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日記ロワイアルコミュの自覚あるのみ。

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ちょっと個人的な考察を含む、重めの内容ですが
読んで頂ければ幸いです。
文中にでてくる「AC」とは、「アダルトチルドレン」の略で、語源は「アル中の親に育てられた子供たち」ということです。
何かしらの生き辛さを抱える人たちをこう呼び、
今では、機能不全家族に育つ人も含めてACと呼ばれます。
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何事も自覚が必要ってことが、ACやらを知ってからわかったことだった。
この文章すら、ある人にとってはかなり湾曲して誤解されることがあって、とても難しい。



以前から、ACを自己認知する人に2つのタイプがあるなぁと感じてきた。
初めは「不快感」程度の認識だったものが、次第にはっきりとある傾向を見せてくる。



「自覚あるのみ」って言葉の受け取り方ですらその傾向が如実に出てくるから不思議だった。
価値観の違いといえばそれまでだけど、それでもなぜそんな価値観の違いが出るのか、その価値観の違いがなぜ二つに分かれるのかが不思議でならなかった。



私は虐待を受けた過去がある。
そしてそのことが偏った人間関係の結び方をする自分に関係があるだろうということはわかる。
とげとげしかった自分。

誰かの意見なんぞに穏やかに同意も出来ず、なのに人の顔色を伺い生きてきた。
テンション高めに乗り切ってきた。

かといってそのテンションすらも、人の態度によってその日のテンションの高さを決めるようなやり方。
まさに自分がない。
自分が無いから、他を基準としてしまう。
そんな自分であることを、ある時点で自覚した。

問題はそこから。


その行動を自ら選択したわけではない。
そんな風に「人を基準に、人に受け入れられやすい意見や態度を取る自分」を、自ら選択したわけじゃない。

誰が好きこのんで、そんなことするだろう。いるのかもしれないけど(笑)



そして、その時に考える。
なぜそんな風な人との関わりをするようになったのか。
その理由に、私は幼少期の経験が当てはまると思ってきた。

幼少期の被虐待体験が自分の精神に深く影響しているのではないか。 そう思ってきたけれど、それは現時点では間違った認識だったと思っている。

私は「虐待」という行動を、思考回路のオプションであると認識していて、その考えに行き着いたときに、私の中で被虐待体験と精神の問題が分離した。
「虐待が連鎖する」とずっと見聞きしてきた。
「親のようにはならない」と思いながら、親のようになるのだなと思ってきたけれど、じゃあ私は何だ?
私のこの存在は何だ?


ここに至るまでに、ものすごく色んなことを考えた。

みんな考えているだろうけれど、それでも私は子どもを生んでから、本当にそれこそ精神に異常をきたすのではないかと思うほどに考えてきた。
考えようとしたからこそ、見えてきたことがある。
ただ漠然と育児をしようとすれば、もしかしたら虐待してしまっていたのかもしれない。
そこらへんはわからない。
だけど、ずっと言われている「虐待は連鎖する」神話には、私は明らかに含まれていないと思っている。



カウンセリングや精神科のどちらも一度、どんなものかなと思って電話をしたが、カウンセリングの人は相槌と共感ばかりだし、辛かったですね、泣きたいだけ泣いていいんですよ、自分を好きになってあげましょうなんて言うし。
私はなぐさめてもらうために電話したのではなかった。

愚痴りたいからでもなかった。
私は今ここにあるこの頑丈な精神はなぜ育まれたのか、なぜ私は愛を受け取れなかったと自覚しているのに、愛することが出来るのか、ただそれが知りたかった。
なのに、「泣きなさい」と言われることに、物凄く大きな違和感を感じた。
なぜ泣くという作業を、指示されるのかわからなかった。

「嘆く」作業の大事さはすごくわかるので、そのことを否定はしないけれど、クライエントがどのような状況にあるのかぐらいは専門家として見極めないのかな?という疑問が湧いてしまった。

そしてその指示に不快感を感じてしまったその理由を知りたくなった。


精神科の人は即、「うつ病ですね」と眠剤を処方した。

思わず「はあ?」と声が出てしまった。
そのことに医者は、「眠れなければ鬱ですよ。そういうもんなんです、鬱って。」と言い切った。
何の参考にもならず薬も放置。
そんなことで私は自分の脳をごまかしたくないし
こうやってどれだけの人に「うつ病」という名前をつけて、

安心させてきたのだろうと思った。
その安心がある種の隠れ蓑となり、自身のおかしな行動の原因とされているところが不快だった。
うつ病であることを聞いて安心することも否定はしない。

だけど多くの方が、うつ病と聞いて
「だから眠れなかったり、会社に行けなかったんだ、怠けていたのでは無かった」と安心した後に
「なぜうつ病になったのか」の疑問を持たない印象を持っている。たとえ持ったとしても、それが過去の虐待経験によるものだとか、会社の人間関係が原因だとか、なんて理由づけをしてしまったら、いつも要因は自分ではなく他にあるということになってしまう。
これが私は「人のせい」ってことではないかと思っている。



