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備後の歴史を歩くコミュの安国寺

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安国寺(あんこくじ) 福山市鞆町後地

安国寺といえば、足利尊氏と直義の兄弟が全国66カ国と隠岐、対馬の2島に「安国寺」と称する一寺と「利生塔(りしょうとう)」と称する一塔を建てることを計画し、暦応元年(1338)から全国一斉に建立に着手した寺である。これは聖武天皇が天平13年(741)に各国に国分寺と国分尼寺をセットにして国府所在地に建立を命じた寺院と性格はよく似ている。備後安国寺は暦応2年(1339)鞆の地に新たに建立されたと伝えられていたが、昭和8年に行われた安国寺釈迦堂の大修理の際の調査や、開山法燈国師像の躰内に刻まれた建治元年(1275)の刻印、また達磨大師位牌に刻まれた銘から文永10年(1273)から、この釈迦堂は通説となっている南北朝からさらに遡る鎌倉時代に、法燈国師により開山された金宝寺であったことが判明している。したがって、新たに建立されたのではなく、その前身である金宝寺の堂宇を再利用されたものとも考えられる。この時の安国寺は鞆の地の三分の一を有し、西国随一の大伽藍を誇っていて、13世紀から14世紀にかけては足利氏の力を得て黄金時代を築いた。安国寺とセットになる「利生塔」は尾道の浄土寺に指定された。室町幕府の衰弱とともに安国寺も老廃の道を辿った。天正年間に再興されたが、それは一時的なもので、慶長4年(1599)毛利輝元が本格的に法灯を復活させた。しかし、1599年は関ヶ原合戦の一年前で、その戦いに敗れた輝元は削封、安国寺住職恵瓊も西軍加担の罪で処刑されてしまった。寺は無住状態で、追い打ちをかけるように大正9年には火災で本堂が焼失、釈迦堂も倒壊寸前で過去最悪の状態だったが、その釈迦堂は昭和2年に国宝建造物(現重要文化財)に指定され、昭和8年には「福山の古建築」の著者古西武彦氏による解体大修復がなされ、鎌倉時代の禅宗建築がここにやっと蘇った。

その釈迦堂の建築様式は、桁行三間、梁間三間、いわゆる方三間の平入り入母屋造で本瓦葺き屋根。出組は尾垂木付きの二手先で、柱間にも柱上と同じ出組(詰組という)が施されている。軒は二軒で疎垂木(まばらたるき、垂木の間隔が広い)。四隅に降りてくる隅棟の先には稚児棟が付き、また強い反り上がりが力強くて美しい。昭和43年に出版された「福山の古建築」で古西氏は、「寺では大正に焼失した本堂の再建復旧を計画している」と記されているが、未だに実現はしていない。

写真 2007年08月18日
左:安国寺山門
中:案内板
右:釈迦堂の正面、葉桜で屋根しか見えない・・・。

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.22.57.497N34.23.5.463&ZM=10

コメント(20)

安国寺

写真
左:裏側です。
中:側面、妻側です。
右:ななめ後ろからです。
瑞雲山安国寺
2008年4月5日

身舎柱の円柱は頭貫で固定されさらに台輪を乗せる。頭貫の下側は、和様では長押を打つが、禅宗様ではこのようにこの部分も貫で固定される。柱上は尾垂木付きの二手先が軒を出す。柱間にも同じ出組を置く詰組となる。妻飾は虹梁大瓶束だ。屋根の反りは非常に美しく、備後が誇る禅宗様建造物である。毛利輝元と安国寺恵瓊の手により再建された天正元年(1572)頃は栄華を極めた。この釈迦堂であるが、檀家を持たないために江戸期には老廃してしまう。釈迦堂の裏手に建っていた本堂は大正9年に焼失。木像法燈国師座像は隣の住職により持ち出された以外は全て焼失してしまった。

写真
左:釈迦堂正面の桜
中:「大雄宝殿」扁額
右:アップ
瑞雲山安国寺
2008年4月5日

写真
左:現地案内書
中:焼失した本堂跡
右:内部の組物(暗い・・・)

瑞雲山安国寺
2008年4月5日

写真
左:国指定重文 木像阿弥陀如来と開基法統国師(ほっとうこくし)座像
中:寛永9年(1632)水野勝俊の息子水野多門が6才で夭逝。その冥福を祈り建てられた五輪塔と子安観音が安置された観音堂

