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曾野綾子(曽野綾子)コミュのこの人に助けられて

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 わたくし自身は50代なんですが、皆様の中には若い方々も多くいらしゃるようで、ひどく嬉しいです。
 
 わたくしの年代の女性の中にはこの作家が嫌いな人も散見され、その人に聞いてみた感じではどうも彼女の正論とか反フェミニズム感覚を独りよがりに解釈して嫌っているようです。

 曽野の作品自体を読み込んでその結果キライだというのは自由なんですが、それ以前の感覚からものを言っているようで、どうも話がそれ以上いきませんで、困ることがあります。

 私自身はこの人が深く好きです。

 人生の真の意味での実践的ヒントとさえ思われる力を受けとることが本当に多いです。

 巷のカウンセリングなどには行かず彼女の著書を幾度紐解いたことか。

 今回もある必要があって『夫婦、この不思議な関係』を聖イグナチオ教会図書室から借りました。
 で、奥付を見たら、1985年第一刷発行となっていました。もちろん、初版当時に読んでいるわけですが、20年を経て今それを読んでいます。

 染み入りかたが違います。

 契約というこの国には馴染みの薄い感覚を通してみる夫婦の形は20年前とはまた違ったことを雄弁に語ってくれているのです。

 どうぞ、よろしく。

 

コメント(33)

曽野さんは、著書も多いのですが、誰でも読んだことがある、少なくともストーリーを知っている、というような有名な作品(小説)はあまりないですよね。

どちらかというと、社会的なことを論じたエッセイやコラムですとか、日本財団での会長職(もう辞任されましたが)とか、政府審議会委員としての発言などを見ての印象で評価をされている方が多いのかも知れません。

どちらかというと左寄りな政治姿勢を持つ団体が目立つカトリックのなかで、保守、あるいは右寄りと見られているであろうことも、反発される一因なのかも。
こんにちは。

 それこそ、たった今、その、曽野綾子に関して論じていた最新のカトリック新聞をテープに読んで戻ってきたところ。
 
 アメリカ・ブッシュを支えるリリジャス・ライトじゃぁありませんが、カトリック右派・左派もろもろ入り乱れる中で、
真に、人間の立場からの論争に耐えることは、神への畏れと人間の弱さということへの徹底した謙(へりくだ)りが求められると強く思っております。
 
 曽野への批判の対象となっている『諸君』9月号を読んでいないので、一方からの見解は避けたいゆえに、読んでからまた書きます。

 ただ、曽野がご自分でも云っている通り、小説のテーマとして、彼女が追究したいのは、 人間の「悪」ということ。

 わたくしの場合もその観点からの彼女への関心から入ったような気がします。

 清らかさを標榜するには人はあまりに弱く壊れやすい。

 であるからこそ、その彼方遥かに在ると思われる存在への憧れを焦がれる、少なくともわたくしはそうです。

 
 こんばんは。今朝方の書き込みではご挨拶できず、大変失礼しました。

> 曽野への批判の対象となっている『諸君』9月号

 “一人の国民として、一人のキリスト者として 靖國に参ります”

 というものですね。現在10月号がすでに店頭に出ているので、9月号の入手は書店での取り寄せ、または図書館での閲覧、ということになるでしょうか。なかなか図書館には置いていない雑誌ですが。
こんにちは。私も曾野さんが好きです。

もともとは古本屋で手に取った、
「誰のために愛するか」がとても気に入りました。
結婚して10年ですが、納得し実践したいと思うことが多々ありました。

小説はほとんど読んではいませんが、
新聞のコラムなどを拝見し、
深い思索と冷静な判断で誤解を恐れずご自身の見解を
展開されるところが潔くて好きです。
突然根拠もなく思ったこと。

 曽野が嫌われる理由に、潔く凛々しく率直で、ある意味捨て身ってところがあることかしらって・・・・・!!

 で、彼女の描く小説ではそれらと正反対像を造型しているんだけど、彼女のキャラゆえなかなかそうは読み込まれないってところがあるという、世間的枠からは空回りの感があるのかも、と。

 わたくしは田辺聖子なんかも別な意味で大好きなんだけれど、その田辺が書いていた。言葉は違うけど、曽野の主人公はどうもお利口さん、だっていう意味のことを。

 ある意味そうかも知れない。

 濡れ場を描くわけでもないし・・・

 が、わたくしには他の誰でもに描けないところの人間のある側面を現している、と、確信できることろが、また、曽野に惹かれるところであると。。。

 
はじめまして。
実は私も『誰のために愛するか』を古本屋で偶然見つけて読んだのがきっかけです。ただし、見つけた古本屋はタイのバンコクです。5年ほど前で値段は30バーツ(約90円)でした。

