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-宇宙-コミュの人間原理

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人間原理について、語り合ったり、妄想を逞しくしたりするトピックです。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

人間原理(にんげんげんり、Anthropic principle)とは、物理学、特に宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方。"宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから"という論理を用いる。これをどの範囲まで適用するかによって、幾つかの種類がある。
人間原理を用いると、宇宙の構造が現在のようである理由の一部を解釈できるが、これを自然科学的な説明に用いることについては混乱と論争があり、未だ多数には認められていない。

奇跡的な宇宙
この宇宙は奇跡的にバランスよくつくられている。物理定数がわずかでも違えば生命はもとより、原子や恒星さえ存在できない。自然法則が違っていたら、3次元でなかったら、多くの可能性の中で、宇宙はなぜこのように人間のような高度な生命を生み出すのに適した構造をしているのか?それは偶然なのか?こういった疑問に答えるために人間原理は利用される。
唯物論的な見方からするとさして特別な事を入っていないようにも思える。しかし生命が生まれたことが奇跡のように思える事は、創造論など神のような特別な存在の介在の根拠として利用されてきた歴史がある。このような見方に頼る必要が無い事を示すための論理的な考え方を人間論理は示してくれる。

弱い人間原理
大数仮説が成立する時に人間が存在している不思議さを、人間の存在による必然と考えたのがロバート・H・ディッケである。ディッケは宇宙の年齢が偶然ではなく、人間の存在によって縛られていることを示した。それによれば、宇宙の年齢は現在のようなある範囲になければならないという。なぜなら、宇宙が若すぎれば、恒星内での核融合によって生成される炭素などの重元素は星間に十分な量存在することができないし、逆に年をとりすぎていれば、主系列星による安定した惑星系はなくなってしまっているからである。このように宇宙の構造を考える時、人間の存在という偏った条件を考慮しなければならないという考え方を弱い
人間原理と呼ぶ。

強い人間原理
ブランドン・カーターはこれをさらに進めて、生命が存在し得ないような宇宙は観測され得ず、よって存在しない。宇宙は生命が存在するような構造をしていなければならない。という強い人間原理を示した。

関連項目
• 宇宙論
• 宇宙原理
• 宇宙の地平線
• ベイズ確率
• 唯心論
• 観測問題
• 観察者効果
• 我思う、ゆえに我あり
• 世界五分前仮説
• シュレディンガーの猫
• エヴェレットの多世界解釈

コメント(157)

>小阪淳さん

斉一性原理は、物の振る舞いについての原理である限り、数学が「帰納的・演繹的である。」としても、数学は斉一性原理に対して独立しています。

数の概念は、物や物の振る舞いに依存していないということ。
数の概念は、実体が存在するかしないかによらず成立する。

しかし、物理法則は、論じるべき実体のみでは論じることができない。
数に依存した時空間を前提とし、その時空間上の座標と座標の関係があって始めて成立つ。

この両者の概念を比較すると、数の概念は独立であり、物理法則の概念は数に依存しているといえる。

さて、113の書き残しですが、δa1とδa2の比較が必要になりますが、これを数の概念無しで成立させなければ、斉一性が数に対して独立と言えないのです。
この両者はどのような状態でも構いませんが、いずれの状態でもどちらが大きいか小さいか判別不能となります。

数の概念とは、言い換えれば(帰納的・演繹的)論理構造に他なりません。
概念構造の仕組みから、物理法則はこの論理構造に依存しなければ、成立しないと言い切れます。

従来、物理法則と論理構造の概念の順序に無頓着であったため、斉一性原理と帰納法が無限連鎖する思考に陥っていましたが、ヴェーダ的に概念構造を解析すれば、この無限連鎖が勘違いであったことが結論付けられます。

両者の論理構造を数式に表してしまえば、証明完了となります。

最近の構造化プログラミングに使われるオブジェクト指向言語の、クラスと継承の関係で表せば、「物理法則クラスは論理構造クラスを継承している。」ということになる。
従って、物理法則クラスに属するメソッド斉一性原理は、論理構造クラスのメソッド帰納法を継承している。
逆に、物理法則クラスに属するメソッドから数一般の概念を除去したものを論理構造クラスに継承させても、継承したメソッドが全て役に立たない。
しかし、一つ大きな疑問が残る。