右:宝形造の観音堂
 安芸国に置かれた安国寺は、現在は広島市東区牛田新町にある不動院が当てられた。その創建は、本尊である薬師如来像の様式から平安時代まで遡るという。この寺を足利尊氏は安芸の安国寺に定めた。安芸安国寺は広島銀山城主武田氏の菩提寺として栄華を極めたが、武田氏は大内氏と激突し敗北。伽藍は戦火に包まれて焼失、武田氏も滅亡し一気に衰退したという。武田氏一族に生まれた恵瓊(えけい)は、幼い頃にこの安国寺に逃がされて生き延びたと伝う。京都臨済宗総本山東福寺に入り修行を重ねた恵瓊は帰郷を果たし、当時衰退していた安国寺の住持となり復興に勤める。後に東福寺や南禅寺の住持にもなり、中央禅林の最高位にまで上りつめた。安芸や備後をはじめ中国地方を支配した毛利氏の所領に織田信長の触手が伸び、京を追われた足利義昭が毛利氏を頼って鞆に来たりと各陣営の動きが活発になり出すと、毛利氏は恵瓊を外交員として活用した。当時、僧侶は街道をフリーパスで通行が出来たために、特に京都に幅広いネットワークを持っていた恵瓊は情報戦の最前線として使われた。毛利方の外交官としてその手腕は秀吉からも信頼され、信長亡き後、毛利氏と秀吉の関係修復に尽力し、毛利輝元と小早川隆景は秀吉の五大老に位置するまでになった。秀吉はそんな恵瓊に伊予和気郡二万三千石を与え、僧侶でありながら戦国大名となり秀吉の朝鮮出兵にも参戦している。

写真
左:不動院(安芸安国寺)金堂(国宝)天文9年(1540)頃に建立され、天正年間に移築した。

中:楼門(国指定重文)文禄3年(1594)建立
右:鐘楼(国指定重文)永享5年(1433)建立 天正年間に移築された可能性がある。中に吊られる梵鐘(国指定重文)は朝鮮に出兵した恵瓊が持ち帰ったもの

地図
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=476904.366&Y=123925.96&SCL=1859
 安土桃山時代は建築でも栄華を極めた。恵瓊は卓越した建築技術を持ち、安芸安国寺、鞆安国寺をはじめ宮島千畳閣と五重塔、広島国泰寺、博多承天寺、京都東福寺や建仁寺の方丈など、新造もさることながら素晴らしい移築技術も持ち合わせている。それは宮島の五重塔や建仁寺の方丈などは安芸安国寺から移築されたものだし、今に伝う国宝安芸安国寺(不動院)金堂は大内義隆が周防山口に建てた凌雲寺をここに移築したものだ。天下人となった秀吉と、それを支えた毛利氏双方に重用された恵瓊は、この時が人生の最盛期であったといえる。秀吉の没後、天下分け目の関ヶ原の戦いでは毛利輝元を西軍の総大将に据え、自らも挙兵した恵瓊であったが、それは結果的に負け戦となり京都で捕らえられて処刑され、その生涯を閉じた。秀吉の遺髪塚と恵瓊の首塚は安芸安国寺(不動院)の墓地に建つ。この後、安芸、備後には福島正則が広島城に入封する。社寺領をことごとく没収したことで名を馳せた正則は、安芸安国寺に自らの祈祷僧である宥珍(ゆうちん)を入れた。この時に禅宗から真言宗に改宗させ、本尊を不動明王とし不動院と称した。不動院と安芸安国寺の関係はおよそ以上である。福島正則改易後入封した浅野氏もこの不動院を保護し、恵瓊が建てた伽藍は整備され今日まで受け継がれた。昭和20年8月6日に落とされた原子爆弾の爆風にも耐え、現在まで建ち続けているということは奇跡としか言いようがない。広島市内では戦火を免れ現存する唯一の国宝である。

