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日記ロワイアルコミュの蝶と幻覚と世界から消えた妹

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 妹の誕生した瞬間をよく覚えている。
 僕もその日5歳の誕生日を迎えたばかりだった。
 母は、僕の誕生日の二日前に産気づいた。そのとき家は、電気も電話も止まっていた。僕自身滅多に外に連れて行かれることがなかったので、誰かに助けを求めるということを思いつきもしなかった。それに母も、
「このことは誰にも言うな」
 と僕の口を固く閉ざした。
 二日二晩母は苦しんだ。畳の上で獣のように苦しむ母は、手につかむものを手当たり次第壁に向かって投げ、うめき声をあげていた。
 母はもともとかんしゃく持ちだった。だから僕は母がうめいている姿を見て、自分が何か悪いことをしたのではないかと、終始怯えていた。僕は妹が生まれてくるという期待よりも、母が怖かった。
 母は自力で妹を産んだ。妹は、紫色をしていた。頭の中で描いていた赤ん坊のイメージとかけ離れすぎていて、僕は妹が失敗作なのではないかと心配した。母は妹を出産した後、「水とミルクがその辺にあるから」と言い、そのまま十日ほど寝込んだ。その十日間、僕はずっと一人でリトルマーメイドのビデオを見ながら、妹の面倒を見ていた。妹はとても元気に泣いた。そして水やミルクをあげると、美しいほど素直にそれを欲しがった。僕はそれがとても嬉しかった。失敗作だと思った妹にも、段々と愛着が湧いてきて、僕は「このまま母さんが起きなくても、この赤ちゃんと二人だけで頑張って生きていこう」と思ったのだ。

 僕は一人で妹の面倒を見ながら、
「この赤ちゃんに名前をつけなければ」
 と思った。僕はアリエルという名前がいいと思った。リトルマーメイドの主人公の人魚の名前だ。しかし、母が目覚めてそのアイデアを披露すると、母は5歳の僕を「世間知らず」呼ばわりし、
「違う名前をすぐに考えて」
 と言い捨てた。
 僕は「それではハルという名前はどうでしょうか」と母に言った(母には敬語を使わなければ殴られた)。
 何故「ハル」にしようと思ったのかと言うと、僕がそのとき春という言葉を覚えたばかりだったからだ。母は毎日お経を唱えるように「冬が終われば必ず春が来る」と言っていた。それは僕に諭すように言っていたのではない。精神の薄弱したものがブツブツと独り言を言うように、母はずっと「冬が終われば春。夜が明ければ朝」と始終ブツブツ言っていた。僕はあるとき母に「春ってなんでしょうか」と尋ねた。そう聞けば母の機嫌がよくなるのだろうと僕は思った。そしてそれは正解だった。
「春っていうのは、出口のことよ。母さんは春が大好きなの」
 母は片方の口角を上げながらそう言った。
 僕も母の大好きな「春」になりたい、と僕はそのとき思った。きっと妹が大きくなったら同じように思うだろう。なので僕は、妹の名前を「春」にした。僕なりの幼い優しさだった。
「ハルという名前はどうでしょうか。お母さんがお好きでしたら」
 僕はそう言った後、母の鉄拳が飛んでこないように頭を軽く覆った。
「…ハル」
 と母はつぶやいた。