生物には斉一性原理があてはまらないですよね…
その体内で行われている化学反応等は、斉一性原理があてはまっているのに、
なぜ一個体の生物としてみると、全く自由気ままな振る舞いをしていますよね。

生物、とりわけ人間って存在は、いったいどれだけ特別なんだろうか…
ほたる@Free Earthさんへ

>斉一性もまた数学の構築に先立って是認される仮定だと思います。
>面白い考え方ですね。どんな運動も言葉である数学において斉一性が保障されるという訳ですか。

その運動が演繹的な数学モデルに表されることが「真」であるのならば、斉一性があるといっていいと思いますが、「真」かどうかはわかりません。


レイさんへ

>斉一性原理は、物の振る舞いについての原理である限り、数学が「帰納的・演繹的である。」
>としても、数学は斉一性原理に対して独立しています。


私の先の書き込み
「いえ、ある数学的振る舞いにおいて、「帰納的、演繹的である」という仮定を前提とするならば、斉一性もまた数学の構築に先立って是認される仮定だと思います。」

ここでは「斉一性」は一様(uniformity)であることを示しています。
たとえば自然数の公理を見てみましょう。
--------------------------------------
・自然数 0 が存在する。
・任意の自然数 a にはその後者 (successor)、suc(a) が存在する(suc(a) は a + 1 の "意味")。
・0 はいかなる自然数の後者でもない(0 より前の自然数は存在しない)。
・異なる自然数は異なる後者を持つ。つまり a ≠ b のとき suc(a) ≠ suc(b) となる。
・0 がある性質を満たし、a がある性質を満たせばその後者 suc(a) もその性質を満たすとき、すべての自然数はその性質を満たす。

最後の公理は、数学的帰納法を正当化するものである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%95%B0
---------------------------------------

0以外の数については演繹的に自然数が定義されていることを示しますが、演繹的に定義されているということは、uniformであると言えるかと思います。
>小阪淳さん

自然数は、おっしゃる通り、演繹的に『定義』されています。

しかし、斉一性原理は、「物の振る舞い」についての原理ですよね。
数学(又は数論)上の原理ではない。
そして、数学上の演繹法も帰納法も定義であり、これ以上細分化することができない。

また、量子個々の振る舞いについて、部分的には斉一ではない物理現象が起きていることで、微小空間では原理として成立しているとは言い難いため、みせかけ上の原理であることが示唆される。

数の概念からできるだけ切り離した状態(113のδa1・δa2等)では、物の振る舞いは必ずしも斉一である必要がないのです。
しかし、この状態の軌跡を多数集めた集合を論じる場合(数の概念により多くさらされた状態)には、数学上の定義に従わざるを得ないということになります。
数の概念と独立に物理現象が存在できると仮定すると、計測無しで比較検証ができなくては、概念として検証できないというのは、結論に過ぎません。
しかし、計測用に仮に数ではない数を仮定しても、この仮定した数が数に他ならないのは自明であり、
これ以上の論理展開が不能となってしまします。
さて、ではなぜ状態の軌跡を多数集めた集合が数に依存するかといえば、運動もまた数に依存した概念であるからに他なりません。
エネルギー・速度・力等、その計測表記に数が使われ、数なしでは、定義できないものであるためです。


113で、δa1δa2を持ってきたあと、仮想デジタル時空でも持ってこようかと思いましたが、私の言語能力では説明しきれませんでした。
脳みそオーバーヒートっす ><

しかたないのでオッカムの剃刀でスパッと…orz
レイさんへ。

>しかし、斉一性原理は、「物の振る舞い」についての原理ですよね。
>数学(又は数論)上の原理ではない。

先に書いた「斉一性」(一様性)は数学的なものです。ややこしいので、今後自然科学の対象に仮定される斉一性を「自然の斉一性」と書きます。

ある事象が物理法則として数学的に表現され、演繹的に「自然の斉一性」を表しているからといって、その事象がが本当にその物理法則で表現されているかどうかはわからないので、その法則によって導かれる「自然の斉一性」をもつとは限らないということです。
>小阪淳さん

