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備後の歴史を歩くコミュの浄土寺浄土堂

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寺院の建築様式 大仏様
浄土寺浄土堂 兵庫県小野市
山号:極楽山
本尊:本堂(薬師堂)・薬師如来 浄土堂(阿弥陀堂)・阿弥陀如来

 大仏様(だいぶつよう)として重源(ちょうげん)が建立した建物で現存するものは「東大寺南大門」と、兵庫県小野市にある浄土寺「浄土堂」だけである。建久6年(1195)に重源が建立した「醍醐寺経蔵」は、昭和14年(1939)に発生した山火事が類焼し焼失した。建久6年(1195)再建の東大寺大仏殿も永禄10年(1567)に再焼失。国内に本堂として現存しているのは浄土寺「浄土堂」ただ一宇である。重源建立の本物の大仏様が兵庫県という備後から割と近いところに現存しているのは大変にありがたい。

 兵庫県小野市は、重源が活躍した時代は東大寺領で播磨国大部庄(おおべのしょう)と称した。奈良時代、聖武天皇の発願で全国に国分寺・国分尼寺が建立され、国分寺総本山として東大寺に盧舎那仏が造立された。これは奈良の大仏として有名である。平安時代末期になると権力を一門で独占した平氏に対する反対勢力が出てくる。関東武士を束ねた源氏だ。それらに対応するため、平清盛は本拠地を神戸福原から都のある京都に移した。それを嫌った畿内での反対勢力の中心は比叡山延暦寺や園城寺・興福寺などの寺社だった。これらは何万という僧兵を集めた武装勢力だ。治承4年(1180)、清盛は反抗を強める寺社勢力を一掃するために平重衡を総大将にして奈良に大軍を送り込む。重衡は火を放ち、興福寺、東大寺など南都一帯を焼き討ちにしたのである。一方で清盛は、長寛2年(1164)に蓮華王院(三十三間堂)を、また仁安3年(1168)には宮島厳島神社を造営している。決して社寺を軽んじていたわけではない。

 平重衡の兵火により灰燼に帰した東大寺再建を任されたのが重源である。再建には膨大な材木を入手するための莫大な予算と人力を必要とした。そのため重源は金銭や材木の調達を目的として、東大寺別所、高野新別所、摂津国渡辺別所、伊賀別所、播磨別所、備中別所、周防別所という七別所を築き再建事業の拠点とした。道場も兼ねていたようで、ここで多くの帰依者を集め再建の力とした。中でも播磨別所には、建久5年(1194)に上棟、同8年に完成したという浄土寺を建立。重源自身が阿弥陀如来を本尊として開山した寺である。そしてついに文治元年(1185)再造立された大仏の開眼法要が行われ、建久元年(1190)には再建大仏殿が完成し落慶法要が営まれた。浄土寺の建立は大仏殿再建の5年後という計算になる。播磨別所は大仏殿の再建事業に対して特に大きな寄進があったのかもしれない。周防別所には阿弥陀寺が、伊賀別所には新大仏寺が建立され今に伝えている。

 浄土寺浄土堂(阿弥陀堂)は日本で唯一現存する重源が建立した本堂である。本物の大仏様本堂はここでしかお目にかかれない。屋根は方三間の宝形造で本瓦葺である。組物は大仏様独特の挿肘木(さしひじき)による三手先。木鼻に繰型の装飾を施し、中備には遊離尾垂木を入れて丸桁を支える。垂木は中央部分は平行垂木であるが隅部分だけが扇垂木となる隅扇垂木の配列となる。垂木の先には鼻隠板を打って隠す。長押は打たず貫工法で円柱を固定する。斗は下側に皿を持たせる皿斗(さらと)で、これらはすべて大仏様の特徴である。建物の内部には500円の拝観料を支払って入場することが出来る。しかし、内部の写真は本尊である阿弥陀三尊を含めて撮影は一切許可されていない。外に出された軒を支える挿肘木を内部から見ると貫の如く身舎柱を貫通されている。大仏様の利点は、少ない部材で巨大な建築が可能なことである。しかも、部材の規格は統一されており効率的である。虹梁を多用することで柱を省略できる。したがって能率よく短期間で建てることが出来る。水平材はすべて貫工法で頑強に固定され、重源がこの工法を巨大な大仏殿建立に採用した理由がよく理解できる。また、天井は張らず構造を見せる化粧屋根組は見事である。

