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日記ロワイアルコミュの愛を乞う人

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マイミクTOMOさんの日記を推薦します。
長文ですが、たくさんの人に読んで欲しいと思いました。

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昔、そんなタイトルの映画があったけど、私もずっと愛を乞う人だった。いつも愛情に飢えていた。

人間の愛情の基本というか、出発点はMother's Loveだと私は思っている。

母親の子供に対する愛情は絶対的なものであると信じて疑わなかったから、母親に捨てられたと知った7歳の時、私は酷くショックを受けた。しかし……
母親を激しく憎みながらも、私はいつも激しく母親の愛情を求めていた。

私は7歳の時に両親が離婚して5歳になる妹と一緒に父親に引き取られた。
最初、私たち姉妹は別々に引き取られるはずだった。私が父親のもとに残り、幼い妹が母親のもとへ。

今でもその時に父親が撮った写真が二枚だけ実家にある。一枚には、父親が向けたカメラに恥ずかしそうに微笑む5歳の妹と、その妹の手をしっかりと握る祖母が写っている。もう一枚には、妹を膝の上に乗せ抱きしめる祖父。二人の目は泣き腫らしたように真っ赤になっていた。そんな祖父母をカメラのファインダー越しに見たからだろうか……姉妹は一緒に暮らすべきだと父親が裁判を起こした。そして子供二人の親権を勝ち取った。その時父親は31歳。今の私とほぼ同じ歳だ……

祖父母がいたとはいえ、男が幼い女の子を二人引き取り育てることは並大抵の苦労ではなかったと思う。今となっては父親にとても感謝しているが、当時は反発ばかりして固く心を閉ざしていた。

この歳になれば、離婚はどちらか一方が悪いわけではないことくらい分かる。一つのことが原因ではなく、いろんな要因が重なり離婚に至ることも……だから、今となっては母親を恨んではいないし、産んでくれたことに素直に感謝している。私の両親の場合も二人にしか分からない、いろんなことがあったのだろう。そして母親に好きな人ができ、二人は別々の道を行くことになった。


母親はよく幼い私と妹を恋人との密会場所に連れて行った。相手の男性は塾の講師で確か中学生に英語を教えていた。その男性と知り合ってから母親は私に熱心に英語を教えるようになった。私は利用されていたんだろう。密会に、子供を連れて行く母親がいるとは周りは誰も思わないから……
密会場所は塾として使っていた長屋のようなところだった。男性にも家庭があったようで二人はいつもそこで会っていた。襖で仕切られた畳の部屋。男性は毎回私と妹に紙袋いっぱいのお菓子や玩具をくれる。そして満面の笑みで私たちにこう言うんだ。


『おじさんと会ったことは、お父さんやおばあちゃんたちには内緒だよ。約束を守れたらまたお菓子や玩具をたくさん買ってあげるからね。指切りげんまん』


そして母親と男性は二人襖の奥に消えていく。私はお菓子に喜ぶ振りをしながら、いつも襖の奥に消える二人の背中を見つめていた。5歳の妹は、たくさんのお菓子や玩具に純粋に喜んでいたけれど、私の心の中には黒い闇が広がっていった。それは毎回濃く深くなっていく。それが父親への罪悪感だったんだと思う。幼いながらも私は母親が悪いことをしているのを感じていた。そしてこれがばれたら大変な事になる。小さな胸を痛めていた。

とはいえ、私は母親が襖の向こうでなにをしているか知らなかった。ある時好奇心からそっと襖を開け覗いて見た。しかしそこから先の記憶はない。

あるのは男性への憎しみ。そして殺意に近い気持ち。母親を取られてしまうという焦燥感。

……見たんだと思う。


人はあまりにショックな場面に出くわすと防御としてその記憶をなかった事にしようとするものなのだろう。子供ならなおさらだ。私は大人びた物静かな子供だったが、さらに口数が減り何を考えているか分からないと言われる子供になっていった。父親にはこのことを絶対知られてはいけない。黙っていることは私にとって相当なストレスだった。何かの拍子に、うっかり喋ってしまいそうで、私は父親を避けるようになっていった。

