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備後の歴史を歩くコミュの桜山神社

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桜山神社(さくらやま) 福山市新市町宮内 吉備津神社境内に鎮座する。

祭神は、鎌倉時代後期、後醍醐天皇を中心とした鎌倉幕府倒幕軍に備後から参戦し自害して果てた桜山茲俊(これとし)である。鎌倉時代後期は北条得宗家が実権を握っていたが、政治は荒れ幕府の信頼は急激に失っていった。一方、朝廷も血脈が持明院統と大覚寺統と二つに分かれた皇位継承を巡って争いが絶えず、交互に皇位を継承するという妥協策が行われていた。文保2年(1318年)大覚寺統の後醍醐天皇が即位すると密かに天皇政治を目指し倒幕計画を進めていった。その計画も数度のたれ込みで失敗した後の元弘元年(1331年)8月、またしても後醍醐天皇の側近である吉田定房が幕府の京都の出先機関である六波羅探題に倒幕計画を密告。しかし、これが口火となり後醍醐天皇はついに山城国笠置山で挙兵した。大和国の吉野では後醍醐天皇の皇子護良親王が、また、河内の赤坂城では楠木正成もこれに追従し挙兵した。この戦いに備後から桜山茲俊が参戦したのだ。幕府は足利尊氏、新田義貞らの討伐軍を差し向けた結果、9月に笠置山は陥落、次いで吉野も陥落し、楠木軍が陣取る赤坂城のみが残ったが、10月、ついにここも正成自ら赤坂城に火を付けて自害。後醍醐天皇は隠岐へ流された。桜山茲俊は太平記にも「桜山自害事」と記されている。出陣した桜山茲俊は笠置山、吉野が陥落、そして楠木正成の赤坂城も落ち自害したことを知ると、率いていた軍を解散させ一宮(備後吉備津神社)に引き返し、社殿に火を放ち、家族を切り殺し、21名いたとされる側近と共に自害したのは元弘2年1月21日のことだった。しかし、自害したとされる楠木正成は、実は護良親王と共に生き延びていていた。態勢を立て直した正成は元弘2年(正慶元年)11月、河内国金剛山の千早城で再び挙兵し、12月には赤坂城を奪回に成功した。後醍醐天皇も隠岐から脱出し戦いに復帰。倒幕の戦いは終わってはいなかったのだ。幕府方にいた足利尊氏も倒幕方に寝返り、鎌倉幕府はついに終焉を迎え、ついに後醍醐天皇は天皇主導の建武の新政を行うが、側近ばかりを優遇した政治は反感をかい長くは続かなかった。足利尊氏は離反し南北朝の混乱した時代を制し、室町幕府を築いていくのである。

桜山神社の創建は不明であるが、慶安元年(1648年)水野勝成が吉備津神社を再建したときにこの神社も同時に再建している。その勝成が建てた社殿は明和2年(1765年)風水害で倒壊し、そのままになっていたが明治16年に有志により再興され、明治44年に現在の吉備津神社の隋神門北側の神宮寺跡地に遷座した。相殿には殉死した21柱が合祀してある。今建つ本殿は明治四十四年に再建された三間社入母屋造りで桟瓦葺き社殿だ。前には吹き放ち平入り切り妻造りの拝殿を持つ。吉備津神社南側の桜山山頂には桜山城跡も残っている。

写真

左:拝殿
中:本殿
右:本殿

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.16.30.390N34.33.58.936&ZM=10

コメント(4)

桜山神社

拝殿、本殿ともにお屋根の改修工事が始まっていました。屋根板や垂木も部分的に取り替えられています。拝殿前には大量の瓦が積まれていたので、瓦も新規に葺き替えられるのでしょう。
桜山神社

少し時間があったので立ち寄ってみました。
改修工事は終えているようでしたが、ご神体の遷座式はまだのようです。

本殿は、高欄付き廻縁と擬宝珠(ぎぼし)、長押の止め金具、二軒の垂木や屋根板など新補されています。

拝殿、幣殿は瓦の葺き替え、床板の張り替え等です。

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