それ以来、機会があれば古本屋に行き、曽野さんの本を探しました。これまでに読んだ本は全部で17冊ですが、そのうち新品は1冊だけです。後はすべてバンコクの古本屋で買いました。外国の古本屋にもこれだけ曽野さんの本があるのです。それだけ多くの方に読まれているのだなあと思いました。

曽野さんの本を読み、「大人になる」ことの素晴らしさと必要性を考えさせられました。
 曽野が書いている。
 
 「人間をすてきにするものは何であろうか、と私は時々考える。
 一つには彼、または彼女に危機感が漂っている時であろうか」

 この曽野の指摘は結局<大変的を得ている>と、最近とみに思わせられているところだ。

 <危機感>を漂わせているならば、その<危機管理>が施策されかつ実行されなければならないだろう。

 すると、その人はどうしても独りよがりになっているわけにはいかなくなる。

 危機管理というのは基本的に他の意思とのバランス関係であるから、常に外部との疎通がなされている必要が生ずる。

 そこには多面的な視点が動員されなければならないし、つまり想像力がものを言うわけだ。

 正義は一つしかない、などと思っているととんだしっぺ返しを喰らう。

 例えば、カソリックでは離婚は認められていないが、そう硬いことを言っていたら、実際息が詰まって生きてはいけないから、逃げ場があるものである。

 また、同時にカソリックでは堕胎は禁じられているが、やはりそう言っても実際問題として現実的ではないからこれも逃げ場がある。

 という風に、契約が原理を十分識って、その上で曽野は作品を書いている。

 『天上の青』なら殺人者を死刑にしているし、『神の汚れた手』なら堕胎医師を描いている。

 人間の二律背反を描くのが彼女の得意技みたいだし、また、彼女自身『悪』を描く作家でありたい、と言ってもいる。

 わたくしも曽野には甚大なる影響をもらった一人だが、そのなかでも、自分で極めつけだと思っているし、それが自分の窮地を救っても来たし、これからも確実に救うであろうことは
「何か一つを心から得たいと思ったら、それに対して犠牲を払い、代価を払うというのが、人生の原則だ」というものであった。

 


 
西島"aitea"わたるIII  さん。お久しぶり。

なんと、8月発売の9月号、11月の本日やっと、図書館にて謁見叶いました。

>>曽野への批判の対象となっている『諸君』9月号

 “一人の国民として、一人のキリスト者として 靖國に参ります”

 はい、一応、読みました。

 これについては、「批判の対象」に対する「批判」をゆっくりとさせて頂きたく思っております。

 後日よろしくね。

 
はじめまして。

曽野綾子、好きです。
ここ3年ほど、「活字を読むこと」から遠ざかっていましたが。

人は皆、暗い罪の中から一筋の光を見上げている。
自分が穢れているからこそ、明るい美しい方向へ顔を向け、
そこへ行きたいと願っている。
上手く言えませんが、そんな感じでしょうか。

批判を受けても、彼女が畏れているのは「神」だけ、その潔さも憧れます。
初期の作品より、中年過ぎてからのものが好きです。
彼女を一言で表せば、【覚悟の据わった人】かな。

『戒老録』は特に私に影響を与えた本
その中の、『老いは状態であって、資格ではない』という意味の言葉に出会って頭をガツン!です

最初は30になって直ぐの頃読んで、「ふむふむ・・こうなりたいものだ」と思い

40代の後半に病気をして、「今こそ自分の性根が試される」と奮い立ち

その後、再発や別口で入退院を繰り返しながらも
この言葉の『老い』を『病気』に置き換えて日々暮らしてます。
『病気は状態であって、資格ではない』
 「この人に助けられて」を立ち上げて最後に書いたのが、見たら昨年11月20日になっていた。
 随分とここにはご無沙汰なわけだ。
 
 私自身の日記には「日記」とも「エセイ」ともつかぬものを毎日のように、ある人またある人に当てた私信・公信(!?)のような感覚で書いている。

 それにしても正直わたくしはこの人に方向を示されたものだ、と今でもはっきりそう思える。

 姿も大柄、声もアルト、態度も一見大きそう(!)、書くことも一見恐れしらずの畏れ知り(!)・・・が、この人ほど
弱さを知り、無知を知り、憐れみに焦がれ、喜びを願った人もいまい。

 この人こそ善の影なる「悪」を著きたいと、それを実践している作家も数少ない。

 「天上の青」が、「神の汚れた手」が、「この哀しみの世に」が・・・・すれっからしの悪を超えた向こうを見ている作家である。

 そして、この人によってわたくしはカソリックになった、と云っても過言ではない。霊的な代母である。

 未だに、いつでも新しく『誰のために愛するか』を自由に紐解いている至らないわたくしである。
はじめまして。
私も中学生の時に「太郎物語」から入りました。
下村湖人の「次郎物語」を国語の授業で読んでいまして、似たものかな。。。と手に取ったのが出会いです。
以来曽野綾子にはまってます。
短編やエッセイもいいですよね。
cha-ki さん。