しかし二人の関係は父親にばれた。そして母親は出て行った。

母親を思い、目を閉じるといつも瞼に浮かぶのは母親が出て行った場面。
逃げるように車に乗り込む母親の腕にしがみつきながら、私は『お母さん行かないで』と泣きじゃくっていた。そんな私の腕を振り払い母親は出て行った……


私は母親っ子だった。おばあちゃん子だった妹と違い、いつも母親にべったりだった。だから、母親が私の腕を振り払った時は本当にショックだった。人間が抱く愛情や信頼の基礎が足元から崩れたような……それはトラウマとなり、その後20年以上も私を苦しめることになった。恋人でも友達でも家族でも……人から腕を振り払われるとパニックになる。努めて平静を装ってはいるが、頭が真っ白になり、動悸が激しくなる。母親が出て行ったあの日が蘇り、私は7歳の子供に戻る。私は誰にも愛されていないのだ。母親にさえ捨てられてしまう子供なんだから……


ごめんなさい。
いい子になるから捨てないで……

何でも言うことを聞くから嫌いにならないで……

そんな言葉が体の奥から込み上げてきて、自分がコントロールできなくなる。

過呼吸は苦しい。
死んだほうがましだと思うくらい。
生きたまま土に埋められるような恐怖。
このまま窓から飛び降りてしまおうか……
このまま包丁で一刺ししてしまおうか……

パニックから過呼吸になった時、いつもそんな考えが頭をよぎった。


両親の離婚で傷ついていた私をさらに苦しめたのは、いじめだった。私の住んでいたのは田舎だったし、今とは違って、当時は離婚している家庭は周りになかったからそれだけでいじめられた。近所付き合いの密な狭い地域だったから、母親が男を作って逃げたと周りの人達は面白がり噂した。他人の不幸は蜜の味……だな(笑)

小学校の時は集団無視や物を隠される、泥棒扱いされるなんて日常茶飯事。女の先生にも冷たくされた。男を作って家庭を捨てた女の子供は、やはり汚らわしいと感じていたのかもしれない……離婚が珍しくない今と違って、離婚なんて本当に考えられない時代だったから。まして母親が男を作って家を出るなんて信じられないことだった。

その先生が受け持つ教科に限っては、どんなに頑張っても、真面目に授業を受けても、テストの点数が良くても、通知表ではいつも5段階評価の『2』。当時は普通が『3』だったから普通以下の評価しかされなかったということだ。

先生のそんな態度を子供達はもちろん見ている。周りの大人達の言葉もしっかり聞いている。子供は純粋ゆえ、残酷な言葉も平気で言う。
ある時、私が同級生の男の子と話していたら、女の子のグループが近寄ってきて言った。

『TOMOちゃん、やっぱり男好きなんだ。TOMOちゃんのお母さん、男作って逃げちゃったんでしょ?だからTOMOちゃんも男好きなんだってうちのお母さん言ってたよ』

子供達だって意味は分からないで言っているんだろうが、否定すればするほど周りは『男好き』と笑いながらはやし立てた。それ以来、私は周りの目が怖くて同級生の男の子と事務的な連絡以外の雑談ができなくなってしまった。話そうとすると、

『男好き』

頭の中でその言葉がぐるぐる回り恐怖が込み上げてくる。
また母の日の授業参観に、お母さんにプレゼントする似顔絵を書くという授業があった。私は父親の顔を描いた。分かっているくせに、みんなは私を囲んで言った。

『これお母さんの絵じゃないよ。おかしいよ。ねえ、なんで?』

言葉につまりうつむいていると、一人が笑いながら言った。

『やめなよー。TOMOちゃん、お母さんに捨てられちゃったんだよ。TOMOちゃんは可哀相な子供だから、優しくしてあげなさいってうちのお母さんは言ってたよ』
私はとうとう切れた。

『私は可哀相じゃない!なにも悪いことはしていない!』

相手に掴みかかった。
そして10対1の取っ組み合いの喧嘩になった。

結局周りの大人は私を責めた。10人が口裏を合わせれば私1人なんか簡単に悪者になってしまう。
『片親の子供はこれだから……』
我慢しようが勇気を出して主張しようが、どちらにしてもいじめられるんだと私は悟った。