「ハル、だとおてんばなイメージだから、コハルが良いわね。小春」

 そんなふうにして小春はこの世に誕生した。

 小春、君に会いたいよ。



 その日、僕はまだハイハイを覚えたばかりの小春と、リトルマーメイドのビデオを見ていた。とにかく毎日がリトルマーメイドだった。それしか観ることを許されなかったし、僕もそれだけが大好きだった。僕は今でもリトルマーメイドのセリフをすべて暗唱できる。蟹のセバスチャンは、人間の世界に住みたいという人魚のアリエルにこう言う。
「アリエル、人間の暮らしはとても危険だよ。海の生活はどこよりも楽しいんだから」
 僕は、家の外に出ることが許されていないという点で、アリエルとよく似ていた。
 ビデオを見ていると、突然画面が砂の嵐になりデッキがうんうんうなり声をあげて止まった。壊れてしまったのだ。
 僕は幼い小春をおんぶして、家の外に出た。僕はその時初めて、一人で玄関の外に出て行った。外に出ればビデオの治し方を知っている人がいるかも知れないと思ったのだ。母の出産のときには思いつきもしなかった解決策だった。玄関を開けると、ひんやりとした新世界の空気が、母の吐き出すニコチンにまみれた僕の小さな肺を満たした。虹色の空気は、たまに入るお風呂のように気持ちが良かった。僕は、人間の脚を手に入れたときのアリエルと自分を重ねた。体が光りだしてしまうくらい嬉しかった。
 しかし、階段を上がってくるハイヒールの音で、僕の輝くほどの喜びはかき消されてしまった。母親が帰宅してきたのだ。僕は小春を背中に抱いたまま、母に頬をぶたれた。そのままいつものように気絶するまで殴られるのだろう・と思ったが、その日僕は一発だけで済まされた。拍子抜けした。
 母は、僕と小春を扉の内側に強引に入れると、魂の抜けた幽霊のように靴を履いたままベッドまで行き、十分に泣き声をあげてから寝た。
 小春の情緒不安定なところは母によく似ている。スイッチが入っているか切れているか。それしかないのだ。


 小学校に上がる年になっても、僕は学校に通わなかった。リトルマーメイドの代わりに、僕にははらぺこあおむしの絵本が与えられた。僕はそれを1000000回は読んだと思う。僕が本を読むのが大好きなのは、間違いなくあのときの”はらぺこあおむし”が遠因している。
 小学一年生の夏休み初日(毎日が夏休みみたいなものだったが)、担任が僕の家を訪ねてきてくれた。40くらいの、目立たないことを生きがいとしているような細い体の女教師だった。
「今度私と、私の娘と一緒にお出かけしませんか」
 担任は僕と母にそう言った。
 案外母はそれを許してくれた。
 担任はその何日か後に、車で家まで迎えに来てくれた。
「たまにはいつもと違うことをしないと、子供でも鬱になるから」
 母は僕に焼かれていないトーストを食べさせながらそう言った。そして僕は一人で玄関外に出された。母はついてこなかった。気分がうきうきとしてたまらなかった。叫び声をあげながら駆け足で階段を降りて行った。
「竜也君は元気のいい子なのね」
 階段の下で待っていた担任は、僕の頭を撫でるとそう言った。優しそうな声の人だな、と僕は思った。嬉しくなった。僕は周りを見晴らした。野良猫がいた。バッタがいた。青い空に白い雲があった。熱かった。汗をかいていた。雲と雲の間を自由に駆け抜ける一筋の飛行機雲があった。
 自由。
 担任の後ろには黒い大きなワゴン車があった。車の中から、僕と同じ歳の女の子がこちらに手を振っていた。
「ママ!ママ!」女の子は車に乗り込んだ母親-担任に向かって叫んだ。「ママ!ママ!この男の子がビンボウの子?」
 その言葉だけ強烈に覚えていて、それから担任や僕がどうリアクションとったのかよく覚えていない。

