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日記ロワイアルコミュの爪あと、傷あと、去ったあと

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「何にも無くなった、全部流された」

何にも無いなんて馬鹿みたいなこと言うなよ。
お前は生きてんじゃないか。



―大津波が東北沿岸部を直撃したあの日から2日経って、やっとかかってきた電話だった。弟は、宮城県の小さな港町に住んでいる。
そこは、三陸湾に面し、緑の山々に囲まれた小さいながらも綺麗な町だった。ただ、隣町へ通じる陸路は数えるほどしか無い。孤立化している事は想像に難しくなく、現に電話で話した弟からもまだ救援は回っていないと聞いた。

途切れ途切れの声、基地局がやられていたのだろうか。
迎えに行くから頑張れと、そう伝えて電話を切った。
携帯の充電量をこんなにも惜しく、恨めしく思った事は無かった。



震災直後から、テレビやラジオで報道される内容には限りがあった。
救援が回っていない地区には当然報道陣も立ち入れていなかったのだろうが、大きく取り上げられていた地区の他にも、同様の被害を被った小さな町や村はたくさんあったように思える。

ミクシィ、ツイッターを始めインターネットの方が局地的な情報は早かった。日に日に明らかになる震災の、その爪あと。

1日、また1日と時間ばかりが過ぎて、それでもまだその町に救援が回ったという情報は無かったし、弟ともあれから連絡は取れていなかった。
どうやってこの寒い夜を越しているのか、食料は、水はまだあるのか。

「連絡下さい」「連絡下さい」「連絡下さい」

ラジオから流れるNHKの安否確認情報が、耳にこびり付いて剥がれない。
連絡が一度取れている自分はまだ幸せなのだと毎日言い聞かせていた。




数日後、情報を集めてる内に知り合った弟の元チームメイトから、新聞に弟が載っていたと教えてもらう事が出来た。

それは、全国紙のスポーツ新聞が取り上げた、小さな町のサッカークラブの記事だった。

被災後、自分達のスポンサー会社でもある食品工場の冷蔵庫から食料を調達して、避難所に配って回っていた。給水車を使って工場にあった水を配って回っていた。夜回りをしていた。清掃をしていた。小さな子供達を集めてサッカー教室をしていた。
クラブチームで県外出身者が9割を占める中、彼らには地元に帰るという選択肢もある。
しかし、それぞれ地元に帰り復興後にまた戻って来て、それで今まで世話になったこの町に顔向けできるのかと、みんなで話し合った結果、そこに残る事を選んだのだと。

新聞に載った写真には、仲間達と並んで笑顔を見せた弟がいた。
俺は、自分の家族の事だけを案じ、それ以外の事なんて何も考えてやしなかったけど。

被災した当の本人達が、世話になった人達、町の為に精一杯動いている。誇らしくもあったし、自分が恥ずかしくもあった。
もちろん、帰れる場所があるって余裕もあるのだろうけれど。それでも。



―震災から9日経って、俺は弟の住む町に向かった。
ガソリンや救援物資を工面するのにも苦労したし、未だ寸断された道路もあり、ほとんど見切り発車だった。

東北自動車道は緊急車両専用となっていた為、内陸部をひたすら南下する。

ガソリンが困窮しているのはどこも一緒だった、ほとんど車の走っていない国道4号を、暖房を切ってなるべくガソリンを使わない様に走る。

目的地に近づくに連れて、顕になっていく生々しい傷痕。
ひしゃげたガードレール、突き出た側溝、ひび割れたアスファルト。
人気も明りも無く、ゴーストタウンと化した町々。

しかし、そんな光景もまだ序の口であった。
一晩を越して、内陸部の古川から沿岸部の石巻方面を目指して走って行くと、少しずつ増える消防隊や自衛隊の車両。

石巻市街地に入ると、そこからはもう日本ではないような有様だった。例えば、ニュースで他人事の様に見ている、他国の紛争地の様な。

海はまだまだ見えない。
しかし、潮の臭い、泥なのかヘドロなのか分からないものがそこら中に散乱するそこは、紛れも無く津波に飲み込まれた場所だった。

見慣れたチェーン店が立ち並ぶが、そのほとんど全てで窓ガラスが割れている。スクラップにでもされたような車が積み重なり、ひび割れて傾く電柱。粉塵が舞う中を歩く人々、幼い赤子を抱いた父親、大きな風呂敷を背負った家族、スキーのストックを杖にして歩く女性。見渡す限りの瓦礫、瓦礫、瓦礫。

テレビの中の出来事ではないんだ、当然だけど。
更に太平洋側の海岸沿い、弟の住んでいる町を目指す。


トンネルを抜けると、携帯は圏外、内海が見える。
弟はスポンサー会社の事務所に避難しているとの事を、直前に運よく連絡が取れて聞いていた。
思えばその時「来なくていい、ガソリンが無いなら逆に迷惑になる、むしろ来んな」と言っていた。小僧が、手前の心配をしやがれ。携行缶に積んだストックはまだ手付かずで残っていた。

事前に聞いていた会社事務所には、誰もいなかった。
昼間は、片付けや給水等の手伝いをしているかも知れない、と聞いていたので、町を探してみる事にした。

しかし、ここから先がもっと酷かった。
先ほどの内海とは反対側、三陸湾に面した町の中心部は、いや、中心部から数キロに渡っては、もう瓦礫しか残っていなかった。

海抜20m以上の高台にある町立病院の駐車場に車を停めさせてもらう。
驚く事に、この病院の1階まで津波は押し寄せたという。1階の窓ガラスは全て割れ、色んな物が散乱していた。
ここは避難所にもなっていて、玄関前の柱に避難している人達のリストが貼ってあった。油性マジックで書かれたそのリストを、何度も何度も確かめる様に確認する人もいた。そして隣に貼られた【すみません、食事はありません】と書かれた紙が嫌にリアルだった。