>>ある事象が物理法則として数学的に表現され、…

物理法則の前に数学がある。
上の文章の文法も、物理法則の前に数学的概念があるから成立つでしょ、無意識に認めてますよね。
このように、物理法則と数学を別の概念(クラス)として認識できなければ、理解できません。

数学の斉一性は、再帰アルゴリズムに則った演繹である。
自然の斉一性は、物理法則(クラス)として数学(クラス)を継承しているため、数学の斉一性に依存している。
すなわち、数学の斉一性を出鱈目なものに置き換えると、これに依存している自然の斉一性も同じ出鱈目になるということです。

数学の公理系により時空座標系が定義され、物質はこの座標系により定義され、その運動も座標系により定義されるものである。
物や運動が先にあるのではなく、座標系が先にあることを注意してください。

物やその運動を数の概念から切り離したとき、その運動は斉一性を持つ必要がない。
量子単体の微小時間の運動がこれに該当する。

この現象の集合は、観測によれば帰納的に確率分布を表すのであるが、これが何故か解き明かせば、問題はほぼ解決である。

(量子が数値で表せる量を持っていること、その運動が座標系に対して借りを作ることなど考えていたら脳みそ熱くなり過ぎですわ、すいませんが少し休憩します。)

レイさんへ

>物理法則の前に数学がある。
>上の文章の文法も、物理法則の前に数学的概念があるから成立つでしょ、無意識に認めてますよね。


数学という抽象的な論理思考がなくても、自然の世界には「斉一性のある事象」が存在すると考えるのが自然科学的な宇宙の捉え方だと思います。

人間の知的活動である「数学」や「自然科学」の元になる「宇宙の秩序」は、人間が生まれる前から宇宙に存在していると考えるということです。

>小阪淳さん

数の概念がなければ、物が誕生しないことをいま立証しようとしています。
ここでは、概念を後付けの仮定と捉えているのではなく、実体として話をしています。
ヴェーダにおいて、「赤い箱」とは、「箱」の上に「赤」が在ると表現します。
「箱」という概念は、色を問わなければ単体で物として存在し得るが、「赤」は単体では物として存在できない概念です。
仮にこの宇宙の座標が、分化し四次元時空を形成していないとしたら、縦横高さも時間も当然質量もないものになるでしょう。
その状態は、絶対無と呼ぶにふさわしく、極小=極大、過去・現在・未来の別が無い状態になるはずです。
この絶対無を数値的に分化させ、空間座標軸及び時間軸というものが形成されなければ、体積も質量も時間による経年変化もありえないのです。
この様に、実体としての概念構造がなければ宇宙は、そもそも成立していないのです。
私の論理展開は、数値てきな目盛が先か、物理量が先かということに対して、数値的な目盛が先になければ、物理量はあり得ないという概念構造を解こうとしています。
ヴェーダ的に言い換えれば、「空間の概念が先になければ、物は存在できない。」ということになります。


「有」という概念がなければ、物は存在しない。
そして、「有」の一番基本となる概念は、一個の「無」があるということ。
次にこの「無」は、「正」と「負」に無限に分かつことができる。
その個数は自然数となる。
無限に分けた物の一つを基準「1」と定義することで、この基準との対比から実数が導ける。
この無から空間座標、時間座標を分化させることで時空が作られる。
物が誕生するのは、この後になるということです。
レイさんへ。

レイさんが「概念」と言っているものは
私は「宇宙の秩序」だと思います。
(ただ、実体という言葉は議論の余地があるので使いません。)

本来の概念という言葉は
「思考活動の基盤となる基本的な形態として頭の中でとらえたもの」
「事物の本質をとらえる思考の形式。」
なので、思考する主体がいなければなりませんが
「宇宙の秩序」は人間がいようがいまいが、あると仮定してもいいし、自然科学ではあることが前提となります。

時間があるのも空間があるのも論理的思考が可能なのも
「宇宙の秩序」があるからだと、とりあえず仮定します。

補足です。
ここでいう「秩序」というのは「でたらめではない」という意味です。
「規則性」といってもいいと思います。
>127 レイさん
>無から空間座標、時間座標を分化させることで時空が作られる。
>物が誕生するのは、この後になるということです。