 とにかく、小春と母以外の世界中の女は、よく喋る。
「ママ!ママ!この子男の子?(実際僕は声変わりするまで女の子とよく間違われた)。ねえ、あなた男の子? 男の子ってさ、虫好き? 私嫌い。 あなたは虫好き? あたしのお兄ちゃんは虫好き。私虫よりも金魚が好き。あと猫! 猫かわいいもん。虫はかわいくない。あなたは猫好き? 猫かわいいよ。うちの猫チロっていう名前なの。お父さんがつけたの。うちの猫10歳。私よりも年上なのよ。
 あたな猫好き? 教えて」
「好きだよ。でも猫よりも金魚の方が好き」
 僕はそう答えた。僕は今でもよくしゃべる女がいたら、彼女の質問には適当に応えることにしている。
「じゃあ虫は?」
「分からない」
「なんで分からないの? 嫌いなの?」
「嫌いかも知れない」
「男の子なのに?」
「うん」
「じゃああなたは…ごめんなさい。あなた、じゃなくてお名前なあに?」
「たつや」
「たつや君」
「そう」
「変な名前」
 僕はそのとき妙に傷ついて、2度と学校には行かないと決めた。僕は自分が人に対して敏感であるということを、この時薄々気付いた。
 担任は、僕にミュージカルのキャッツを見せてくれた。「お父さんが行けなくなったから、チケットがあまっちゃって」と彼女は僕に教えてくれた。僕は初めてのミュージカルを心から楽しんだ。特にラムタムタガーとガスの小芝居の場面が大好きだった。楽しくて勇ましいのに、どこか悲しげなところが好きだった。
 僕はそれ以来ミュージカルの虜になった。家に帰っても、キャッツの猫たちの絵ばかりを書いた。ミュージカルをコンセプトとしたバーを開店したのも、このことが遠因になったと思う。 

 小春は僕とは違い、7歳になると小学校に通い始めた。僕はその頃小学6年生になっていた。僕が小学校に上がる頃、家はとても貧乏だったが、小春の入学式の直前に母は宝くじを当てた。何千万か忘れてしまったが、とにかく千万単位の金が僕の貧乏だった家に舞い込んできた。
「いくら欲しい?」
 と母は僕に尋ねた。
「1万円ください」
 と僕はおそるおそる母に応えた。母は一万円札を僕にくれた。お札を手にするのは初めてだった。
「何に使うの」
 と母は煙草に火をつけながら僕に訊いた。
「図書館に行くのにタクシーを使いたいんです」
 僕はそれが名案だと思ったのだ。僕は学校に行く代わりに毎日図書館まで片道90分自転車をこいでいた。
「それならあんた、本屋に行って本を買ってくればいいのよ」
 母はそう言って、もう五万円僕にくれた。
 僕が一人で本屋に出かけようとすると(この頃はとっくに外出が許されていた)、小春が、
「私もついて行っていい?」
 と聞いてきた。僕は「いいよ」と答えた。僕はせっかく五万円を手にしたのだから、電車に乗ってみようと思いついた。隣の駅に大きな本屋があることを僕は知っていた。
 電車の中で小春は居眠りをした。駅についても小春は起きなかった。僕は電車に乗るのが好きだったので、小春が起きるまで電車に乗り続けようと思った。しかし小春は三時間が過ぎても六時間が過ぎても起きなかった。
 僕たちはそのまま最終電車の車掌に保護された。そのとき僕は安心感からか、大泣きしてしまった。僕が産まれて最初で最後に泣いた時だ。
 やがて母親がタクシーで迎えに来た。
「本は買わなかったの?」
 と母は聞いた。僕はその一言で本を買うために五万円をもらったことを思い出した。しかしポケットをどんなにまさぐっても、五万円は見つからなかった。僕は「終わった」と思った。今日僕は母親に殺されてしまうんだ。
 しかし母は、
「あんたの父さんもそういうところがあったのよ」
 と言うだけだった。母子三人でタクシーに乗り、家に着くと母はいつものように靴を履いたままベッドに向かった。そのまま母は寝るのだろうと思いもしないほど思っていたが、母は寝る前に僕を部屋に呼びつけ「入りなさい」と言った。母はベッドをめくると、紙屑のようにぐちゃぐちゃの一万円札たちがその下にあるのを僕に見せた。
 僕が子供部屋に帰ると、
「お兄ちゃん」
 と暗くした部屋から小春の声がした。「お兄ちゃん、いいものを見せてあげる」
「いいものってなあに?」
「じゃあん」
 小春がポケットから出したのは、数枚の一万円札だった。
「まいったな」
 僕はそう思った。
 小春は大きくなっても金の使い方を全然覚えなかった。