 浄土堂の本尊は重源が快慶に造立させた阿弥陀三尊像である。阿弥陀如来立像の高さは5.3m。光輪の先まで測ると8.3mにもなる。脇侍の観音、勢至菩薩は3.7mである。三尊を正面からよくみると、不思議なことに阿弥陀の手が逆、両脇侍の立ち位置も通常と左右逆になっている。浄土堂は三尊の背面が西向きになるように計算されて建てられている。この面は三間分すべてに蔀戸が吊られ、これを開けると西に沈む夕日が堂内の阿弥陀三尊の背面から差し込むという照明効果をねらったもので、まさに西方浄土を彷彿させる。

 境内に建つ薬師堂は浄土寺の本堂である。浄土堂とセットとなる重源建立の建物であるが、こちらは残念ながら室町時代に焼失。その後永正14年(1517)に再建された国指定重文である。再建するにあたり大仏様をよく残しているが、地長押を打ったり、遊離尾垂木を入れるべく中備に間斗束を使うなど和様が見られ、また禅宗様の花頭窓を飾るなど折衷様式となっている。薬師堂の隣には開山堂がある。中には浄土寺開山重源上人像が祀られている。また、境内の中央には八幡神社が鎮座する。東大寺に手向山八幡宮があるように浄土寺にも守護神として嘉禎元年(1235)に建立されたことが寺記にあると紹介されている。神社では珍しい寄棟造の拝殿は桁行七間とでかい。真ん中の一間は参道となる珍しい割拝殿である。本殿は檜皮で葺かれた三間社流造で拝殿とあわせて国指定重文である。明治の廃仏毀釈をよく免れたものと感心した。

 備中一宮吉備津神社の国宝本殿組物や腰組に大仏様が採用されていることは以前紹介した。重源の次に東大寺勧進職を継いだのは禅宗様の開祖栄西で、この栄西は備中吉備津宮の生まれである。今建つ本殿は応永32年(1425)に再建されたもので、重源、栄西の時代の建築様式はどうであったのか知るよしもないが、大仏様が多分に取り入れられていたということは容易に想像出来る。

 備中一宮吉備津神社の比翼入母屋造国宝本殿は吉備津造と称され、国内唯一と紹介されているが、備後にその社殿を模して建立された神社がある。福山市瀬戸町に鎮座する福井八幡神社の境内にある「五社神社」が比翼入母屋造を採用している。単に入母屋屋根を二つ連結させただけではなく、組物は挿肘木による三手先。廻縁の下を支える腰組も備中一宮同様の挿肘木を使っている。また柱間に連子窓を置いて、その上下に長押を打つところまで備中吉備津神社を完璧に模しているのは小社ではあるが誇らしく思える。

福井八幡神社 福山市瀬戸町
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=17275628&comm_id=1818324

地図
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.47019353363921&lon=133.3262420028408&z=17&mode=map&pointer=off&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=34.47054217627977&hlon=133.32625809609487&layout=&ei=utf-8&p=%E7%A6%8F%E5%B1%B1%E5%B8%82%E7%80%AC%E6%88%B8%E7%94%BA

 神社や仏閣の建築様式を見て歩くのは楽しい。本物と比べることの出来る社殿を備後に探すことはそれ以上に興味が尽きない。


浄土寺の地図
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.86414054458824&lon=134.9611736336857&z=15&mode=map&pointer=off&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=34.86423297724534&hlon=134.96107170974312&layout=&ei=utf-8&p=%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B8%82

写真
左:浄土寺浄土堂
中:左面が西。蔀戸を開ければ夕日が差し込む。
右:浄土堂の隅部分。垂木の隅から4本くらいだけが扇垂木の配列となっている。柱と柱の間に置かれた角のような部材が遊離尾垂木。和様や禅宗様では尾垂木は組物の中に組み込まれるが、大仏様では中備に独立して置かれる。

コメント(5)

浄土寺浄土堂

写真

左:挿肘木による三手先
中:    〃
右:袴腰鐘楼堂は兵庫県指定重文
浄土寺本堂(薬師堂)

写真
左:方五間宝形造。建立面積は方三間宝形造の浄土堂とほとんど変わらない。
中:隅扇垂木や挿肘木による三手先組物は浄土堂と変わらないが、薬師堂は遊離尾垂木ではなく間斗束である。

右:禅宗様の花頭窓が二つ並び、廻縁の上には和様の地長押が打たれている。

浄土寺

写真

左:八幡神社。寄棟造の割拝殿。鎌倉時代建立の七間社とでかい拝殿だ。
中:室町時代建立の本殿は三間社流造檜皮葺。
右:開山堂は永正17年(1517)に再建されたもので、中には重源座像(重文)が安置されている。
浄土寺

写真
左:御朱印は「瑠璃光殿」本堂の薬師堂に祀られる薬師如来を表したものだ。
右:パンフレット




備中一宮「吉備津神社」と福山市瀬戸町福井八幡神社境内社「五社神社」

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