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諸集会(キリスト集会)コミュの建徳の学び4 「聖書のみ(Sola scriptura)

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」ごめんなさい。複数の論述を並行して書いているので、前回と少し論点がずれますが、今回は「聖書のみ」について学んでいきましょう。いや、それが、私たち諸集会が何たるかを知ることにもつながるのです。

よく、「聖書のみ」っていいますよね。でも勘違いされて使われていることが多くて、「聖書をキリスト教神学、あるいはキリスト教という宗教のの中だけに押し留める」という意味で使っていませんか?
正しくは「聖書自身が聖書は聖書だと証しするというのを認める立場」のことなんです。この世の中で「聖書よりも真実なものはない」と告白し、「最高の真理」である聖書を羅針盤として、他のものに光を当てるのは「聖書のみ」に反することではないし、むしろそうしなければいけないことなのです。
ですから、「聖書に書かれている倫理基準を物差しにして法律学を語る」のも必要なことですし、「聖書に書かれている群像劇から社会心理学について語る」のもよいことであり、それが聖書が教える「地の塩、世の光になる」ということなのです。
図で表すと下のようになります。

『神 の こ と ば で あ る 聖 書 』  ・・・・・この世の唯一の絶対の基準
↓      ↓   ↓  ↓   ↓
人間関係、政治、科学、文化、芸術 等など・・・・・聖書の光をあてて、矯正されるべき他の領域

逆に、上記の定義に照らし合わせてみると「創造の正しさを先端科学で証明する」とか「現在の国際情勢から黙示録の預言が真実であることを証明する」というのは一見聖書の正しさを応援しているように見えて実は「聖書のみ」という根本的な考え方に真っ向から対立してしまっていることについてお分かりいただけますでしょうか? 伝道のためとはいえ、聖書の正しさを「聖書よりも真実だと考えられる何か(自然科学や現代社会)」から逆に証明しようとするアプローチは、そもそものプロテスタントのクリスチャンの第一のものの考え方である「聖書のみ」を全否定する考え方なんです。
図で表すと下のようになります。

『この世の科学』『この世の法律』『この世の情勢』・・・未信者信頼している確かそうに見える「何か」
    ↓          ↓        ↓
『人間の理性・感性・知性に訴えて保証される必要のある聖書』・・・クリスチャンしか信じていない宗教書

ね、図で描けば、おわかり頂けるとは思いますが、キリスト者は本来、何事をも聖書が原点であり、聖書をスタートにして世界を考えなければでしょう?全ての領域に光を当てて、アダム以来曲がりに曲がってしまった、人間の倫理観や、ものの見方、考え方を矯正してくれるのが、正してくれるのが聖書でしょう? でも、伝道のために本末転倒になってしまっているのです。聖書の方が正しい真理かどうか証明される対象になってしまって、聖書の正しさを証明する聖書より確かなものが、この世の科学、この世の法律、今目の前に見える国際情勢になってしまっている。仮にこれで、証明することができても…、むしろ出来た瞬間、私たちの唯一の絶対基準である聖書という御旗を降ろすことになってしまうのです。

中にはこういうことをいう兄弟がいるかもしれません。「信じてない未信者には分からないんだから、伝道集会で用いる分には構わない。分かるようになってから学び会で教えればいい・・・。」
いや、じゃあ、最初に人を信仰に向かわせたのは、聖霊でもなく、めぐみでもなく、人間の理性と、理解力ですか? 自分の理解力でまず信仰に到達してから、聖霊が働かれるのでしょうか? 違いますよね。分かりやすいメッセージで救われる人もいれば中には朴訥なメッセージを聞いて救われる人も神様は起こされます。そのたびに私たちは教えられるのです。

人間の目線から見れば、福音集会のメッセージを聞いて求道者が理性的に福音を理解して信じて救われるように見える。だけれども、霊的な意味においては、神の目線から見ればそこには因果関係は全くなくて、御霊の全くの主権において、御霊が選ばれた人のこころに御霊の方から自由に働かれて、その人に信じる心を起こさせて下さって、人は信じることができるのだ。御霊によって信じさせて頂いているのだ。・・・と、