 すると、「時空の歪み」というのは、物(質)が時空を歪ませているのではなく、時空が歪んだところに物(質)が誕生する、あるいは時空の歪み=物(質)と考えるわけでしょうか。
 ぼくは空間座標、時間座標というのは、運動の状態を把握するための(人間が考えた)ものさしであると考えていました。
なぜ、宇宙はでたらめではないのかというと、ひょっとすると「人間原理」的に説明されるものかもしれません。でたらめでなく、ある(人間が生まれるのに都合のいい)秩序があるから人間が生まれて、今、自分たちを生んだ秩序を理解する(ように見える)知性によって宇宙を知ろうとしてる....かも。
ようやく人間原理にもどりました。

私たちの知性では全くでたらめに見える秩序だってあるかもしれませんね。
>小阪淳さん

宇宙の秩序と呼び名をつけても構いませんが、この秩序にも構造があるということを話しているつもりなのです。
数について考察しても、まず「1」が存在していなければ「2」は存在しない。
まず「1」というものを定義して、この「1」にもう一つ「1」を重ねたものを「2」とすることで、「2」が誕生する。
「1」と「2」は同時に誕生したのではないということ。
また、数の概念は人間が作り出したというより、元々あった物を発見したという方が正しいでしょう。
そして、数の概念は、物や運動の前に存在しなければ、「1」が先になければ「2」が存在できないのと同様に、物や運動自体が存在できないのです。

言い換えれば、数学上の定理は、人間が定義したというより、先に存在していたものを発見したともいえます。

>131
私達が普段慣れ親しんでいる数学の公理系では、0を正負に分けたところからスタートしていますが、これを3つに分けていけないこともないと思いますよ。
ただし、この系の一次元座標系は「0」を起点にして120°で3分割されることになり、この系の自然数1から自然数2を引いたものは、残りの座標のベクトルとして表されることになるでしょう。
一見複雑そうですが、私達の系の数学がそのまま使えるはずです。
(三次元空間も0を6個に分割したともいえるかもしれない。)

>>私たちの知性では全くでたらめに見える秩序だってあるかもしれませんね。

たしかに、無いとは言い切れませんよね。
人間自体、かなりでたらめな存在だと思いますし。


>yopisoundさん
小阪さんの本にも詳しく書かれていますが、「何もないところでは光が伝搬できないから無ではない。」ということです。
広義では物(実体がない物。場。)ととらえた方がよさそうです。
レイさんへ。
物理法則が数学的に表現されたとしても、その表現が正しいかどうかはわかりません。
さらに私たちが今知る数学によって宇宙をモデル化しきれるかどうかもわかりません。
レイさんへ。

>たしかに、無いとは言い切れませんよね。

でたらめがあるのであれば、世界は帰納的に表しきれないと思います。
>小阪淳さん

数の概念がなければ、物の概念が成立できないってことは、物の在り様は数に依存する。
つまり、常に正しくなるということです。
そして、今知る数学によって宇宙をモデル化しきれないとしても、新しい数学をみつけ、今の数学と整合性を持たせることはできる。
しかし、不完全性定理が示唆するように、必ず矛盾となり得る可能性、「未知」が残る。

>136
生物とか知能について、その内部で起きている現象は斉一性を持っているのに、個体として見たときには必ずしも斉一性を持っているとは言い切れないですよね。
人工知能の研究とかも行われているようですが、これが可能であるとすると知能も関数により表現できることとなります。
すると、自分も関数なのかという疑問が、…
レイさんへ。
>つまり、常に正しくなるということです。

なぜ常に正しくなるのか分りませんでした。
>小阪淳さん

文字を書くことを例にしますと、

紙に鉛筆で文字を書いた場合には、文字が表現できるが、紙の無い空間に文字を書いても、文字が表現されません。
この紙に相当するのが数の概念であり、鉛筆で書いた文字が物の概念となります。
レイさんへ。
対話が平行線をたどっているのは、両者が使っている言葉の意味が違うことが原因ではないかと思います。具体的には
 ・概念
 ・数
の意味が、レイさんと私とでは明らかに違います。