この不動院金堂は安土桃山時代の禅宗様建築の粋を極めた堂宇である。一見して二階建てに見える建物は、実は一重の巨大な建物で、裳階(もこし)と称される屋根が付属しているために二重に見える。禅宗様の特徴をあげると、屋根は桧皮葺か柿葺で裳階が造られる。上層屋根には見事な軒反りを付けるが、裳階屋根は小さくして強弱を付ける。垂木は放射状に拡がる扇垂木で、裳階は平行垂木が一般的。この不動院は裳階も軒を反らせ扇垂木となっている。「組物は尾垂木付きの出組を柱上だけでなく柱間にも入れる詰組(つめぐみ)となる。柱間に置く間斗束や蟇股は和様である。尾垂木は先端を細くする。「天狗の鼻」に見えることから「天狗尾垂木」という。柱は円柱を使い、その上下を削る粽(ちまき)を付け、柱と礎石(そせき)の間に木製か石製の礎盤(そばん)を挟み、建物内部は床を張らない土間である。したがって回り縁は持たない。柱は貫(ぬき)で固定され、和様で見られる長押(なげし)は打たない。貫の中でも柱の一番上部の頭貫の上にはさらに台輪(だいわ)を乗せて、その上に組物を置く。頭貫は柱からはみ出させて木鼻を造り、それに渦巻きや葉の彫刻が施される。支輪は板支輪。欄間は弓欄間で連子子(れんじこ)が弓型を造り、弓欄間の中央部分には宝珠模様を飾る。窓は花頭窓(かとうまど)。扉は桟唐戸(さんからと)。 壁は竪板壁で土壁は用いない。彩色は建物の外部にはせず素木造となる。以上が禅宗様の特徴の主なものである。

安芸安国寺の不動院金堂を見てみると、裳階下の柱間を数えると桁行七間、梁間五間だが、外側の一間四方は裳階を支える柱となり、建物自体は桁行五間、梁間三間の裳階付き平入の入母屋造である。屋根は柿葺で、軒反りは裳階にも付く。粽が付けられた円柱は礎石の上に礎盤を置き貫で固定され、頭貫の上には台輪を置く。壁は板壁に花頭窓が付けられる。組物は出三斗で柱間にも同じものが置かれる。裳階の上層部は圧巻である。頭貫に台輪を置き、組物は二本の尾垂木付き三手先が詰組で丸行を支える。軒は大屋根、裳階ともに二軒繁垂木で形状は扇垂木である。妻飾は虹梁大瓶束となる。向拝は一間通りが吹き放たれている。どれをとっても安土桃山時代を代表する禅宗様のお手本となる建造物で、安国寺恵瓊のこの建造物への執念が原爆からも守られたという気がした。他にも楼門、鐘楼など歴史的の価値の高い建物を有す。

安国寺恵瓊・・・。
鞆の浦とも繋がりの深い、何ともミステリアスな人物である。

不動院(安芸安国寺)

写真
左:秀吉の遺髪塚や武田氏の供養塔
中:福島正則の墓石
右:安国寺恵瓊の墓石
県史跡 備後安国寺  


昭和30年1月31日 指定
鞆町後地 安国寺境内

 安国寺は、夢窓国師の勧告により足利尊氏・直義兄弟が、元弘以来の戦没者の冥福を祈って国ごとに建立した寺で、備後安国寺は暦応2年(1339)に愚谷和尚が創建し、法燈国師を推して開山したと伝えられている。一時衰退したが、慶長4年(1599)に毛利輝元を大檀越として、安国寺恵瓊によって再興された。以来鞆の浦三分の一を寺領とし再び寺は栄えたといわれている。

 昭和8年(1933)の釈迦堂修理の時、現状基礎よりも50cm下層に旧基礎が検出されており、安国寺の前身建物に関わるものと考えられている。

 大正9年(1920)本堂は焼失したが、現在境内には釈迦堂(重文)、枯山水の庭園、ソテツ(県天記)が所在し、当時の繁栄を物語っている。

http://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/bunka/bunkazai/shisekibu/12.html



恵瓊が亡くなる1年前に建てられた。
鞆安国寺は恵瓊の遺作かも知れない。

潮の香り漂う福山市鞆町。海沿いの県道から山側に続く石畳の細い道へ入ると、瓦屋根が連なる古い民家の間を抜けた先に、安国寺の釈迦堂(重文)が端正な姿を現す。かつては海から背後の山までが領地だったという寺の境内で、法堂跡の巨大な踏み石の上に立ち、しばし時の流れに思いをはせた。

