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備後の歴史を歩くコミュの毛利元就軍記考証 『新裁軍記』

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『新裁軍記』

「萩藩閥閲録」を編纂した永田政純が、毛利氏の戦功を伝えた数ある軍記物の誤謬を史料と照らし合わせ、正誤を考証し著した。『新裁軍記』による毛利氏伝来の軍記物の評価は次の通りである。


「世に毛利の軍記と称する書物は数多いが、調べてみると年月が間違っていたり、人の代が符合せず、およそ姓名、称号、合戦の事実など十のうち五も証拠はない」として、

「後太平記」「西国太平記」「続太平記」は一類の書であり、「相因襲シテ記セルナリ」その中で「後太平記」を評駁するが他は評論に及ばない。

「安西軍策」は岩国の人の著作で、その内容は悉く「陰徳記」に載せられているので論駁しない。

「関西記」という書は、寛文の頃、堀江道仙・瀧川宗庵という浪人や銀山寺という僧が、毛利家軍記といって大坂で出版した。しかし証拠のない虚説が多かったので、当時、大坂御屋敷の留守居役だった井上六郎右衛門就相が滅板料として銀百枚を与えて御屋敷で原板を焼却した。

御家中の先輩による覚書、聞書も多数ある。その中で岩国の「森脇飛騨覚書」は、専ら自家の事だけ記録し、他を知らないので取るに不足。

「桂笈円覚書」は源右衛門元盛、老後の筆記なり。
「老翁物語」は輝元公御世の末、内藤河内元栄と岡筑前元良2老の物語にかれこれ聞き伝えたる事を大まかにかき集めたもの。

「長屋覚書」は太郎左衛門の筆記である。
「深瀬覚書」は慶安年中、宍戸家臣深瀬次郎兵衛忠良が、彼家の軍功の大略を記したものである。これらの書の多分は古老の物語で、実説であるべきだが、もとより見聞きした範囲での物語であり、聞き違いの事もあって記録に備えがたし。

「旧時記」は泰岩院侯の時、奉命輯録したものと言伝えがあるが、今その書を閲覧すると、多くは世間流布の軍記を抄出したもののようで、証拠のない説が多く、信用するに足らない。

「吉田物語」は元禄年中、杉岡権之助就房が見聞した覚書である。前記書物に比べると、事柄も幅広く、よく考えたようだが、私的な著作であるため、引用証文等は不備で、誤りはなお多い。説の多くは「安西軍策」「陰徳太平記」と同じなので、2書を参照して記している。

「陰徳太平記」は岩国の香川某が記したもので、諸家他家が混雑し、特に間違いが多く、採録するに値しないが、書体が実録のように信仰する人が多いため、異説を挙げて論駁し誤りを正さなければならない。

「温故私記」は最近、国重政恒が記したもので、今その書を見るに、これまた世間流布の軍記を主として記したものである。公私証文との齟齬が多い。思うに、政恒は史局にあったが、歴史を記録する志がなく考証に及ばない。老後に至り空閑の遊戯で記したものである。未完成の書のため評駁に及ばず。

それぞれの軍記物を以上のように評論し、そして次のように結んでいる。

「今此書ハ御家現在御重書証文等印記押字手跡等ヲ正シ、支証トシテ設誤ヲ去テ実説ヲ記スル所ナリ」


「本書は永正14年(1517)10月から永禄6年(1563)年末に至る間の、毛利家の編年体の歴史書である。元文3年(1738)11月に着手され寛保5年(1741)に、元就時代分の大部分の完成を見たものであるが、未完として継続が期待されたものらしい」と序文にある。ここに紹介する「新裁軍記」は山口県文書館所蔵の原本を田村哲夫氏が校訂され、マツノ書店より1993年4月10日に700部限定で発行されたもので、私のには396番のシリアルナンバーが記入されている。

中身を一部紹介しよう。

天文3年月日未審 元就公備後宮城(郡未考)を抜き城主宮若狭守元盛降を乞う

吉田記と陰徳記の一文を引用し「論断」として以下である。

「按に、宮城の軍、御家蔵文書・御感状等無く、陰徳・吉田記に記載といえども明証無し。故に参考とす、然して備後御出軍の月日吉田記に記さず、陰徳記に天文3年2月上旬と記す。信用し難し。その故は陰徳記の文前後齟齬す。武田光和天文3年3月3日死してより後、元就公の武威が増して、その勢を持って備後国を侵略せんと欲して出陣するは光和の死後3月以後のことなるべし。然るを天文3年2月上旬出陣と記す。誤り甚だし。但し光和光和死後天文3年3月3日に非ず、天文9年6月9日なり、その証、下の般若谷の条下に見たり。是を以て陰徳の妄説推し知るべし」

「参考」として天文9年4月20日の光和判のある福井十郎兵衛信之家証文と、「光和去九日遠行候」と記す天文9年6月25日付けの御家蔵文書を引用して載せている。

果たして天文3年の宮城攻めはあったのか無かったのか・・・。


序文にあるように、まさしく「継続」を期待するが、永禄6年(1563)年末で終わっていることは残念でならない。

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