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備後の歴史を歩くコミュの本庄八幡神社

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本庄八幡神社(ほんじょうはちまん) 福山市北本庄に鎮座する。

広島県神社誌には京都石清水八幡宮を社ノ丁に勧請していたが、天正8年(1580)堂坂山に社殿を造営し遷座した・・・と記されているが、誰がいつ勧請し、そして遷座させたのかは記載がない。村上正名氏は「城下町福山」の中で木之庄の本庄と題して、南北朝時代南朝年号正平8年(1353)に足利直冬が周防国(山口県)阿弥陀寺の社領荘園に木之庄を寄進している。ついで文明5年(1473)北野神社(北野天満宮)の社領に備後では唯一吉津庄が記載されている。戦国時代になってからはこの地を山手杉原氏が押領し、本庄八幡神社は木之庄北部に山城を構えた九日ヶ嶺(くにちがたお)城主杉原陸奥守が創建したと紹介している。足利直冬は当時中国探題と称し鞆大可島城を居城としていた。九日ヶ嶺城主杉原陸奥守だが、山手銀山城杉原氏の家系図には記載されていない。「杉原盛重」を書かれた立石定夫氏もその中で九日ヶ嶺城に杉原陸奥守がいたというが時代が明らかではない。また西備名区には本庄八幡宮の後ろに小祠があり先祖の平貞盛の霊を祀った「貞盛霊社」と称した。とあるので杉原一族により勧請されたものなのであろうと記されている。もう一つの疑問は祀られている祭神だ。石清水八幡宮から勧請したのであれば宇佐の八幡神であるから応神天皇、神功皇后、そして比売大神(ひめのおおかみ)の三柱であるはずで比売大神は宗像三女神とされている。ここ本庄八幡神社の祭神は宗像三女神のみが神社誌に記載されている。応神天皇と神功皇后はどうしたのだろうか。山手杉原氏の創祀は間違いないと思うが伝承はかなりあやふやになっているようだ。

本殿は三間社入母屋造でオレンジに塗装された銅板葺き屋根に向拝が付く。向拝柱の頭貫は虹梁型で、その木鼻には象が彫られる。桁は連三斗が支え、手挟みを飾る。身舎はすべて円柱が使われ、長押と頭貫で固定される。柱上は平三斗で中備には蟇股が施される。軒は二軒で、三方を縁が廻り奥は脇障子で止まるが高欄は付いていない。妻飾りは虹梁蟇股式だった。棟上には内削ぎ千木と三本の堅魚木が置かれる。

写真
左:長い石段が続く参道
中:入母屋造桟瓦葺きの拝殿
右:三間社入母屋造の本殿

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.21.2.235N34.29.29.374&ZM=10

コメント(2)

本庄八幡神社

写真
左:向拝部分 象鼻の彫刻と連三斗
中:身舎の木組み 平三斗と蟇股
右:境内から観た福山市内、福山城も見えてます。
本庄八幡神社

写真
左:本殿の妻飾り部分
中:幣殿
右:境内

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