 鎌倉時代中期の1273年(文永10年)に創建された「金宝寺」が前身。室町幕府を開いた足利尊氏(1305〜58)が、南北朝の争乱の戦死者の供養などを目的に、全国約60か所に設営した安国寺の一つ、「備後安国寺」に改名したとされる。戦国時代に一時衰退しながらも、豊臣秀吉に重用された安芸安国寺の僧、安国寺恵瓊(えけい)(1539〜1600)の尽力で、鞆第一の寺として再興された。

 しかし檀家(だんか)を持たず、福山藩の庇護(ひご)で成り立っていたため、明治時代になると荒廃。無住となり、広大な寺領は失われ、法堂は焼失、書物も散逸した。

 1932年(昭和7年)から、新たな住職の下で釈迦堂の修復など再建が進み、かつての塔頭(たっちゅう)だった2寺を取り込んで盛り返した。



 境内の墓地の最も奥まったところに五輪塔がある。福山藩の2代藩主・水野勝俊(1598〜1655)の早世した三男・多門の墓だ。その周りに数えきれぬほどの無縁仏が積まれている。「長い年月の間に、民衆がここへ集めたのでしょう。弔う人がいなくなった五輪塔を、同じ無縁仏と見たのかも」と、藤井浩慈住職(33)は静かに石塔を見上げた。

 多門の供養には観音堂も作られ、赤ん坊を抱く観音像が厨子(ずし)に安置された。89年まで秘仏として公開されていなかったが、その周りを真新しい37体の慈母観音像が囲んでいる。藤井住職が、その不思議な由来を話してくれた。

 15年ほど前、子宝に恵まれなかった新潟県小千谷市の女性(40)が訪れ、「占いでここへお参りするよう告げられた」と、観音像を拝み、お守りを授かって帰った。半年後にめでたく妊娠、続けて計3人の子を授かり、「十分ご利益があった」とお守りを返しに再訪したという。

 その話が自然に広まり、観音像を拝みに訪れる人が増え、2003年にはお礼の意味を込めた慈母観音が寄進され、観音堂の朽ちかけた屋根の修繕も出来たという。「文化財だから大事なのではない。拝む人の心があるからこそ、墓は墓、寺は寺であり、仏も仏であり得るのです」と藤井住職。

 400年近く前、藩主の子息の供養にと作られた観音像が、現代で人々の心のよりどころとなっている。「生きとし生ける者のため 大慈大悲の手を垂れて 種種に済度をなしたもう」。暮れゆく港町の空に、読経が響いていた。(阿部宏美)

 メモ 鎌倉時代中期の釈迦堂と木造阿弥陀(あみだ)如来像、木像法燈国師坐像、その納入品の水晶五輪塔など重文約20点を所蔵する。恵瓊が修築した枯山水の庭は、中世庭園の姿を今に伝える。拝観料150円(高校生以下無料)。

(2008年2月10日 読売新聞)
たぶん母の実家の裏の安国寺だと思いますが
精進料理を食べに行った位で中は拝見してないです・・・
>さこちん


ここは精進料理があるのですか?

いつ行ってもお留守で御朱印もまだいただけていません・・・。

あったんですが今はもうしてないんです。安国寺のこと ちょっと聞いてみますね!
最近いつ行ってもこの通りです。
先日なんか150円支払ったのに釈迦堂には施錠がしてあって入られなかったし・・・。


先代のご住職が亡くなられた後 
息子さんが継いでらっしゃるそうで
先代の奥様もいらっしゃるはずだそうですよ。
昭和8年に解体修理された安国寺釈迦堂ですが、修理前の画像が藤原義一著「増補 日本古建築図録」に載っていたのでここに引用させていただきました。

写真
左:見るも無惨な安国寺釈迦堂の背面
右:解体修理された釈迦堂の背面
久しぶりに備後安国寺を訪ねてみた。
桜の花が咲き出すと正面からは釈迦堂は見ることが出来ない。


妻飾りの懸魚は桐紋が彫刻された三花懸魚(みつばなげぎょ)。しかし、左側がかけ落ちている。秀吉も桐紋だ・・・。正面の山門に掛かる垂れ幕には足利氏の二つ引両が染められている。

妻部分の虹梁の中心に短い円柱を立てて大棟を支えるこの始末を「虹梁大瓶束(こうりょうたいへいつか)」という。禅宗様建築の標準仕様である。



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