私は「概念」を
--------------------------
「事物の本質をとらえる思考の形式。事物の本質的な特徴とそれらの連関が概念の内容(内包)。概念は同一本質をもつ一定範囲の事物(外延)に適用されるから一般性をもつ。」
ーー岩波書店広辞苑第五版
--------------------------
のような意味でとらえています。もちろん普段それほど明確な定義を意識しているわけではなく、ほぼ上記のような意味でとらえているということです。つまり「概念」とは「事物の本質的な特徴とそれらの連関」を「とらえる思考」活動を前提とします。ですから知性(人間)がなければ概念もありません。

また「数」ですが
-------------------------
「数量を表すために用いられる抽象的な概念」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0
-------------------------
と認識しています。「数」も上記のように「概念」ですから、知性(人間)がなければ「数」という概念もありません。

では「概念」や「数」が表す「事物の本質的な特徴とそれらの連関」はなぜあるのかというと、私は「宇宙の秩序」がある(ように見える)からだと思っています。(「宇宙の秩序」というのは私の造語ですが、もっと適した用語があるかもしれません。)
もしも世界が全く出鱈目ならば、私たちが今持っているような概念は何一つ生まれなかっただろうからです。

まずここまでが、私の「概念」や「数」の認識です。
私の定義する「概念」や「数」を概念(コ)、数(コ)と表現します。

///////////////

ここでレイさんのいままでの書き込みから、レイさんにとっての「概念」や「数」の意味を推測してみます。
レイさんにとっての「概念」や「数」を概念(レ)、数(レ)とすると

・概念(レ)=概念(コ)+「その概念が指そうとする宇宙の秩序」

・数(レ)=数(コ)+「数が指そうとする宇宙の秩序」

なのではないかと思います。
そしてこれはレイさんが、

概念(コ)はまさしく「その概念が表す宇宙の秩序」であり、数(コ)はまさしく「数が表す宇宙の秩序」である。

と考えられているのではないかと推測します。
概念(コ)=「その概念が表す宇宙の秩序」であるとお考えだからこそ、無条件に
・概念(レ)=概念(コ)+「その概念が指そうとする宇宙の秩序」
だと思われているのだと思います。

lここまでが私の推測に基づくレイさんの言葉の定義です。
////////////////


私の、概念(レ)および数(レ)に対する推測があっているならば
私とレイさんとの違いは明らかです。

私は概念(コ)は必ずしも「その概念が指そうとする宇宙の秩序」を正しく指すとは限らず、
同様に、数(コ)は必ずしも「数が指そうとする宇宙の秩序」を正しく表すとは限らないと考えます。
その疑いは「有」「無」「0」「1」「2」といった、極めて基本的な概念にさえ向けられます。

なぜなら、それらが「正しい」という認識は、私たちの経験にしか基づいていないからです。
私のいう「宇宙の秩序」は、カント的にいえば「物自体」に近いと思います。カントなんて読んだことありませんが。

物自体:経験そのものを批判した際、経験の背後にあり、経験を成立させるために必要な条件として要請したもの
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%87%AA%E4%BD%93

>小阪淳さん

132にも書きましたけど、「宇宙の秩序」と呼んでいただいて構いませんが、その秩序にも構造があるということです。

私達の宇宙には、数学的な秩序が先にあり、物はこの秩序に従う。

たしかに、この宇宙と全く違う秩序があってもよいと思いますが、幸か不幸かこの宇宙はこんな仕組みになっています。
最初に古代インドのヴェーダの思考方法とことわりを入れていると思いますが、ヴェーダでも古代中国の名家思想でも、概念的な物を実体と捉え、その根本の構造がどうなっているかを考えていました。
そして、この世界が成立するため一番最初に必要な概念は、「有」であるとどちらも結論しています。
「一つの無が有る。」状態です。

物とは何ぞや?と問うたとき、
「空間上に体積を持ち、質量のあるモノ。」
と表現できます。
最近は超ひも理論とかいう仮説が支持されつつありますが、ここでも、
「余剰次元が折りたたまれた10次元のひもが振動しているモノ。」
と表現されています。
我々が物を認識するために、数が必ず必要になってきます。
これは、まず数が在り、その規則に従うモノが物として成立できることを示しています。