父親は私の躾には厳しかった。やっぱり片親だからね……と世間様から言われないようにとの思いが強かったんだろう。そんな父親に心配はかけられない。だから私はどんなにいじめられても学校は休まなかった。でも辛い……家庭にも学校にも居場所がない。そして他人は信じられない。言葉には出さなかったけれど、それは自分の意思に反して、異常行動、体の異変となって現れ始めた。

小学校の頃は、夜中になるといなくなった母親を捜しているのか、寝ぼけて泣きながら部屋中を歩き回る。ひどいときには鍵を開けて外に出ようとする。父や祖父母が止めに入ると、私は激しくは泣きわめき暴れ、大人が一人で取り押さえるのも一苦労。一時期は、親戚やお手伝いさんが泊まり込んで私を監視していた。徘徊しているときの記憶は全くない。いつも気付くと憔悴しきった顔の大人たちに囲まれていた。

『おい!しっかりしろ!』父に何度もビンタされやっと我に返ることもあった。夜中の徘徊は成長するにつれて次第におさまっていったが、今度は食べては吐く、吐いては食べるの節食障害が始まった。そしてパニック障害、今でいうリストカットも……

私の通っていた小学校は小さな学校で、一クラスが少人数で卒業すると近くにある中学校にみんな揃って進学する。だからイジメはなくならず、むしろ他校から来た人たちを煽りひどくなっていったんだ。

過食嘔吐を繰り返し、時に喉が擦り切れて血が出るまで指を入れて吐いたりした。さらには毎日大量の下剤を飲み続けた。食べていないから、何も出ないのにそれでも義務のように、精神安定剤のように、毎日毎日下剤を飲み続けた。トイレに行っても何も出ない。でもお腹が痛い、胃もちぎれるように痛い。なにより心が痛い。誰かに分かって欲しかった。誰かに気付いて欲しかった。いつも誰か助けてと思っていた。でも誰も私の痛みには気付かなかった。

よく死ななかったと思う。結局イジメは義務教育の9年近く続いた。中学時代は、私はとにかく今の環境から離れたくて、みんなが受験しない遠くの高校を受験することを目標にひたすら勉強に逃げた。それがよかったのかもしれない……
私をいじめていた人たちのほとんどが今は学校の先生になっているのは笑えるけど(笑)


============

トラウマを克服するのに、私は20年以上かかった。
克服できたのはつい最近のことだ。与えられなかったことを悔やむばかりでは何も生まれないことを知った。そしていまあるものや人に感謝をすることで見える世界は変わるのだと気付いた。

母親の愛情や温もりは得られなかったが、私が感じようとしなかっただけで、父親や祖父母の愛情や温もりはいつも近くにあった。

子供時代の辛い経験があったから私は人の心の弱さを知り、痛みを知った。
だから、絶対にイジメはしないと心に誓った。

母親がいなかったからこそ、もし将来この手に我が子を抱くことができたら、その時は私が得られなかった分まで愛し抱きしめたいと思えた。

今、強く思う。
人間は常に支える側であるべきだと。私は誰かに守ってもらうのではなく、大切な人を守れる強さを持ちたい。

もしも……

この日記を読んでくれている人の中に死にたいと思っている人がいたら、どうか死なないでください。人間は少しの気付きで必ず幸せになれるから。


子供さんのいる人なら……どうか、たくさんたくさん子供さんを抱きしめてあげてください。その小さな手を離さないでください。

離婚を考えている人なら……みんなが幸せになるために、ちょっと立ち止まって考えて見てください。そして、思い出してください。この人と幸せになると心に誓ったあの日を……
そしてきちんと話し合ってください。コミュニケーションは大切です。

どうか幸せになることを諦めないでください。

みなさんに、たくさんの幸せが訪れますように。
(^-^)

コメント(168)

自分のは父親と兄にトラウマですが共感できます。
一票
離婚なんてしたくない。
子どもと離れ離れなんて絶対に絶対に嫌!!
努力します。

一票。
一票!
人間は常に支える側にあるべきだ
という言葉が響きました。

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