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備後の歴史を歩くコミュの龍泉寺 福山市神辺町

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龍泉寺 福山市神辺町川北
曹洞宗 本尊 千手観音

新宮山と号す。慶長年中の創建という。大正12年編纂広島県史第二編社寺志には「目黒新左衛門秋光末孫同政貫開基、老雪和尚開山、福島丹波守助力」とある。備陽六郡志には「往古龍興寺と号す。福山龍興寺の末寺なり・・・福島正則の家臣福島丹波紅葉山城主の節、此の返り谷と云所に移され侍り。元和年中、水野勝成公當城へ御移之節、三州より泉龍寺を被召連、當寺を宿坊とす。福山の城成就の後、本堂方丈ともに福山へ引て慈雲山龍興寺と号す。前丹州清閑道徹居士と云位牌有、則福島丹波位牌なり。前庭に桜の古木有、前任雪天和尚南都の車返の枝を持来て接穗にせらる。神辺の車返と称す・・・」とある。福山志料には「車返ノ桜」として雪天和尚という住持ノ時南都の車返ノ枝ヲ折来リテ接木トスト云、桐ヶ谷ト云桜ハ八重ノ中ニ一重ノ英マシレリ、花見シ人、八重ナリ一重ナリと云争ヒニ車ヲ返シテ見タリト云コトヨリ桐ヶ谷ノ一名ヲ車カヘシトモ云・・・」と管茶山は記す。

目黒新左衛門秋光
陰徳太平記巻第十七「備後の国神辺の城合戦之事」に備後の国、神辺、道上城主、杉原宮内少輔忠興が大内に背いて尼子に付いたため、大内氏は陶隆房を大将として防長五千騎に加え、毛利元就、隆元、吉川元春、小早川隆景、宍戸、平賀、香川、己斐ら一万余騎が天文十七年(1548)六月二十日、神辺に出陣してきた。神辺合戦である。これに対し神辺方は杉原盛重らが奮闘しよく耐えた。簡単には落ちないと見た大内方は平賀太郎左衛門隆宗の八百騎を残して帰陣する。続く第十八巻「備後の国神辺の城明け渡す付目黒最後之事」には、その後、杉原忠興と平賀隆宗は三年に渡り対峙する。天文十九年(1550)十月十三日、勝敗を弓矢で決することになった。忠興の持つ矢は二本。隆宗に命中すれば忠興の勝ち。外せば城を明け渡すというものだ。名手で知られた忠興は一本目を射た。それは見事に隆宗の腹に命中したが、隆宗も大剛の者でグッとこらえて外れたという。忠興は下過ぎたかと二本目はすこし上目に射ると今度は肩をかすめた。二本とも外したと思い込んだ忠興は約束通り城を明け渡して尼子を頼って出雲へ逃げ平賀氏の勝利となった。そうとは知らない尼子晴久は神辺城に向けて目黒新左衛門秋光に足軽五百人を付けて援軍を出していた。途中で忠興と出会った秋光は、足軽五百人を忠興に渡して雲州へ帰し、自身は神辺城の隆宗に会い、その後近くの禅院に入り自刃したと記される。その禅院が龍泉寺で、境内にはそれと伝う墓がある。秋光の末孫政貫は福島政則に仕え、家老福島丹波の下で神辺城下に住み龍泉寺を中興して秋光の菩提を弔ったという。管茶山が龍泉寺の桜を詠んだ歌碑がある。車返しの桜の下で酒盛りをよくしていた今は亡き友をしのんで詠んだ漢詩である。残念ながらこの桜は今はない。

写真 2008年3月20日撮影
左:山門
中:本堂
右:誰が乗ったのか・・・?

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.23.28.182N34.32.10.721&ZM=9

コメント(2)

龍泉寺

写真
左:目黒新左衛門秋光の墓
中:古い墓石群
右:管茶山の歌碑
この寺の墓地に伯母がねむる。正月4日に墓参りに行って来た。本堂向拝が修理中だった。足場は本堂全体に組まれており、瓦の葺き替えが行われるのだろうか。現在は桟瓦葺きだが、お寺の本堂はやはり本瓦葺きがよく似合う。

墓地の1ヵ所だけが霜柱に覆われていた。しかも長さは5cmもあり、砂を持ち上げている。なぜこの一角だけがと未だに不思議でしょうがない。しかも、日が当たる部分が温度が上がり、まるで生き物のようにパタパタと倒れる。しばらく観察してた。

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