今の数学がなぜ斉一性を持っているか、それはわかりません。
「1」が先に存在しなければ「2」は無い。
これは人間が決めたことというより、人間が発見したというべきでしょう。
しかし、宇宙の秩序を考えた時、物理法則としての斉一性原理は、物が成立する以前に数がなければ、そもそも物が成立できないから、当然の帰結であるということです。

しかし、おもしろいもので、この宇宙にも物理法則としての斉一性原理が通用しない場面がある。
先にも例示した量子単体の微小時間の動きや、生物の営みなど、他にもあるかもしれませんね。

「物自体」
これおもしろそう(笑)
「人間原理はどうした!」とお叱りを受けそうですが、脱線したいっす。
たぶんレイさんと私とでは、概念、数に限らず、多くの言葉の意味が違うのだと思います。
言葉の意味の違いによるすれ違いもあると思いますが、議論の内容はとても面白く、レイさんのアプローチも、小阪さんの考え方もそれぞれ深くて、読ませていただくだけでとても勉強になります。
yopisoundさんへ
ご興味があれば、以下のあたりをざくっと読んでみるとおもしろいかと思います。

認識論

 認識論で扱われる問いには次のようなものがある。
 ・人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか。
 ・人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか。
 ・ある考え方が正しいかどうかを確かめる方法があるか。
 ・人間にとって不可知の領域はあるか。あるとしたら、どのような形で存在するのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E8%AD%98%E8%AB%96


存在論(形而上学)

存在論(そんざいろん、独: Ontologie)は、哲学のひとつの部門で、さまざまに存在するもの(存在者)の個別の性質を問うのではなく、存在者を存在させる存在なるものの意味や根本規定について取り組むものである。
(中略)
このカントの批判哲学によって、ショーペンハウアーが「『純粋理性批判』は存在論を分析知論に変えてしまった」と指摘したように、哲学の中心は認識論に置かれることになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%AB%96
あと、これも大事です。

懐疑主義
基本的原理・認識に対して、その普遍性・客観性を吟味し、根拠のないあらゆるドクサ(独断)を排除しようとする主義である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%96%91%E4%B8%BB%E7%BE%A9
連投すみません。
懐疑主義のページに自然の斉一性の記述があったので、転載します。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%96%91%E4%B8%BB%E7%BE%A9
ヒュームの考えによれば、観察と経験から因果関係が帰納によって正当化されるということはありえない。なぜなら、帰納の根拠となる自然の斉一性の原理は実際に観察も経験もされず、論証されることもないからである。かくして、ヒュームの徹底された経験主義は、次のような結論に至る。

「このようにして、理性によっては原因と結果の究極的な結合を見出し得ないだけではなく、さらに経験がそれらの恒常的な相伴を知らせたあとでさえも、なぜわれわれはその経験をすでに観察された個々の実例以上に拡げるのかという点について、理性によっては納得が得られないのである。したがって、心が一つの対象の観念もしくは印象から、他の対象の観念もしくは信念へと移るときに、心は理性によって規定されるのではなく、想像においてこれらの対象の観念を連合し、結び合わせるようなある原理によって規定されるのである。」

– ヒューム『人性論』第1編3部6節, 大槻春彦訳『世界の名著27 ロック ヒューム〔第3版〕』中央公論社、昭和45年、p.438.
>yopisoundさん

「言葉には本来、意味が無い。」
言語学者さん達は、こういうことに気付いたみたいです。
私と小阪氏との間のやりとりも、これが原因のようです。
同じ語句でも、私と小阪氏は、全く違った人生経験を積んでいますので、よく似た意味に使っていても、その本質を突き詰めれば、ちょっと違っています。
自分がその言葉にどんな意味を乗せて伝えたいか、一番ローレベルの所で言葉の本質的意味が違うから、説明するためには色々なことを話さなくては伝わりませんでした。
不思議なんだけど、「伝わってない。」ってこれだけは確かな手応えがありました(笑)

そして、伝えるためには、小阪氏の「なぜ?」に真剣に向き合わないといけないので、自分自身の持ってるモノ(持ってないモノも)をフル活用しなきゃいけなかったので、私自身がとっても楽しかったです。
小阪氏に感謝です。


>小阪淳さん

たしかに、本質的な所でかなり違ってましたね。
私の場合は、中国の古典思想とか古代インドの哲学体系とかに魅かれたことがあったので、そういう見方をしてしまう癖があります。
レイさんへ・

