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日記ロワイアルコミュの招かれざる客

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それは招かれざる客だった。

息子の晃は今年高校3年生。
成績はそれなりによく、今は受験戦争の真っ只中。
夏を越え、少しずつピリピリしたムードになってきた。
最近は夕食も参考書を片手に採る。
独り言の英熟語が小気味よく繰り返される。
ハンバーグが盛り付けられたお皿の横には、
必ずといっていいほどいつも付け合わせの野菜が手付かずで残される。
指摘をすると、一口だけ食べる。

妹の幸子は中学2年生。
この世代の女の子は何かと扱いづらい。
いつも部屋にこもり、大きな音でオーディオを鳴らしている。
「もう少し音小さくしてくれない?」
先日業を煮やして頼むと、笑いながら舌を出し、
ボリュームをリモコンで落としながら、
勝手に部屋のドア開けないでよと拗ねたように言った。
散らかった部屋には、何とかティーンといった雑誌が無造作に散らばる。
マニキュアやコロンの瓶が、中央の机の上に数本置かれている。
鏡を見ながら髪を触っていた。

旦那の忠志は、44歳になった。
中規模の家電部品メーカーで課長代理をしている。
課長代理がどんなポジションなのかはわたしにはよくわからない。
ただ、たまに夜、夫から投げかけられる仕事の話を聞く限りでは、
世に言う中間管理職の重さを両肩に背負う席であることはわかる。
それでも、給料は並だ。
不況は脱したといわれる中、取引先の家電メーカーは依然として景気が悪く、
下請けにも厳しいと先日夫が愚痴っていた。

わたしは旦那より2つ年下。
こんな家族に囲まれ、23の時に結婚をして、今年で結婚生活19年目を迎えた。
息子も娘も概ねまっすぐ育ってはくれている。
旦那とも、うまくいっている。
どこにでもある人並みの家族像。そうだったと思う。
幸せの軸の中心にはない生活ではなかったかもしれないけれど、
それも誤差の範囲だった。
幸せじゃないとは到底言えない。
日々の生活には満足していた。

そんな中、突然家族が一人増えた。
旦那のお母さんと突然同居することになった。
正直招いて迎えた客ではなかった。と思う。
少なくとも私からは。


******************************


結婚をしたばかりのころは、
まさか将来お義母さんと同居することになるとは思ってもみなかった。
そもそも旦那は次男。
それが、結婚した2年目。
ちょうど晃が生まれたころに、
旦那のお兄さん、長男が急逝したことで状況が変わった。
「将来は母さんの面倒みなくてはいけないな」
旦那が何かの会話の合間にそう言ったことを覚えている。
当然だと思う。長男がいなくなれば次男が面倒を見る。
ただ、それはどれくらい先の話か、そのころは想像もつかなかった。

10年前、旦那の父が亡くなった。
まだ61歳。すこし早かった。
お義母さんはそれからずっと一人で暮らした。
何度か同居を勧めてはみたけれど、
「まだ健康だから。体が悪くなってからお願いする」と
断られていた。
「体悪くなってからでは遅いのに」
そう思っていた。

その夏。お盆に帰省をしたときに突然決まった。
「もうそろそろお世話になろうと思う」
お義母さんは69歳になっていた。
体はまだまだ元気だった。
わたしは急な申し出に驚きはしたけど、予感はしていた。

しばらくして、我が家の食卓は4辺を5人で囲む歪な形になった。


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一階の和室がお義母さんの部屋となった。
小さなテレビがひとつと仏壇。タンスが一本といった質素な部屋だった。
お義母さんはその部屋からほとんど出ることなく一日を過ごしていた。
いわゆる昼ドラの嫁と姑。そんな関係ではなかった。
ただ、4人家族+1が5人家族になっていたか?
そういわれると自信はない。

お盆とお正月。
年に数回会うだけなら話すこともたくさんある。
ただ、毎日となると。
子供たちももっと小さな頃ならすんなり受け入れられたであろう。
ただ、これまで永らく築きあげてきた4人家族の強固な柵の中には、
なかなか後から入り込むのは難題であった。
途中からの同居。難しさは聞いて知っていた。


