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備後の歴史を歩くコミュの古城八幡神社

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古城八幡神社(こじょうはちまん) 福山市神辺町川北に鎮座する。

この神社の祭神は先に紹介した平野八幡神社と同じ応神天皇、神功皇后、玉依姫命だ。ここの縁起は鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が建武2年(1335)、戦功のあった浅山(朝山)備前守條就に備後の守護職を命じ黄葉山に神辺城を初めて築いた。その神辺城の鬼門守護として艮(北東)にあたる古城山に鎌倉鶴岡八幡宮を勧請して創祀したとある。鶴岡八幡宮は源氏の守護神で京都男山(石清水)もしくは河内源氏の壺井八幡宮のいずれかから分社し創祀された。壺井八幡宮は男山から初めて勧請した神社であるが、祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后の三柱で、男山と比べると比売神が応神天皇の父親の仲哀天皇に置き換わっている。祭神について意外といい加減な神社が多いのは長い歴史の中ではいたしかたのないことなのか・・・。さらに広島県神社誌には水野勝成が福山城築城の際に、ここの八幡神を野上村に遷して福山城の守護神としたと記されている。現在の福山八幡宮西御宮の野上八幡神社を指すのだろうか。福山八幡宮は天文年中(1532−55)に元々福山城築城予定地に杉原播磨守が2社を造営していた。それを勝成が元和5年(1619)福山城築城の邪魔になったから一つを野上に、もう一つを延広に遷座させた。天和3年(1683)第4代城主水野勝慶が、今の松の尾山に東御宮として延広八幡神社を、西御宮として野上八幡神社を新たに造営し遷座させたものだ。縁起が理解できないが、神辺城の鬼門守護はあっているような気がする。

社殿であるが昭和15年に再建された本殿は一間社流造で銅板葺き屋根。その上には千木と三本の鰹木が置かれるが、向かって左の千木はそばの立木の枝に打たれたのか折れていた。身舎柱は正規の丸柱が使われ、長押と頭貫で固定された柱上にはさらに台輪が置かれる。柱間には四方にカエル股が飾られる。三方を縁が廻り奥は脇障子で止まる。向拝は頭貫で固定され桁は連三斗が支える。木鼻は象鼻彫刻が施され、垂木は手挟みが飾られる。軒は前後とも二軒で、妻飾りは虹梁大瓶束。拝殿が立派で、普通拝殿は角柱が使われるが、ここは本殿用の丸柱が贅沢に使ってある。三間社入母屋造で瓦葺き屋根。向拝は向唐破風だ。本殿と拝殿は幣殿で接続される。いずれも立派な社殿だ。

写真
左:参道の石鳥居
中:拝殿
右:本殿

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.23.24.184N34.32.29.719&ZM=9

コメント(3)

古城八幡神社

写真
左:拝殿
中:拝殿
右:本殿の背面
古城八幡神社

写真
左:向拝部分
中:行程記にも描かれています。
右:アップ。逆さなので回転させました。
読みを「こしろ」としていましたが「こじょう」が正解のようですので訂正します。

神辺旭高校の西に「古城神社」があり、こちらは「こしろ」と読ませるようです。次回訪ねてみます。

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