完成させてみせますexclamation



【※八田は仕事上、しばしば雷を落とす事もあったといいます。



しかし、人望を失うことはありませんでした。それは、彼の責任感と部下に対する思いやりを誰もが感じていたからでもあり、また、率先垂範であったから。



植民地下の台湾で、台湾人と日本人を全く差別なく扱い、八田自身もダム建設のために、毎日午前5時半に起き、夜11時まで働き、寝るのはいつも午前2時。そんな姿に部下も心を打たれていたのだといいます。】



そして1930年…



10年の歳月を経て、ついに東洋一の大きさ(当時)を誇る烏山頭ダムが完成。不毛の地と言われた嘉南平野は、米・サトウキビなどが豊富に獲れる、台湾一の穀倉地帯へと生まれ変わったのでした…







〜〜〜〜〜〜



台湾では、毎年5月8日、追悼式が台南県烏頭山にある八田夫妻の墓の前で現地の人々の手で行わています。



ちなみに夫妻の墓は昭和21年(1946年)12月、嘉南大シュウ(土へんに川)農田水利協会により建てられました。日本はこの前年戦争に敗れ、この年の4月には最終の引き揚げ船が出港しています…



すなわち、夫妻のこの墓は、日本人が台湾を去り、日本統治時代の神社や記念碑や銅像が次々に破壊されるなかで、地元の人々の手で建設されたという事です。


しかも墓石は台湾にならいくらでもある大理石ではなく、日本人の風習通り御影石。わざわざ高雄まで行き探してきたのだといいます。



費用は八田と共に働いた人々の寄付でまかなわれ、八田を慕う台湾人の工夫からも多くの寄付が寄せられました。



また、八田氏の銅像は台湾に残る唯一の日本人の銅像なのだといいます。それも、最初八田氏は



『人を見下すような感じでどうも…』


ということで銅像を作ることを嫌がったのですが、台湾の方々のたってのお願いという事で、普段着の作業服を着て、しかも小さめに座っているという形で造られることとなりました。



やがて…



嘉南の農民がこの銅像の前を通る時、人々は手を合わせて拝むようになったのだといいます。



台湾の人々は言います…


「八田さんがこの工事をしてくれなかったら、今でもここでお米をとることは出来なかっただろう。私らにとっては大恩人ですよexclamation







「いやいや、大恩人というより、神様だなexclamation ×2



後藤新平…



森川清治郎巡査…



広枝音右衛門警部…



そして…



八田與一……



日本に送られた200億円以上のの義捐金…



それは、70年の時を経て台湾で



【神様になった日本人達】



への思いが、恩返しの形で届けられたのかもしれません……。





コメント(235)

こんな素晴らしい話を教えてくれてありがとうございます!

一票
一票。知らなかった…同じ日本人…同じ石川県として恥ずかしい><;
いいお話をありがとうございました。一票です。

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