******************************


1年経った。
その間に晃は大学生になった。
幸子は中学3年生となり、受験生に。
夫の忠志は相変わらず中間管理職の厳しさに晒されている。
わたしは…。

一人で暮らしていた頃のお義母さんは確かに元気だった。
ただ同居するようになって1年で本当に急激に老けた。
70歳だから当然ではある。
それと同時に、わたしの中には複雑な感情が生まれてきた。

食事の後の食器洗い。
お義母さんの申し入れで、お義母さんの仕事になった。
わたしはいつも夜中、
お義母さんが洗ったはずの食器を全部もう一度洗い直していた。
一度だけカレーを食べた後の食器がきちんと洗われていなくて、
洗い残しを見つけてしまったことがあった。
それからずっと洗い直しをしている。

振り込まれる年金の使い方。
近所の服屋で新しいスカートを買う。
そのたびに、なぜか不快感が押し寄せた。

旦那は違っていた。それもわかる。
自分の母親だ。
幼い頃、母に育てられたその事実は、
年を重ね、髪の毛が薄くなり地肌が透けて見えるようになった今でも
どこかにおぼろげに形を残している。

「あんまり気にするなよ」

そう言われるたび、わたしの心は複雑にねじれていくのを感じた。


******************************


表面上は普通に接していた。
ただ、わたしの心の中は、絶えず沸々と煮えていた。
きっとこれはお義母さんも同じであろう。そう思っていた。
旦那の嫁の至らない点。
わたしにはわからなくても、きっと見えている。そう思っていた。

嫁と姑。
難しい問題だ。

毎日考えていた。理解していた。理解しようとしていた。あの日までは。


******************************


その晩、いつもどおり夜11時ごろ浴室の扉を開けた。
わたしは家族で最後にお風呂に入ることがほとんどだった。

扉を開けるとすぐに違和感を感じた。
充満するにおい。
そのにおいの正体はすぐにわかった。
壁に塗られた茶色い粘体。

シャワーで洗い流すわたしの背中は小刻みに震えていた。
悲しみ、怒り。
そして嘔吐。においがきつい。

3日後、同じことが起こった。
最後の浴室に充満するにおい。
それはお義母さんの便だった。

言い出し方がわからなかった。
見つけるたびに、わたしはシャワーで洗い流した。

旦那に相談した。
「困ったな」
一言いうと、頬がひしゃげた。


******************************


「きゃあ!」
幸子の悲鳴が聞こえた。
トイレから声が聞こえる。
「見て!」
言われるがままにドアを開けると、異臭が鼻を突いた。


「お風呂だけじゃなくてトイレにも。
 このままだと部屋とかにも同じように。
 ボケなのかなあ」

旦那に相談をする。
旦那は人差し指を眉間に当てる。

4人家族+1を5人家族にする。
表面上はそう努力をしていた。
今となっては、『+』自体が薄く消えかかっている。

次の日、お義母さんに旦那が問いかけた。
お義母さんは知らないの一点張りだった。
最後は怯えるように涙を浮かべていた。

これ以来、たびたび壁を拭くことがわたしの仕事のひとつとなった。


******************************


旦那には何度も泣きついた。
旦那もそのたびに理解はしてくれていた。
それはわかっている。
対応方法がわからなかっただけ。

子供たち二人は我関せずのポジションを貫いた。
小学生くらいならもっと騒いでいたのであろう。
晃も幸子も大人になっていく。
そんなことを気付かされた。

しばらくして、旦那が老人ホームのパンフレットをもらってきた。
家の前に救急車が止まったのはその次の日のことだった。


******************************


12月に入り、寒さが増していた。
2日前に降った雪がところどころに白く残っていた。
わたしは寒さに震えながら、自転車に乗って家路を急いだ。
前のかごには夕飯の材料が積み込まれていた。
最後の曲がり角を曲がって血の気が引いた。

