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備後の歴史を歩くコミュの川口八幡神社

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川口八幡神社 福山市川口町に鎮座する。

境内に建立された石碑には川口町について「4代福山藩主水野勝種が寛文十一年に築成された。工事は東半分は上田玄蕃、西半分は中山外記が担当。築成当時の畝九十五町三反八畝。高五百五十一石。沖堤、東堤、西堤の内側に潮廻しをめぐらし、後堤の内側には竹林を配置した・・・」と説明している。寛文十一年は1671年だ。備陽六郡志は「貞享年中水野家臣上田玄蕃築かれし所の新涯地ゆえ、十万石の外にて、玄蕃家来篠川新七というものを代官に差し置ける。元禄検地の節、多治米、川口共に検地御除被下度由願いけれども不相叶、御高の内に成侍る」と記されている。貞享年中は1684−88年。西備名区には「寛文十一年築成」とある。

さて、この八幡神社であるが、備陽六郡志は産土「田中八幡」とし「松平忠雅公の御家来、山伏、地福院屋敷に春日大明神を勧請し有りけるが、宝永八年、桑名へ御所替の節、地福院より春日の本殿、前殿、花表ともに申請、当社を造立しける」とある。宝永八年は1711年。一方、西備名区は「産社八幡宮」とし「寛永八年福山延広八幡宮を勧請す」福山志料は「田中八幡宮」として西備名区を引いている。寛永八年は1631年。しかし、境内の由緒書きは鎮座は天和三(1683)年九月、祭神は応神天皇、神功皇后、宗像3女神と記すが、広島県神社誌は西備名区の「寛永八年福山延広八幡宮を勧請す」を載せている。

備陽六郡志に出てくる春日大明神は武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神の四柱を指し、花表は華表(かひょう)といい鳥居のことだ。いずれにしても新涯の地で入植者は子孫繁栄、五穀豊穣を願ったのだろう。境内社として胡(えびす)社、潮崎神社、荒神社、痘守社、両君社がある。両君社には上田玄蕃、中山外記が祀られている。

昭和五十六年に再建された本殿は一間社入母屋造で屋根は銅板葺き。大棟には外に削がれた千木と三本の鰹木が置かれる。身舎柱は円柱を使い木鼻を出した頭貫と、さらに長押を打って固定される。柱上には三斗組を置いて梁、桁を支える。縁は三方を巡り背面は脇障子で止まる。軒は二軒で妻飾りは虹梁大瓶束である。向拝柱は角柱を頭貫で固定し木鼻は象鼻となる。柱上には連三斗をおき、中備は三巴紋が彫られた蟇股。垂木は手挟みが受ける。

写真

左:八幡神社の正面
中:玉乗り型狛犬
右:奉納年度は不明

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.23.15.003N34.27.57.403&ZM=10


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川口八幡神社

写真
左:コンクリート造の拝殿
中:本殿
右:本殿
川口八幡神社

写真
左:本殿の背面
中:本殿の向拝
右:本殿
川口八幡神社

写真
左:境内社
中:境内
右:痘守社
川口八幡神社の創祀については定かではないが、社殿建立にいたる備陽六郡志の「松平忠雅公・地福院・宝永八年・・」の記述は信頼できると思う。それは備陽六郡誌の著者宮原直ゆきがこの時代を生きた人物であるからだ。

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