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備後の歴史を歩くコミュの妙圀寺 番神堂

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妙圀寺 日蓮宗 浄光山
岡山県備前市浦伊部

 永長元年(1096)に天台宗として創建された。その後、北朝・貞治5年(1366)、京都本圀寺第五世大円院日伝上人が西国布教の途中当地に立ち寄ったのを機に転宗し、日蓮宗浄光山妙圀寺となった。隆盛時は備前はもとより播州にまで末寺支院がおよび、七堂伽藍を有していたという。しかし、戦国時代になり諸堂及び支院のほとんどを消失した。慶長7年(1602)来住法悦(きしゅうほうえつ)は京都本圀寺から第十六世究意院日愼上人を当山に迎え諸堂の再建に着手。小早川秀秋はこれを庇護している。

 慶長9年(1604)、備前を訪れた京都の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)は和気川を行き交う船をみて、慶長11年(1606)京都保津川(大堰川)の船運開通に着手。約半年後工事を完成させた。浅瀬を自由に行き交う操船技術の導入は、妙圀寺を再興させた備前の豪商・来住法悦とつながりのあった日愼上人により、操船術にすぐれた牛窓の舟夫18人を嵯峨に招き指導に当たらせたという。

 妙圀寺近くの来住家に「太閤門」と称される門がある。羽柴秀吉が備中高松城攻めの帰途来住家に立ち寄ると約束をしたため、法悦が御殿と門を新築して待っていた。しかし秀吉は本能寺の変のために立ち寄ることなく京都へ帰った。その後、御殿は妙圀寺に寄進移築され、門はここに遺って現存し備前市指定史跡となった。

 妙圀寺の木造釈迦如来座像は国指定重文である。底板に「運慶六代孫 大仏師法印广イ作 延文三季十一月日」と朱書きされており、これにより北朝・延文三年(1358)という製作年代が特定された。また「大仏師法印广イ」と記された作者は「康俊」のことである。

 県指定重文の妙圀寺梵鐘にまつわる縁起がおもしろい。永仁6年(1298)河内国鋳冶師・白坂助友によって鋳造され、和歌山の風森宮に奉納された。これが貞和3年(1347)に銭25貫文で買い取られ、粉河寺別院遍照寺に移る。妙圀寺の寺伝によれば、この遍照寺梵鐘が応永15年(1408)、備前伊部浦で漁師の網にかかり妙圀寺に寄進されたというのだ。しかし、嘉永6年(1853)ペリーの来航により、幕府は寺院に対し梵鐘や仏器などを供出を命じ、妙圀寺はこれに応じて供出してしまう。ところが明治になり、この梵鐘が岡山後楽園に放置されているのを檀家が見つけ、無事に戻ってきたという。

 「岡山県近世社寺建築緊急調査報告書」に記された妙圀寺の堂宇は次の通りである。

仁王門 三間一戸八脚門、入母屋造、本瓦葺 18世紀中
本堂 桁行三間、梁間三間、入母屋造、本瓦葺 18世紀中
殺堂 桁行三間、梁間二間、寄棟造、向拝一間、本瓦葺 19世紀初
御影堂 正面一間、側面一間、宝形造、向拝一間、本瓦葺 文政8年(1825)棟札
鐘楼堂 桁行一間、梁間一間、入母屋造、本瓦葺 17世紀末
番神堂 一間社流造、本瓦葺 19世紀中

 入母屋造の本堂を中心に、向かって右に御影堂。左が殺堂。さらにその左が番神堂である。番神堂拝殿は五間社入母屋造で一間向唐破風向拝が付く。その扁額には「南無三十番神」と書かれている。慶長年間、来住法悦による中興後、江戸後期に再建された。御影堂につながる回廊の曲線は目を見張る。鐘楼堂が切妻造と紹介されているが、入母屋造の間違いである。

写真

左:仁王門
中: 〃
右:本堂


地図
http://www.chizumaru.com/business/?x=483044.102&y=125041.91&scl=1000&ex=483044.389&ey=125042.33

コメント(2)

妙圀寺

写真

左:御影堂
中:番神堂 拝殿
右:番神堂 本殿

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