駐車場の一部はへリポートとして使われていたようで、何度かヘリが離着陸していた。救急患者を搬送していたのだと思う。

そして、その場所から見渡せる町。
【添付画像】

もう、どこに何があったのかなどと記憶を辿る事さえ不可能だった。
面影はまるで無い、辛うじて形を残すのは、鉄筋コンクリート造の一部のビルだけ、それも中身がくりぬかれた様な状態になっていたり、傾いていたり。5階立てのビルの上に、車が逆さまになって乗っていた。

この日は晴れていて、海がやけに綺麗だったのを覚えている。
聞いた話では、この海が津波の直前に「目玉焼きのように膨らんだ」のだと言う。

高台から下りて町を少し歩いた。
自分に縁の無い場所だから、という訳ではないと思う。
何も感じなかった、生活を感じさせる物はほとんど見受けられず、木片、コンクリート片、壊れた家電、そういった物ばかりが散乱する無機質な光景。
粗大ゴミの最終処分場に似ていたかも知れない。一面に広がる瓦礫の海。

この時は、なんとか道路は車が走れるくらいに片付けられていたけれど、それ以外はほとんど手付かずの様に見えた。
色んな地名を、消防隊や自衛隊の服、車のナンバーに見て、なぜだか心強かったけれど、とても効率の良い作業をしている様には見えなかった。こんな状態では、どこから手をつけたらいいのか分からないのだろうと思った。

歩いていると、1枚の写真が落ちていて思わず手に取った。
幼い子供を抱いて微笑む女性は、母親だろうか。
土を掃い、けれどもどうしていいか分からずに、そのまま元に戻してしまった。

高さのある建物が無くなってしまった町は、ずっと向こうまで見渡す事ができたけれど、人一人を探すってのは無理がありそうだ。



最初に訪れた会社事務所に戻ると、数人の人がいた。
弟の名前を伝えると、奥の工場の様な建物に入って行って弟を呼んできてくれた。

「おお!マジで来たのか!」

そう言って笑った顔に安心して、思わず何度も背中を叩く。
そこから、地震が来た時のこと、津波が来た時のこと、今までのこと、これからのこと、電話をかける度に山に登って電波を探さなければならないこと、色々と話をした。

この日からスポンサー会社の工場で、他の選手や従業員の人達と、避難所に配る食料を作っているのだと。非常用の発電機を稼動して、材料が切れるまで無償で作り続けるそうだ。



そう言えば、と、弟達が載っていた新聞を持ってきていたので見せてやった。

「夜回りまでしてるんだって?本当か?お前が?」

「は?してねーよそんなの、真っ暗なのに意味ねーべ。新聞社が盛ってんだわ」

新聞を見ながら弟が吐き捨てた。
ちなみに、この時もすぐ近くで記者が工場の人に取材をしていた。

「マジでかw や、そこの人、記者じゃないの?聞こえるぞ」

「いいんだよ本当の事言ってんだから、どうせ書かないでしょ」

と。

「こちとら沢でちんこ洗ってんだぜ、夜回りどころじゃねーっつーの」

と・・・
(余談だけど、後で、この記者が書いたと思われる記事を読む事ができた。全てがそうではないのだろうけれど、震災に託けてなんでもかんでも美談に仕立て上げてしまうのは、なんだか違うと思った)


それでも弟から、食料や水を配ったり、被災直後は病院で汚物処理までしていたと聞いた。意思はどうあれ、誰かの役に立っているのだと思うと嬉しかった。投げ出しがちで頭も要領も悪いこいつの事を、俺はずっと心配だったのだ。要領が悪いからこんな寒い時期に沢でちんこなんか洗うんだ。「もげそうになる」とか言ってたけど、今思えばそんな気力があるなら、風呂くらい沸かせるはずだ。

ロッカールームも遺体安置所になっているらしかった。
しばらくサッカーどころでもないだろうし「今一緒に帰ったらどうか?」と勧めたけれど「残る」と言われた。
チームメイトに申し訳ないという気持ちもあるのだろうし、恩返しというような気持ちもあったのかも知れないけど、ただ「残る」とだけ。

思えば、まだ帰る場所のある弟達は、少しは余裕があったのかも知れない。
1000人以上の死者・行方不明者が出た町で、復興の為の若い力はいくらあっても足りないだろう。



今回、被災地を訪れて、大袈裟に言えば人生観が変わったと思う。
ずっと人は他人を救わないと思っていたけれど、どうやら人は他人を救う。いざとなれば当たり前の様に、人は他人を救うんだ。俺だってきっとそうでなければならないし、そうあろうと強く思った。

地続きの場所で起きたこの震災は、決して他人事では無い。
分担なんて簡単にできない、けど繋がっているんだ。
経済だけの話じゃない、人は他人とも繋がって生きているし、生かされている。

被災したテンションで、興奮状態で、麻痺した感覚で、今まではなんとかなっていた事も、これからどうにもならなくなってくるはずだ。徐々に現実を受け止めて、辛い明日でもそれを迎え入れなければならない。

絶望と希望がごった返す中で、それでも明日はやってくるのだから、その明日がせめて今日よりは良い日になりますよう。
メディアの報道が沈静化しても、どうか支援の力は継続されていきますよう。

心から願う。



―家に帰って翌日、弟から電話があった。

「ちゃんと帰れたか?」

だって。

救援ごっこしに行って逆に心配されてりゃ世話ねーな、って、そう思った。

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