 僕は中学にあがるころになると、母の遺産を使って沢山の本を読み、ミュージカルに脚を運んだ。母は自殺した。しかしそれは僕にとって昨日の天気よりもどうでもいいことだった。僕は毎朝小春にご飯を作ってあげると、その日どの本を読むかを決め、小春が家に帰ってくると劇団四季の劇場に足を運んだ。僕が好きな演目はクレイジーフォーユーとオペラ座の怪人だ。もちろんキャッツは嫌いではなかったが、観過ぎてしまって新鮮味がなくなった。僕は自分をオペラ座の怪人のファントムと重ねた。そしていつの日か自分にもクリスティーヌが現れるのではないかとロマンを抱いた。とっくに恋をしていても良い年齢だったが、僕は小春以外誰も知らなかった。
 小春は、毎日綺麗な服を着て、一日も休むことなく学校に通った。たまに小春は友達を家に連れてきた。小春のまわりには常に友達がいた。小春はたまに友達に母の莫大な遺産の何千分の一という、小学生にとっては莫大な大金をあげていた。小春はそれを
「友達作りの秘訣」
 と呼んでいた。「お兄ちゃんもこうやって友達をつくればいいのに」
 しかし僕が小春をみる限り、確かに小春の友達はお金の享受をありがたく思っていたが、小春の人間的魅力がなければあそこまで人を引き寄せることはできなかったように思う。小春は産まれたときからセンスが良かった。ウエストサイド物語を一緒に観にいった日のことだ。いつものようにトニーは殺され、マリアが一人残された。
「一番悪いのは誰だと思う?」
 小春はカーテンコールのあと、僕にそう聞いた。周りの客が馬鹿みたいに儀式的な拍手を演者に送っていた。
「小春は誰だと思う?」
「悪い人はいないのよ」
 小春はそう言った。
「二人も死んだんだよ」
 僕はそう応えながらも、小春の感性の高さに驚いていた。まだ小春は10歳そこらだった。
「みんな悪くないの。みんなかわいらしいの。アメリカ人もメキシコ人も、警察官も」
 小春。
 ジェット団はメキシコ人じゃなかったと今になって僕は思う。
 とにかく小春の感性は素晴らしい。生きていく辛さを敏感に感じ取るほどにセンスがいい。

 僕が16歳になった頃だったと思う。小春は小学六年生だった。
 いつものように図書館で本を読んでいると、僕は急に自分で小説が書きたくなった。急いで家に帰り、頭の中からわき出てくる言葉の洪水を、原稿用紙で堰き止めた。作品は、小春と僕をモデルとした私小説のようなものに仕上がった。タイトルは「二人歩記(あるき)」とつけた。
 僕は完成した原稿をどこに送っていいのか分からず、とりあえず横浜新聞社に送った。有名になりたい、とか、お金が欲しいとか、そういった動機は(全くなかったわけではないが)なかった。ただ誰かに読んでほしかった。
 原稿を郵送した5日後に返事が届き、横浜新聞は僕の拙い文章を週一で掲載してくれると僕に約束をした。
「ここに『母さんが宝くじをあてた』って書いてあるよね?」
 横浜新聞の女の編集者が、僕をスターバックスに誘いそう尋ねた。僕はコーヒーのにおいが苦手で、胃がむかむかして仕方がなかった。
「はい。それは本当なんです。母は宝くじであてた大金を残して死にました」
「今、それで生活をしている。と。」
「はいそうです」
「足りてる?」
「なにがですか」
「お金のことよ。生活費とか。まだまだ暮らしていけるほど足りてる?」
「ええ」
「あと何年くらい持ちそう?」
「妹次第です」
「つまり?」
「妹には大学まできちんと出てほしいと思っているから」
 僕はそのとき本当にそう思っていた。
「なるほどね」といいながら女編集者はコーヒーに視線を落とした。女の白いコートについている、趣味の悪いカメレオンのペンダントが僕はずっと気になっていた。僕がそれを凝視していると、女はそそくさとそれを外して鞄にしまった。「カメレオンとか好きなの?」と女は僕に聞いた。
「いえ。別に」
 僕はそう応えた。そのとき僕は、小学一年生の頃僕にミュージカル・キャッツを見せてくれた担任とその娘のことを思い出した。そしてどうして女という生き物はぺらぺらとよく喋るのだろう、と考えていた。女と言う生き物は皆、知りたがりだから喋るのだろうか、それとも自分のことをただ伝えたがっているだけなのだろうか。
「彼女とかいる?」
 僕の妄想をよそに女はそう尋ねた。
「いえ」
「彼女ができたことは?」
「ありません」
「あなたは、もしかして童貞?」
 僕はその質問に正確に正直に答え、結局僕はこの日童貞を捨てた。「これで原稿料はいらないでしょ。宝くじの残りもたっぷりあるもんね」と女は言った。大磯にある女の婚約者の部屋だった。月明かりが海に反射し、青い光が女の裸体を薄く塗っていた。僕はそれを見ていると、ノルウェイの森の直子のことを思い出して少し悲しくなった。
 僕と女は、それから何度も逢瀬を重ねたが、結局僕が女の婚約者にぼこぼこに殴られて関係は終わった。
 かなり美人な女だったが、魂までは美しい人ではなかった。
 世の中にはそういう人がいっぱいいる。
 性欲はそういった徳を見抜かない。