私の好きなカウンセラーさんの著書では、「原因」とは表現しない。

意識して、「起因」としている。
原因とするならば、その原因をどうにかすることだけに目が行くからという理由。
「起因」としたとき、そのことの発端にはなっても全部の理由にはならない。


子どもが受ける虐待は全て「親のせい」。
これは真剣にそう思っている。
どんなに自己内省したところで、子どもの側に理由なんてないからだ。
「子どもが言うことを聞かないから」なんていうのは、親の側の理由でしかない。これは子どものせいにしているにすぎない。
そこに「私は虐待を受けてきたから」なんて理由を聞くと、本当に心底「はああああ!!??」となってしまう。
自らセックスして生んだ自覚の皆無の証拠。
虐待のせいにしているにすぎない。


その時に思う。
同じACであることを自覚しているにもかかわらず、なぜこんな違和感や不快感を感じてしまうのかが見えてきた。
いつも「誰か、何か、のせい」なのだ。
今、自分がその状況にあるということの理由が
全部他にあるという考え方。
「誰かがこう言ったから」
「こう言われたから」
「こういう過去があるから」
このコメントには常に、「仕方が無かった」という自己選択の免責を他者に促す言葉が続く。


本当に大切なのは「誰かがそう言った」ことに対して、自分はそうすることを選択したということではないのか、と思ってしまった。
誰かにこっぴどく言われたとして、そう言われたことで傷ついたことを訴えるのは簡単だけど
なぜ傷ついたのかの認識が甘い。
自己選択によるものだという目が無い。
なぜ傷ついたのかの理由さえ、私は被虐待者だからなんてことを持ってこられたら、どこまで人のせいやねん!と。



子どもの頃に受けた虐待には、何度も言うようだけど、子どもにその責任は一切ない。
そしてその経験によって、ある一定の精神構造になってしまうことも自身の経験によって体験した。
その多くの人は確かに生き辛い人生を送ることになる。

親密さを心底求めながら、その真逆を行く現実に打ちのめされたりもする。
ただそれは虐待によって、ではなく
価値観や思考回路を受け取った結果でしかない。


虐待をする親の多くは、「人のせい」が大好きな人であると思っている。 その思考回路を受け取っただけ。学んだだけ。
そしてそのままの思考回路で、言うことを聞かない子どもにイライラしたり、抵抗不能な弱いものに怒りを発散させているにすぎない。
その行動すら、自身の虐待経験を理由にするほど
「人のせい」が好きな人たち。
突発的に、暴力を伴わなくとも
「人のせい」思考は、「パパのような人間になっちゃいけないよ」とか「もし○○だったら幸せになれていたのに」とか「私はなんて不幸なんだろう」という発言に繋がって、自己の選択による今であることを自覚できないまま暴走。
暴力は是が非でも避けただけの育児になって
子どもは忠実にその思考回路を受けつぐ。


これは本当に人間形成に大きな障害だと思っている。
親が人のせいにしない、何かのせいにしない姿勢をずっと保っていたら、子どもはそのような価値観を持つはずがない。



私の言う「自覚あるのみ」っていうのは
こういうことを指す。
「虐待されたから」「愛されてこなかったから」
もろもろの理由で、何かが出来なかったり
してはいけないことをしてしまう理由にはならないことに自覚を持つということ。



私は母に愛されてこなかったと思っている。
それは今も変わりない。
だけど、そのことで子どもを愛せないわけじゃない。
今も母を憎く思い続け、そんな自分を憎く思う
そういう自分をもうそろそろ何かの概念で許すとしたら、「母もまた愛されてこなかったから愛せなかったのだな」という言葉しかなかったということ。
愛されなかったから愛せないなんてことが通用しないってことを、私は自身の育児によって知った。



「愛する」ってことを大真面目に何年も考えてきた。
ここまで書いて「はあ??」と思われるだろうが
私はその愛を犬から教わったと思っている。
今まで、そんなバカな!と思う自分と、そうとしか思えない自分との狭間で揺れている時期もあったけれど、今は胸を張っていえる。



前の結婚のとき、セックスレス夫婦だった私。 不倫に明け暮れ、どうしようもない自分だった。
誰かのせい、何かのせいで行き繋いできた私。
そんな私がはじめて暖かい生きているモノに慕われた記憶。