むしろ伝道集会のやり方以上に皆さんの中で「信じてない未信者には分からないんだから、伝道集会で用いる分には構わない。分かるようになってから学び会で教えればいい・・・。」という考え方が通るのなら、そのことの方が重傷なのかもしれません。理性で相手に理解させて信じさせようという考え方だから、「分かってから」「信じてから」「真理を伝えればいい」等と、これまた人の作った理屈が顔をのぞかせてしまうのではないでしょうか。むしろ「聖書のみ」をすてこの世の「人間理性至上主義」の土俵に乗っかってしまっているから、未信者ではなく、私たちの方の「恵みのみ」「信仰のみ」「キリストのみ」までぐらついてくるのです。私たちが信じれたのは私たちの理解力が未信者よりも高かったからではなくて、ただただ神様の恵みでしょう?

そんなに、聖書に土台を置くことが不安なのでしょうか?そんなに聖書を自然科学やら、国際情勢やら聖書以外のものから正しさを証明してもらわないと、聖書を世に対してここに真理があると宣言できないのでしょうか?むしろ、終末においては、そのような声に惑わされるなと主は仰ったのではないでしょうか?例えば、国際情勢が終末預言と反して、イスラエルという国が潰れようが、復興ローマ帝国と目されるEUが潰れようが、それによって終末預言が外れるのですか?黙示録は間違いだと証明されたことになるでしょうか?違います。
むしろ、列王記第一19章でエリヤに対して

主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」
なんておっしゃる神様ですから、周りの状況に一喜一憂する人々をふるいにかけるために本当にそうされるかもしれません。これから先、創造科学の全てが現代科学によって間違いが指摘されても、これから先、終末に関わる中東情勢が全て聖書の預言と全く逆方向に推移しても、それによって私たちの信仰は一ミリたりとも動かされることはないのです。聖書を聖書たらしめるのは聖書以外にないのですから・・・

科学セミナーは預言集会は、一時的には人が集まるかも知れません。しかし、5年、10年、20年単位でみれば必ず福音が歪みます。いえ、現に私たち諸集会は30年ほど前にこの「聖書のみ」の大原則から外れて「中東情勢」に熱狂したがばっかりに多くの兄弟姉妹を失ったではありませんか?またぞろおなじ過ちを繰り返してはいけないのです。「30年前は、福音を語らなくなったから、いけないだけであって、福音も合わせて語っていれば大丈夫」などと甘く考えていませんか?「聖書のみ(Sola scriptura)」が失われた瞬間、私たちは「信仰のみ」「恵みのみ」「キリストのみ」「神の栄光のみ」も失われてしまうのです。

創造科学や、終末預言に関するセミナーを余所の教派があまりしないことをもって、「諸集会以外の教派は聖書を信じていないのでは?」といぶかる声を諸集会の兄弟姉妹の中から聞いたことがありますが、実際は全く逆なのです。もちろん聖書を信じていない不信仰な教会も中にはあるでしょうが、福音的な教会は「聖書のみ」だと固く信じてからこそ、聖書の正しさを他の何物からか証明しようとするようなロジックの伝道集会をしないのです。いや、特に年配の兄弟姉妹は思い出して下さい。宣教師の先輩兄弟たちや、海外から日本を訪れた兄弟が、今ほどまで聖書を聖書以外のものから論証するようなロジックで伝道されていたでしょうか?もっと聖書に忠実だったはずです。創造を語るにしても、自然を歌った詩篇やヨブ記からだったり、終末を語るにしても、黙示録とダニエル書等の預言書との関連性だったり、聖書は聖書から語られていたはずです。「創造か進化か?」とか 「ユダヤ人と国際情勢」とかは、みな、後から信じた日本人伝道者が用いたロジックではありませんか?そしてそれは雄弁家ではあったけれども今は集会を離れて活動をしている人達ではありませんか?それらは本来の諸集会にあらざるスタイルです。今はそれが日本の諸集会を席巻してスタンダードになってしまっていますが、それこそを諸集会に入ってきた「混ぜ物」ではありませんか?