>たしかに、本質的な所でかなり違ってましたね。

そうですね。哲学が言葉に厳密になるのも無理はないです。
ピントがずれてるかもしれませんし、斉一性を理解できてないかもしれませんが、まちがいがあればどなたかのご指摘でただしく理解していきたいなあと思います。

人間にとっての外界の未来を観測に基づいて予見することを考えた場合、斉一性や確率の原理が予見の根拠となるということでしょうか。

言葉のあやに過ぎないかもしれませんが・・・外界という視点に立てば、宇宙は外側で、地球の内部は内側ですかね。内と外の境界はさまざまで、人間とその内、外や、分子の内、外、原子の内、外、クオークやレプトンの内、外、といった具合に様々です。これらの内外で成り立つ様々な因果関係のすべてが一つの理論で解決されるかどうか、またこれらを斉一性原理で延長して統一できることなのかどうか・・・

斉一性原理(例えば慣性の法則)は相対論の基礎となっているように思います。一方で確率的現象は量子論の基礎となっているのに対し、アインシュタインはサイコロを振らなかったようなので、相対論と量子論の隔たりは大きいですよね。

波動方程式は慣性の法則も含んでいるのだろうか。つまり、量子論は斉一性と確率の両方の考え方が混ざっているのかどうか。宇宙は微視的世界よりもっともっと観測が進んでゆくことが予想できますから相対論が重要なのは明かです。同時に、規格化しうる確率現象や統計熱力学もまた重要であると思います。
>ゼロスさん

広義では確率的現象も斉一性原理に含まれます。
確率を現す方程式が存在することを以て、斉一性があるといえるでしょう。
確率的な事象について、一つひとつの事象を取り出して見た場合には、各事象の示す値は必ずしも同じではありませんが、十分な試行回数を経れば、その値の平均が期待値に収束します。
同じ方程式に基づく確率的事象は、何度試行しても同じ期待値に収束します。

波動関数は、「無限次元複素ヒルベルト空間内のベクトル。」と表現されますね。
三次元空間のベクトルとは多少感覚が違いますが、ベクトルを現すものに過ぎません。
我々の四次元時空に現れる様子が確率的であるだけで、連続したベクトルを扱っています。

相対性理論の場合、その系は、光速一定という条件を完備するようにユークリッド系をローレンツ変換した慣性系を考察していますが、量子論は無限次元複素ヒルベルト空間というものの考察なので、この統一は難しそうですね。
考察対象の次元を比較してみると、

「無限次元複素ヒルベルト空間」の次元>「ミンホフスキー空間」の次元

実部だけ比較しても、圧倒的に量子論の考察対象の方が次元が多く、さらに虚部の次元まで加わっている。
しかも相対性理論では、重力の影響で空間座標が曲線となっているものを扱う。
いずれ統一は可能であろうと思いますが、難作業になるでしょうね。
レイさん、

お応えありがとうございます。わたしは斉一性原理がなんであるかよくわかってないんですが、斉一性という言葉のイメージで以下のような解釈をしてしまっています。

>広義では確率的現象も斉一性原理に含まれます。

時間的順序が不明確な確率の原理が、順序についてシリアルな(?)あるいは因果関係が常に明確である斉一性原理を含むとして考えるとなると、量子論と相対論の統一と似たように困難な事態になりそうです。斉一性原理という言葉から明快に直感される質点の慣性運動は。確率の原理をどう処理すれば説明できるんでしょうかね。

>確率を現す方程式が存在することを以て、斉一性があるといえるでしょう。

ほんとに「広義」な解釈ですね。わたしとしては斉一性とはなんであるかもよくわからないまま、判断のしようもないですが、この考えを受け入れても、すくなくとも新しい理論の構築には役立たないでしょう。しかし、常識の枠内で安心するためには非常に有益であると思います。斉一性によってすべてが決まっているということになりますからね。
ゼロスさんへ。
あまねく斉一性を持つ世界は、決定論的だと思います。
小阪淳さんへ

なるほど、そうでしたか。少し理解が進みました。ありがとうございます。みなさんのいろんな視点のご議論が楽しみですね。

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