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備後の歴史を歩くコミュの毛利の里

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コミュのイベントで毛利の里安芸高田市吉田町にある国史跡吉田郡山城へ、かげとらさん、A☆KIさん、私の3人で行ってきた。吉田郡山城は毛利氏の居城だ。山陰の尼子氏との戦いに勝利し中国地方全域にその勢力を拡大した毛利氏は、鞆の浦に室町幕府15代将軍足利義昭を迎えて戦国時代の最終章へと突入していく。信長の死後、秀吉の配下となった毛利氏は、この山間部の山城から広島城へと拠点を移し、ここは廃城となる。吉田の里は毛利の里である。毛利時代の遺構が多いかなと行ってみたが、城下は度々の戦火に見舞われ焼失再建を繰り返し、それ以前の建造物はほとんど遺っていない。西軍の総大将として関ヶ原の戦いに挑み敗れた毛利氏が徳川幕府の命で防長へ転封になると、大檀那を失ったこの地の社寺は老廃を余儀なくされ、また菩提寺などは毛利氏について引っ越し、今はその跡しか遺っていない。農民衆が力をつけた江戸中期になると氏子の力で神社を再建している。その代表格が清神社であり、本殿は元禄7年(1694)に再建されたものだ。


○国史跡吉田郡山城
まずはじめに吉田町歴史民俗資料館へ立ち寄り、日本100名城にも選ばれた郡山城跡の案内図をいただき、標高390m、比高200mの本丸を目指した。元就が火葬された跡は付近一帯が公園に整備されており、その先の駐車場に車を止めそこから歩く。毛利氏一族や元就の墓所、百万一心の石碑を経ていよいよ山道を曲輪へと向かう。登城道は良く整備されていて歩きやすい。御蔵屋敷、釣井の壇、姫の丸壇、釜屋の壇、厩の壇を経由し三の丸、二の丸、そして本丸に到着。およそ800mの道程だ。本丸を後にし、勢溜の壇、満願寺跡、尾崎丸と曲輪が続き、道を逸れて旧本城の本丸にも足を伸ばしてみた。常栄寺跡、毛利隆元の墓所、三矢の訓跡、そして清神社を目指しひたすら歩いた。

強者どもが夢の跡・・・

100年にもおよぶ戦国時代は一体何であったのか。この地でどれほどの人間が戦で死んでいったのか。声にならない断末魔の叫びや勝ちどきを今でも挙げ続けているのだろうか。そんな歴史を経て現代に暮らす我々は生かされている。

地図
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=477763.807&Y=124814.397&SCL=801

○清神社(すが)
スサノオを祀った神社である。素戔嗚尊、八岐大蛇といえば山陰とか出雲がまず頭に浮かぶが、実は日本書紀の一書に、その場所は「安芸国可愛川川上」と記されており、まさにこの地なのである。スサノオの母親であるイザナミの墓所は比婆山と記され、出雲の四隅突出型墳丘墓はそのルーツを庄原に求めることが出来る。神話は中国山地に沿った広島県北地域に端を発するのだ。この神社には正中2年(1325)からの棟札が焼失を免れて奇跡的に現存しており、また境内の杉は樹齢700年を越え、毛利氏以前からの古社であることがわかる。その中に毛利氏がこの神社を崇敬し、何回となく造営した棟札も残る。現在の本殿は元禄7年(1694)に再建された五間社と大型の平入り入母屋造で、正面に千鳥破風を飾り、軒唐破風の向拝を持つ。身舎は前方一間分を吹き放ちの外陣とするこの地方に多く見られる建築様式である。境内には天照大神を祀った伊勢大神宮と椙若社がある。椙若社は元就が、育ての親である「椙の方」を祀った神社であったが、社殿は朽ち果て敷石だけを残していたのを、平成10年、元就生誕500年を記念して地元有志の方々によりに再建された。元就は「椙の方」を大事にしたと伝わる。

地図(この付近)
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=477748.533&Y=124798.797&SCL=801

○国史跡、吉川元春館跡
吉田町を後にして山県郡北広島町にある吉川元春館跡に向かう。吉川元春は天正10年(1582)備中高松城での戦いの後、本能寺に帰る秀吉との徹底抗戦を唱えたが、毛利輝元や小早川隆景は恵瓊を通じて秀吉と和睦する。元春はこれ不服とし嫡男吉川元長に家督を譲り隠居してしまう。元春は自身の隠居館として翌天正11年からこの建設を開始し、隠居生活を送りながら完成を目指した。しかし天正14年(1586)、隠居していた元春は九州島津氏との戦いに再び参戦し、出征先の豊前小倉城二の丸で病死してしまう。元春の片腕として山陰の地で共に戦った杉原盛重が鳥取八橋城で死んでから5年後のことである。館の建設は吉川元長が受け継いだが元長も翌年に病死。元長の弟で吉川広家の頃にやっと完成したという。しかし、広家は天正19年(1591)、月山富田城に移り、主を失ったこの館は歴史から姿を消す。それから400年。石垣などの遺構の状態は良好で国史跡に指定され再び日の目を見た。石垣の高さは3メートルもある。巨大な石を一定間隔で並べ、その間に大小の石を積む独特の技法である。これは宮島厳島神社参道の石垣でも見られ、厳島の石工との関連をいわれているが、この石垣に限ったことではなく、毛利元就や輝元らが造営したときの清神社棟札に記された大工の名も厳島の宮大工であったことは、広島大学三浦教授らによる調査で明らかになっている。もっとも、安芸国一宮厳島神社の本殿は、元就が宮島で陶晴賢を討ち取った後、神域である社殿を血で穢したことをわびて、元亀2年(1571)に造営したものである。

地図(この付近)
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=476883.982&Y=124971.111&SCL=540

毛利の里・・・
西に東に命をかけて走り回り、戦に明け暮れたこの時代の武将達に思いを馳せた。この地にはまだ訪ねてみたい場所が沢山ある。もう一度問う。100年にもおよぶ日本人同士が殺し合った戦国時代とはなんだったのか。歴史に名を刻んだ人物はごく僅かである。名もなく泥と化した人々の上に私達は今生きている。大河ドラマ「毛利元就」から早10年が過ぎた。私の10年はアッという間であった。それでも生きている。

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