お願いします。諸集会が「聖書のみ」になるようにお祈り下さい。お願いします。諸集会を有るべき姿に取り戻して下さい。

私は自分でいうのもなんですが、細かい教理的な違いについては寛容な、今の日本の諸集会の平均からみれば広すぎる考え方なのかもしれません。でも、そんな自分が、非常に強い口調をもって警鐘をならすのは、諸集会が今、直面しているこの「聖書のみ」に関する問題は、瑣末な教理の問題や他教派との協力の是非などとはまったく次元の違う、福音の根幹を揺るがすような、絶対に絶対に看過することが出来ない大・大・大問題だからなのです。
「諸集会辞めますか?」それとも「正統的なプロテスタントのクリスチャン辞めますか?」という、諸集会がキリスト教の枠内にとどまるかどうかの瀬戸際に立つほどの重大問題に接しているからなのです。

インターネット上の百科事典でウィキペディアというものがあります。
英語版で「諸集会(Plymouth Brethren)」http://en.wikipedia.org/wiki/Plymouth_Brethren
を調べてみますとまず、諸集会に関して次のように書かれています。

諸集会は、その歴史を1820年代後半の、アイルランドのダブリンにさかのぼることができるグループです。英国国教会から分かれ出た、保守的で、形骸化した儀式的な物を排除する、福音的なクリスチャンの運動です。まず、他の何よりもこのグループは「聖書のみ(Sola scriptura)」を強調します。聖書は伝統よりも教義よりも、実践よりも何もののよりも上に立つ「最高権威」であるという信念をもっています。
嬉しいですよね。諸集会は何よりも、どの教派よりも「聖書のみ」だって百科事典にも紹介されているんですから…でもわたしたち日本の諸集会の人間がそもそも、「聖書のみ」の本当の意味を理解しようとせず、聖書のみじゃなくなってきている。私は、この文章を書いている今、悲しくて、涙ながらにディスプレイを見ています。そして、怖くて怖くて、震えながらキーボードを打っています。

僕を、キリストに導いてくれた集会がだんだん、この百科事典に書かれているような「聖書のみ」を基調とする素晴らしい集まりではなくなってきているんです。私が大好きで大好きで、主も愛して下さった、キリストのからだなる諸集会が、福音を将来にわたって破滅的にねじ曲げてしまうような大問題を内包していているのです。にも関わらず、そのことに誰も気づこうともせず、学ぼうともせず、その傾向は益々強まっています。
そして、そのことに対して私は警鐘を鳴らそうものなら、それを持って私は、
「田口兄はまた変なことを言っている」
「個人批判をしている。」
「おかしい。田口兄とはあまり交わらないように」

といって、村八分にされる恐怖とも戦っています。三年ほど、民間企業で営業をしていましたからそれなりに「空気」は読めるつもりです。また、それなりに「処世術」は心得ているつもりです。しかし、この問題に関して、諸集会の大勢を読んで、敵を作らず、空気を読んで、だんまりを決め込むべきでしょうか?
怖いです。とっても、とっても怖いのです。半沢直樹のように正論をいって通すことなどそうそうないことは重々承知の上ですから。「空気が読める」のに、処世術を身に付けているのに、結束力の強い日本の諸集会の中で敢えて「空気を読まない」と決断することは、本当に怖い怖いことなのです。

誰かを貶めたいとは思いません。
誰かに認められたいとも望みません。
むしろ、この建徳の学びは逆の効果をもたらすでしょう。
私一人が変わり者だと思われるだけでしょう。
そうであっても、私は黙る訳にはいけません。
諸集会の一丁目一番地は聖書のみなのです。私は諸集会の人間です。私の信条は聖書のみなのですから。

せめて、私と意見を異にする皆さん、次の事だけでも私と祈りを合わせて頂けないでしょうか

主よ。どうか諸集会が、私たちの群が、主が再び来られるその時まで
あなたのみことば聖書に忠実な群れで有り続けますように。

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