膜に包まれた仔犬を手に受けたときのあの生暖かさ。

誰も教えないのに、乳を飲ませる母犬。
風呂に何日入ってなかろうが、涙でぼろぼろになっていようが、いつも変わらぬ風に飛びついてきた2匹の犬。


まだ子どもを生んだことのなかった私だったけれど
「子どもが生まれたらこんな感情になるのかな」と当時の日記に記している。
そんな2匹は平成10年の早朝、泥棒の手から毒餌を食べた。
生後半年の仔犬は毒のまわりが早く発見したときには死後硬直が始まっていた。
母犬はヨロヨロと私の腕の中に、泡を吹きながら倒れた。半狂乱になった私は、母犬を抱いて獣医を探したけれど、やっと見つけた獣医の入り口の前で
大きく息を吐いて死んだ。
死んでしまった。
何もかもを見逃すまいとして、瞳孔が開く様子までじっと見つめた。 胸が張り裂けそうというのはこのことを言うのだなと思った。


母親に抱きしめられた記憶の無い私が
生まれて初めて、どんな私であっても愛してくれて物言わず存在を認めてくれたこの暖かい生き物が突然死んでしまった。



死んで数週間のことはあんまり覚えていない。



人は「たかが犬なのに」と思うだろうと思っていたから、涙を出さないことを意識していたけど、ある日、何もかもが嫌になった。
本当に何もかもが嫌になった。
2匹が死んで、自分が生きていることがわからなくなった。
墓につっぷして泣いた。
声をあげて泣いた。一生で一番泣いた。
声がかすれるほど泣いた。
会いたいよ、抱きしめたいよ、と叫んで泣いた。
そして墓を殴った。なんで、なんで、なんで!


一時間くらいそうしていて、気がついたら私の手が
血だらけなことに気付いた。
そして空を見たら、とても晴れていて
息を吸って呼吸していることをふと考えた。
ああ、私は生きているんだなと思った。
生きて呼吸しているから、血がこうやって流れるんだと思った。

流れたり、暖かかったりするのは
生きていて呼吸するからなんだなと、今までそうやって思ってきたのに、改めて発見するような気持ちになった。
そのときに、なぜかはわからないけれど
今までの「人のせい」にする自分が見えた。



そら幸せになれんわ、と思った。
そして今の私にいたる。
ここまでに7年かかった。



占いにしてもそう。
占いが当たらないと怒る人は、「人のせい」の人。
金を払ったのに、当たらないという怒りはおかしい。
絶対に当たるからといわれようが、投資話にしてもそうだけど、占い師の言うことを信じようとしたのは自分だ、投資話を信じたのは自分であるの自覚。
結婚した亭主を愚痴ることも同じ。
「浮気をされた」のではなく、浮気をしたくなるような自分であったことを意識から完全にはずしてしまうと、ただの被害者になって恨みが増すだけ。
どんな事象にも、自己選択が関わっていると自覚すること。
そして人を羨み、「あんな亭主だから幸せになれるのよ、私のところなんてね」
という人は、宝くじを買わないで、当選を期待するような行為。
自分が選んだ亭主であるってことがすっぽり抜け落ちてしまっている。
その理由すらも、親がそうしろと言ったからとか
経済的に安定しているように見えたのにとか。
親がそうしろと言ったから、その通りにしたという自覚、経済的に安定していると判断して結婚を選択した自分であるという自覚の欠如。

かたやなんでもかんでも自分のせいにしてしまうタイプ。

もう逃げ場を自分で叩き壊してしまうほどに「自分が悪かったのではないか」と自分を責める。
それは「人のせい」の対極。
「自分のせい」の人。
私はこれをACを自己認知する二つのタイプであると考えている。



そして「人のせい」の人は共依存とか呼ばれる人たちのことで、

ACというのは「自分のせい」の人のことを指すのではないかと思っている。
その共依存症の人が、次の共依存とACを作る原因。
「原因」を使うのは、その共依存的な「人のせい」思考さえなくなれば、虐待がなくなるのではないかと考えているから。


そしてACのような「自分のせい」の人は
自分を責めることをやめて、ほどほどの自己内省にして、たまには人のせいにしてみてもいいじゃないかくらいの気持ちで丁度いい。
どちらも過剰だから起こる歪み。



「人のせい」の人は、「自分を責めない」ということをすぐに自分のものにできる。
すぐに私は悪くなかったんだと思えてしまう傲慢さがあると私は思っている。
そこが根っこだと思う。


私はそう思っているだけというお話。
誰かに強制するものではない。
誰かを否定するものでもない。

いずれにしても、どんな人がいようが
どんな意見があって、どんな議論がなされて
いろんな対立があろうが、私は今のところこの考えを自分で信じている。



どんな自分かは、常に自分が選択しているってこと。
どんな材料を自分のものにして構築していくかも自分次第。
ぜーんぶ自分次第。


人から見て、不幸そうであっても
私はやっぱり
「幸せはいつも自分のこころがきめる」ような
生き方が好きだから、これからもそうしていく。
そうして、声高らかに
この世には愛が溢れていることを子どもたちに伝えていきたい。


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