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備後の歴史を歩くコミュの二宮神社

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福山市神辺町八尋 二宮神社(にのみや)

 この神社は古来、廻廊や鐘楼等を持ち社人は16人もいたとされる大社だったが、杉原盛重に社領を減ぜられ毛利元就に没収されたとある。隣には神宮寺もある。神宮寺というのは、力のあった神社が境内に創建した寺である。戦国時代には地方領主らによって武運を祈る寺として栄えたが、普通の寺と違い檀家を持たなかったため、明治以降、廃仏毀釈により大半が消滅してしまった。

 二宮神社の神宮寺・蓮乗院(真言宗大覚寺派)は現在も存在している。これは新たに檀家を募り成功した例である。この神社は、先に紹介した山野町式内社「多祁伊奈太伎佐耶布都神社」で論社とされた神社だ。広島県神社誌に書かれた祭神は、大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと孝霊天皇のことだ)、吉備武彦命、細女命(うずめ)の三柱だが、由緒書きでは吉備津彦、稲田姫と細比売命(くわしひめ)が加わる。孝霊天皇の皇后は細媛命(ほそひめのみこと)で神社誌に書かれている細女命(うずめ)はこの皇后のことだと思う。この二人の間に生まれた皇子が大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)で孝元天皇となり皇位が続く。

 もう一人のお后、倭国香媛(やまとのくにかひめ)との間には倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめ)が生まれ、彼女は邪馬台国を治めたとされる卑弥呼とされ、箸墓古墳の主は彼女とされている。

 縁起であるが当初は櫛稲田姫一柱を祀った神社だったが、備後一宮から吉備津彦ら四座を勧請し備後二宮となったとある。これが「多祁伊奈太伎佐耶布都神社」とされた理由であるが、よくわからないのが現状だ。


写真(昨年5月頃)

左:本殿 三間社入母屋造、縋向拝付き社殿
中:神宮寺・蓮乗院
右:神宮寺から神社参道石段

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.25.18.736N34.33.50.624&ZM=8

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