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備後の歴史を歩くコミュの神社建築様式「香椎造」

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香椎宮(かしいぐう)
福岡県福岡市東区に鎮座する。
祭神は第14代仲哀(ちゅうあい)天皇である。仲哀天皇と神功(じんぐう)皇后は九州クマソ征伐に出向したおりに、古事記に「訶志比宮」、日本書紀に「橿日宮」を仮宮として滞在したと記されている。この地でクマソを撃つべきかを占うと、そこに住吉神が現れ「今、クマソは撃たなくても良い。それより三韓征伐をせよ」という神託があった。仲哀天皇はその託宣を無視したために神の怒にふれ崩御する。神功皇后は、お腹に後の第15代応神天皇を身籠もったまま軍備を整えて三韓征伐に赴き、見事成し遂げて帰られた。香椎古宮は、三韓征伐から帰られた神功皇后自ら仲哀天皇を祀ったと廟とされる。西暦200年のことである。その後、養老7年(723)元正天皇が社殿の造営を開始、翌、神亀元年(724)完成して香椎廟と称した。以来朝廷から厚遇され、現在でも10年毎に勅祭が行われている。足利尊氏や足利義満も戦勝祈願し、戦国時代には天正14年(1586)兵火にあい社殿を焼失。しかし、天正15年(1587)小早川隆景が拝殿、本殿を建立している。現在の社殿は享和元年(1801)、福岡藩主黒田長順により再建されたもので国指定重要文化財である。

本殿の建築様式は「香椎造」と称される複合社殿である。一番奥に内陣として三間社平入り入母屋造を建て、手前の外陣には内陣の入母屋屋根の一段低いところから左右に一間ずつ張り出させて切妻屋根をかけ「車寄」と称される階段付きの出入り口を設け、縋破風(すがるはふ)向拝を造る。内陣の入母屋大棟には大きな千鳥破風を飾る。本殿前には切妻妻入りの幣殿、さらに拝殿がならんで建つ。屋根は檜皮葺である。

先の宗像大社に続いて、ここでも小早川隆景に出会えた。焼失後、規模を縮小して建てたと伝わるが「香椎造」は忠実に再現したようだ。塀で囲まれた本殿はガードが堅く、細部にわたって見ることは出来なかった。せっかくの国宝や世界遺産に代表される重要文化財をわざわざ遠方から入館料を支払って見に行っても、なかなか見せていただけない建築物が多い。残念に思うのは私だけではないはずだ。この後行った宇佐神宮の「八幡造」本殿も隙間からしか見ることは出来なかった。神功皇后であるが、この九州に赴く途中、瀬戸内海潮待ちの浦に立ち寄り海神を祀って戦勝渡航祈願をされた。凱旋時、再びこの浦に立ち寄られ、自身が身につけていた武具「高鞆」を奉納しお礼参りをされた。これが「鞆の浦」の地名となり、式内沼名前神社の縁起である。

地図
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=469638.219&Y=121141.187&SCL=1060

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香椎宮(かしいぐう)

写真
左:石鳥居
中:楼門
右楼門の扉に施された菊紋の彫刻
香椎宮(かしいぐう)

写真
左:三間一戸の中門
中:本殿の背面
右:高欄付きの縁は背面にも回されているが、外陣際で脇障子により止められている。

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