お義母さんが散歩帰りに雪で滑って転んだ。
玄関先でうずくまっているのを隣の家の加藤さんが見つけて
救急車を呼んでくれたらしい。

わたしは食材が入ったポリ袋を焦りながら玄関先に置いた。
ちょうどお義母さんは担架に乗せられ、救急車に乗せられるところだった。

救急車の中ではわたしの手を握り、
痛みをこらえた顔でずっと言葉を繰り返していた。
「えらい、すみません。えらい、すみません」
わたしは、手を握り返した。


******************************


「お年寄りの骨は本当に弱いんです。
 骨盤が折れてますね。絶対安静。入院です」

お義母さんは、その日から、病院で全身を固定された生活が始まった。

わたしは病院に詰めた。
身の周りの世話は楽じゃない。
晃も幸子も、こうなると他人事ではない。
しばしば病院に顔を出すようになった。

お義母さんはずっと泣いていた。
腰の痛み。
自分自身の情けなさ。
泣く理由はいろいろあったのであろう。


******************************


いつもどおりに病室へ入った。
入院してからちょうど一週間。
「えらい、遠いところからお越しいただきまして。ご無沙汰してます」
背筋が凍った。

「お年寄りは、一度入院してしまうと、
 急激に痴呆になることがあるんです」

先生はそう言った。
この日から、お義母さんは急に記憶があいまいになった。
すぐに私のことはわからなくなった。
旦那のことも息子、娘のことも。
そして、1ヵ月後、帰らぬ人となった。
あまりの急に。突然に。


******************************


寂しいお葬式だった。
お通夜にも式にもほんの数えるだけの知り合いが来ただけだった。
仏壇の上に飾る写真は、まだ元気だった頃、
一人で暮らしていた頃の優しい笑顔のものを選んだ。
選んだのは私だ。

旦那はお葬式では泣かなかった。
ただ火葬場ではずっと泣いていた。
白い小さな骨を見て、声を詰まらせて泣いた。


部屋の掃除をした。
あの日、散歩に出かけて、
もう2度と帰ることができなくなるとは思ってもみなかった部屋には
お義母さんのひっそりとした生活の匂いがそのまま残っていた。
タンスのひきだしを開けた。
干支のイラストが入ったお年玉袋。
裏に『晃くん』『幸子ちゃん』と書かれた袋の中には
それぞれ2万円と1万円が入っていた。
もうひとつ、誰の名も書かれていないお年玉袋あった。
ひとつだけ糊付けされている。
そっとハサミを通すと、中からは5枚の1万円札と
便箋が入っていた。

「えらい、ご迷惑をおかけします。
 あと少しだとは思いますが、これからもよろしくお願いします。」

決してうまい字ではなかった。
震えながら先の丸まった鉛筆で書かれたその文字は、
何度も消してなおしたのであろう、消しゴムで消された跡が残っていた。
その手紙は私に宛てたものだった。
おそらくお義母さんの70年の人生で最期に書いた手紙だ。
まぶたが熱くなった。
手紙に涙の粒が落ちた。

人間だれもが老いる。
老いを経験する頃には、だれもが人生の最後を意識し始める。
わたしは悔いた。
お義母さんは人生の最後の章を、寂しいままで過ごしたのではないか。
4人家族+1。
今考えると、意図的にこの数式を5人家族にしようとしていなかったのではないか。

病院でお義母さんが流し続けた涙は、痛みでも情けなさのせいではなく、
久しぶりに触れた人の温かさのためだったのではないか。

わたしはとめどなく流れる涙をとめることができなかった。
「ごめんなさい」
謝罪の言葉が今頃になって出た。


******************************


あれから月日が流れた。
旦那は去年、定年で会社を辞めた。
最後の役職は部長だった。
晃も幸子も結婚をしてひとりずつ子供ができた。
孫がふたりできたことになる。
休日、たまに連れてくる孫の顔をみると自然に頬が緩む。
同時に、老いを自覚する。
人生の終わりが自分にも、毎日近づいてくるのがわかる。

今、旦那と二人で暮らすこの家。
いつかは晃が家族を連れてくる予定だ。
はやりの2世帯住宅でもいい。
2人家族+3人家族がうまく5人家族になるように。
そう願う。

わたしは、台所でメロンを切ると居間に運んだ。
旦那が新聞に目を通していた。老眼鏡をかけて。













 

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退社後の電車内で溢れる涙をとめられませんでした

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