 僕と女は二度と会わないことを約束した。連絡は必要最低限しか取り合わなかった。原稿を書き、郵送し、受け取り完了のFAXをもらい、あとはまた書くだけだった。推敲も校正も絶対にないように、僕は自分の原稿を何度も何度も読み直した。たまに小春が部屋に入ってきて僕の原稿を読みながら、「私はもっと素直よ」だとか「お母さんはもっとお兄ちゃんを殴ったわ」とか言った(感性豊かな小春曰く「人々は他人の不幸を好むんだから、暴力シーンは細かく描写した方がいいのよ」)。小春はとにかく読むのが早かった。小春は元々賢いのだ。しかし知能指数が高い代わりに知的欲求が恐ろしく低かった。それは彼女の素直さと理解の早さに直結していた。僕は妹のそういうところも好きだった。
 女と会わないことで僕は性欲のぶつけ先に困ったが、結局マスターベーションを覚えてそれを解消することができた。僕の性体験の順番は逆だった。本番の後に練習があった。
 しかしある日、連絡をしないと約束をした女から連絡があった。
「あなたのお父さんという方から、あなたに会いたいって」
 女は「あなたのお金が目当てなんじゃないの」と僕に忠告をした。僕もそうだと思った。しかし僕は念のため、女を通じて僕の連絡先を父と名乗る男に教えた。
 それで結局僕は父と会うことになった。もちろん小春も同席した。それに「心配だから」というので、女も同席することになった。
 父と僕たち二人(とプラス一名)は桜木町の大桟橋国際船ターミナルであった。父は豪華客船でピアノを弾く仕事をしているという。太っていて禿げていた。その姿を見て僕は将来に絶望した。
「お母さんは死んだのか」
 と父は僕に尋ねた。
「死んだ」
 と僕は答えた。
「あいつは薬でエイズになってた、っていううわさがあったんだよ。本当かもしれぬな」と父は言いながら笑ってた。「俺はそれでも勇気出してお前の母さんとヤったんだよ。ダチとの賭けに負けてね」
「何度?」
 僕はそう聞いた。
「何の回数を尋ねているんだ?」と父、
「何度ヤったんだ?」
「一度だけさ」
 父はそう答えた。
「いつ?」
「さあ。十年前かな」
 つまり父は、小春の父であり僕の父ではなかった。僕はそれを安心していいものなのか、小春のためを思ったらいいものなのか考えたけどすぐにそれもやめた。このことをいつか小説にしてやろう、とそんな風に俯瞰していた。書くことで僕は強くなった。
 やはり小春の父は、僕に金をせがんだ。僕はそれを快く引き受けてあげることにした。
 父と母のことで、小春は少なからずショックを受けたようだった。帰りのタクシーで小春は涙を流した。女が小春の頭を撫でて、「大丈夫よ。冬のあとには必ず春が来る。夜のあとには朝が来る」と言った。
 僕はその言葉を聞くと、胃の中のものすべてを嘔吐した。
 ついてない日だった。

