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日記ロワイアルコミュのじいちゃん

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 「好きに生きたらええ。それが一番や。
じいちゃんに任せとけ」

 大学卒業後、植林ボランティアとして
フィリピンに住むことを決めた。両親は大反対。
 「高い金出して大学やったのに、就職しない
ってどういうことや!!!」
 特に父の怒りは相当だった。
 「そんな植林やって、何か世界が変わるんか?」

 そんな逆風を、じいちゃんはいっぺんに変え
てくれた。聞くと
 「息子を信じてやれ。お前の息子や。悔いのない
人生を歩ませてやれ」
 と父を説得したらしい。


 

 「戦争はなんもええことない。
絶対したらあかんもんや」
 が口癖のじいちゃんの宝物はボロボロの
サングラス。戦中、硫黄島で過ごしたじい
ちゃんは、米国の軍艦に向かって機関銃を
ぶっ放していたという。かわいがってくれた
先輩が目の前で撃たれ、死ぬ間際に
 「お前にやる」
 と言ってくれたそうだ。太陽が反射する海を
見続けるとまず目がやられるから、最高にあり
がたいアイテムだったわけだ。
 「これのおかげで俺は今生きとる。あの人の
代わりに俺は生きとる」
 がもう1つの口癖。

 

 じいちゃんは中国にも行っていたらしいが、
硫黄島以外の話は聞いたことがなかった。




 フィリピンのミンダナオ島。灼熱の熱帯
地方で、僕はフィリピン人たちと一緒に
マホガニーの木を植えた。高度経済成長期、
日本が膨大な木々を伐採してできたはげ山に
マホガニーの木を植えた。とても熱いから
仕事は1時間ともたない。休憩になると、
フィリピン人たちは、持参のギターで歌を
歌った。驚いたのは、同世代の彼らが、時々
日本の「サクラ」といった童謡を日本語で
上手に歌うことだった。
 「祖父から教えられた」
 という。戦時中の植民地時代の名残だった。
仲良くなったジョジョと戦争の話をしたこと
がある。もし日本とフィリピンが戦争になったら…。
ジョジョは
 「申し訳ないけど、目の前にあなたがいたら、
僕は躊躇なくあなたを殺すと思います」
 それが戦争だ。僕もそうだろうと答え、
酒を酌み交わした。それが戦争だと思う。


 半年がたったある日。僕はジョジョと一緒に
街に出た。何気に電話の看板を見つけた。
そう言えば、手紙のやり取りはしていたが、
実家に電話をしたことはなかった。ちょっぴり
ドキドキしながらプッシュフォンを押す。
 「もしもし」
 父の声だ。懐かしさが一気にこみ上げる。
 「お、おれだけど…」
 その瞬間、父は号泣した。えーっ。そこまで
泣くことないじゃん。
 「お前、何で今電話してきたんや?」
 「いや別に…。電話の看板がたまたま目に
入ったから…」
 思わぬ展開に面食らっていると、父は一言。
 「ほんの今、じいちゃん死んだんや」




 じいちゃんは父に、僕が日本に帰ってくる
まで、自分が死んだことを伝えるなと言って
いたと、その電話で聞いた。だから手紙には
じいちゃんの病状のことなど全く書かれてなかった。
「偽善でもいい。人のために自分の身を削る
ひでの人生を、お前らがちゃんと応援してやれ」
 が、父に残した最期の言葉だった。
 
 底抜けの青空の下、僕は人目もはばからず、
ずっとずっと泣いた。


 


 2年後に帰国。実家に着くと母が
 「おじいちゃんの形見や。あんたにって」
 と言って小さな木箱をくれた。僕は自分の
部屋に行き木箱を開けた。そこには宝物の
サングラスと、兵隊姿のじいちゃんが満面の笑み
を浮かべている1枚のモノクロ写真があった。
じいちゃんの足元には中国人の生首が幾つも
転がっていた。どこをどう見てもじいちゃんは
最高の笑顔だった。
そして…。

 「ひでへ。じいちゃんの人生は罪滅ぼしの
人生やった。人に迷惑をかけず、自分がしたい
ことを信じてやれ。じいちゃんはずっと応援している」

 その写真は、ばあちゃんすら、じいちゃんが
死んで初めて見たものだった。心の奥底に潜む
深い闇を誰も気づいてやれなかった。


 


 フィリピンとは違い、四季が移ろう日本。
梅雨明けすれば、また今年も暑い夏がやって
くる。あれから10年。あのサングラスをかけて、
じいちゃんのお墓に足を運ぶのが、僕の習慣に
なっている。


 今年もじいちゃんに会いに行こう。


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