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備後の歴史を歩くコミュの「水軍」か「海賊」か

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「水軍」か「海賊」か

 日本遺産に「村上海賊」が認定された。私には正直「村上水軍」の方がなじみ深い。村上海賊では違和感がある。しかし申請及び認定は「海賊」が使用された。在野の村上水軍研究家である今井豊さんによる定義は「時の権力システムに組み入れられたか、そうでないか」だという。「海の通行料の徴収など、水軍の性格を持った時代が長かった」として「個人的には水軍を使ってほしかった」と漏らす。(中国新聞記事より引用)

 今井豊氏は「しまなみ人http://0845.jp/shimanami/」というホームページに「村上水軍99の謎」を執筆中で、現在44までが公開されている。その中の「謎その5」に「水軍と海賊はどう違うの?」というのがある。答えは次の通りである。

 水軍と呼び始めたのは、比較的最近のことで、昭和の初期になってからとされています。それまでは海賊と言っていましたが、海賊すなわち「海の盗賊」ですから、いくらなんでも「自分たちの先祖は盗賊だった」では良くないので、地元の郷土史家たちによって「水軍」という呼称が考え出されたわけです。この水軍という呼称は世間の人が村上氏に対して抱いていたイメージと合ったことと、海賊=盗賊といった悪いイメージを払拭したことで、すっかり定着してしまい現在に至っています。瀬戸内海で海賊行為が行われ始めたのは、とても古く、奈良時代にさかのぼります。聖武天皇が天平2(731)年に「京および諸国の盗賊と海賊を対武する」という詔を発布しているほどです。奈良・平安時代に、当時の律令政治は、一般庶民に重税を課せた体制で、生活に困窮した瀬戸内の島民が、航行する船を遅い積み荷を奪ったのが、海賊の発祥とされています。天慶2(939)年には藤原純友の乱が起こり、時の政府に対して、瀬戸内の海賊が集団化して決起して、世を揺るがすまでになりました。その後、南北朝時代における村上義弘の活躍、戦国時代に毛利氏の下に合戦のんい臨んだことで、豪族・大名の海軍部隊としての存在が確立され、水軍の呼称にふさわしいものとなりました。つまり、時の権力(王朝・幕府・豪族)からみて、「権力の制定した法律に従わない海上での盗賊を海賊」、「権力の下で海の軍事力として使われるようになれば水軍」の図式となります。水軍が完全に姿を消すきっかけとなったのは、豊臣政権が天正16(1588)年に発令した「海賊禁止令」です。これは、中世から近世に移行していく歴史の流れの中で「権力(軍事・警察・納税)の中央への集権化」の方向から生じたものです。ただ村上水軍に代表される水軍が、歴史上名を残し、今日まで伝えられるのは、単なる海賊に止まらず、組織(経営体)を作り上げ、継続し発展させ、軍事、海運で活躍したことによるものだと思われます。以上引用

 歴史的に見ると、海軍部隊を称して「水軍」という言葉は江戸時代に記されたという『水軍雑記』にある。ただ、そればかりでなく「船軍」という言葉も出てくる。それ以前の戦国時代には水軍ではなく「警固衆」と称していた。そして秀吉による「海賊停止令」にあるように、権力に属さない集団は海賊衆であったのだろう。

 村上水軍は謎が多い。家系図にしても清和天皇系と村上天皇系が存在し、いずれも先祖に天皇を置いているのであるが、名も無き瀬戸内の漁師集団が、特異な潮流や島々の地形を把握し、操船術を身につけ縄張りを主張し、世の中の動乱に乗じてそれらを守るために武装していく様はごく自然に思える。そして力を持った集団が、家格を上げようと我が先祖に天皇を据えることは目に見えるようである。

 また、2012年12月31日初版発行、中国総研・地域再発見BOOKS『「海」の交流』で宇田川武久氏は、「村上水軍を正確に言えば、因島、能島、来島の三島村上氏を合わせた総称である。厳島の戦いでは、早くから小早川氏と繋がっていた因島村上氏は当然のごとく参戦し、村上武吉率いる能島村上氏も毛利方に与して参戦したことに違いないが、問題は来島村上氏は本当に参戦したのかというのである。軍記や覚書などに、三島村上氏が揃って参戦大活躍し、村上水軍の名を馳せたことが記されており、それを踏襲して書かれた書物や記述は未だに多い」と記されている。

 2007年に『村上水軍全史』を発刊された福山在住の郷土史家・歴史作家である森本繁氏は、その著書の中でこの来島村上氏の参戦問題が未だ解明出来ていないとしているが、今回宇田川武久氏は、「来島村上氏の参戦は無かった」ということが、「新たに発見された古文書で証明できた」と断言されている。「天文24年(1555)に起こったこの戦いから1年後に至っても、まだ来島村上氏やそれを率いる河野氏は毛利氏に与しておらず、陶軍の残党狩りが続く弘治3年(1557)になってやっと加勢しているのである」という。

 日本遺産に「村上海賊」が認定された事を契機とし、今後ますます研究が進み新たな史実が見いだされることに期待したいし、私自身も興味を持って知識を得ていきたいと思う。

コメント(1)

愛媛県今治市宮窪町の村上水軍博物館へ行ってきました。
目の前に能島が見えるのですが、あいにくの雨で霞んでいました。

『村上家文書調査報告書』(愛媛県今治市教育委員会発行 1,000円 能島村上家に伝来する古文書の最新の調査報告書。古文書から読み取れる海賊衆・能島村上氏の活動を詳しく且つわかりやすく解説している。能島村上氏研究の最先端とも言える一冊)や図録を購入しました。



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