 次の日小春は学校にいかなかった。
 朝起きてくると、
「お兄ちゃん、私もエイズなのかな」
 と小春は僕に尋ねてきた。
 僕は
「違うよ」
 と応えた。
「なんで分かるの?」
「なんででもだよ。小春は今だって元気じゃないか」
 その日小春は自分のブログに「エイズになりました」と書き込んだ。小春のファンであるオヤジ達が「やっぱり君も俗物だったんだね」と小春に対しコメントしていた。僕は彼らに「妹を馬鹿にするやつは殺してやる」と書き込んだ。小春はそのやりとりを見て、ブログを閉鎖してしまった。
 僕は彼女の部屋に行き
「変なことをコメントしてごめん。あまりにもカっとなったんだ」
 と言った。小春は返事をせずに、椅子の上で体育座りをしながら顔を伏せて泣いていた。
 僕は小春の椅子のそばに座り、何分間も小春の言葉を待っていた。何分間がたち、何十分が経ち、そして何時間も経った。僕は仕方がなく自分から口を開くことにした。
「小春がまだ幼いころ、僕は小春と一緒に電車に乗って、隣の駅まで本を買いに行こうとしたんだ。覚えてるかな」
 ほんの数ミリ頷く小春。
「そしたら小春が眠っちゃって、すぐに起きるかなって思ったのに。なかなか起きなくってね」
「あのときね」小春が口を開いた。「あのときね、本当は起きていたの」
「覚えてるの?」
「覚えているよ。お兄ちゃんのポケットからお金を盗んだのは私だった」
「そうだと思ったよ」
「あのとき、私がずっと眠っていれば、電車がうんと遠いところに行って、もうお家に帰らずにお兄ちゃんと二人で暮らせると思ったの」
「その夢が叶ったね」
「叶ったね」
 そういうと小春は声をあげて、また泣いた。僕は小春を抱きしめた。抱きしめた小春の体は、森の奥地にある陽の当らない誰も見たことのない小さな草のように、今にでもくしゃっと壊れそうだった。
「こないだお母さんの夢を見た」
 小春は僕の腕の中で、泣きながらそう言った。
「どんな夢?」
「お母さんの背中から羽が生えて、お母さん空を飛んで行く。私とお兄ちゃんもそれについていくの。どこに行ったのか知りたい?」
「教えて」
「右から二番目の星」
「ピーターパンだ」
「でもそこにはティンカーベルや赤い顔のインディアンじゃなくて、人魚のアリエルとセバスチャンがいた。お兄ちゃんが好きだったビデオ」
「リトルマーメイド」
「でも私、あまりあのビデオが好きじゃなかった。アリエルが人魚のお友達や家族のことを考えないで人間になりたがるところがイヤだった」
「ごめん。でも僕は幼いころ、本当にあのビデオが好きだった。というよりあのビデオ以外好きなものがなかったんだ。特にアリエルが人間の世界にあこがれて、洞窟の中で人間の素晴らしさを歌うシーンが好きだったんだ。僕も素晴らしい人間のはずなんだ、って僕はあの歌を聞くと嬉しくなったんだ」
「私リトルマーメイドを見ているときのお兄ちゃんが好きだった」
 そのとき笑った笑顔が、母によく似ていた。
 僕はそれを何故か嬉しく感じた。

 それから小春の背中には緑色の羽がはえてきて、小春は宙に浮いた。「またね」と小春は僕に言うと、窓をあけて夜空を飛んで行った。
 僕は小さくなっていく小春をずっと見ていた。
 小春はどんどんと墨を流したような夜のとばりを右側に進んでいき、一番右の星の手前、”右から二番目の星”の角を左に曲がり、とうとういなくなってしまった。
 僕は小春の机の上に置いてある注射器を引き出しにしまうと、これからどうすればいいのか一生懸命考えた。まずは小説を書こう。それからミュージカルの曲が流れるバーを開店しよう。いずれ僕も脱皮して蝶になるだろう。

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