>このコミュニティであがる作品を参考に次の一冊を決めよう かと思います^^v

 とおっしゃられると、責任重大ですね(笑い)。

 独断と偏見で申し上げることをお赦し願うならば、基本は彼女の年代順に、というスタンスをお勧め致します。
 
 と、申して、彼女の著作は膨大です。ですから、基本のこの遣り方に新しいエセイ等をミックスなさるのがベターかな、っと感じます。

 あと、図書館や古本屋で手に入れるのがよいと思います。

 内容に拘ることは、むしろ不可能だし、彼女のものであれば
もうそれだけで、どれを採っても、人間が語り出されておりますから。

 で、どうぞ、若いあなたの思いをぜひ聴かせてください。
かといって、学校での課題図書とかの意識じゃぁありませんよ(笑い)。

 ありがとう。

 わたくしも、なんだかんだの本の間に彼女のものを取り出しては織り交ぜて読み直しております。
はじめまして。
はじめての出会いは「天上の青」でした。
若いときはわからなかったけれど、最近になって
彼女のことばから、さまざまな生きる智恵を授かっています。

実は昨日、書店でエッセイを購入しました。
「善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか」。
線を引きながら、何度も何度もことばを反芻しながら、読んでいます。作品からの引用によって、彼女の哲学がまっすぐに伝わってきます。
はじめまして

月曜日の産経新聞「透明な歳月の光」が好きです。

辛口のコメント、とても心地よくて。

漫画家のよしりんさんも、時々影口をたたきますが、
それはある程度評価している、からだと思います。
> kuppe さん。

  『善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか』救心録
 は、正確には本人によるエセイとは違い、編集者による
 アンソロジー(正確には彼女の過去本からの抜粋)であり
 ますが、この手の本にもいろいろ効用があるようです。

  今、わたくしは丁度この本の録音図書作りを依頼されて
 いて、読んでいるところです。

  うん。箴言集のように、このまんま鵜呑みにしてフレッシ ュに読んで飲み込めるところと、元著書に当たればよりよく
 納得のゆくというのと両方あるようです。

  ま、わたくしにとっては忘れていた彼女の過去の本をまた
 手に取らせてくれるいい機会になるのです。

 また、校正をかけている間にも感想を綴りますね。


  まっ、どっちにせよ、人のこころの真実がそう数十年で
 変わるというものではありません、と思ったことで、安心
 しました。
  自分が充分成熟しているとはまったく思わないが、
 が、常日頃感じているところを記すならば、曽野の本の
 タイトル『善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか』
 の「善人」とは言えば、=「幼児性」でもあろうか、と。

  わたくしは、かつて身近な人間に『疑惑』ということの
 重大性について教えられえたが、これを芯から納得した
 生きかたを貫き通すのは、曽野も言うとおり、なかなかに
 して、「勇気」というものを必要とする、と思う。

  人間に対して「不信」なる思いを抱くなどあっては
 いけないと思いこそすれ、「疑え」と、積極的に奨励
 されるなんて大抵の人は思いもつかないだろう。

  曽野を好むか、毛嫌いするかのポイントは以外とこの辺
 の人間認識にあると思っているのである。
初めまして、遥香と申します。
曾野綾子さんの文章は新潮45で拝見しました。
実に痛快で、読んでいてとても清々しました。

やはり平和ボケにはアレくらいの毒舌がちょうどいいですね♪
はじめまして。

私の曽野さんとの出会いは41年前の高校1年生の時です。
「誰のために愛するか」がブレークした頃です。
タイトルに引かれ読みました。その直ぐ後、学校近くの公開堂で曽野さんの講演会があり、生まれて初めて男子と一番前の席で美しい彼女を眺めていました。その彼とはそれ一回のお付き合いでしたが、2年前再開し、その講演会の話をしましたら、話の内容はともかくよく覚えていてくださり、嬉しかったです。

その後24歳で母を亡くし生きていく術に困った時、母ほどの女性はどうアドバイスをしてくれるのか、、、と考えた時、常に曽野さんがイメージとしてありました。良きアドバイスを受け続けてこられたと思います。

彼女の作品は小説が好きですね。
昨今出版されている金言集(?)も目を通しますが、やはりそのお言葉の出典は
過去に読んだ小説のいたるところにエッセンスとして散りばめられていると思います。
2010[平成22]年度の放送であるらしいが、曽野綾子さんが、ある深夜のラジオ番組にご出演の際、何か当方を念頭に置いたご発言であるそうだが、「為せば成るゥ〜(反語法)…成りません!!」とご発言されたことがあったらしい。

さて、ご著書を拝読すると、これは当方を念頭に置いた発言ではない、一般的な小説やエッセイという意味合いでのご発言であると思われるが、「…体力のない人、高齢の人は、早逝して当然」という趣旨のご文章が目に留まりました。確かに、生命力の脆弱な生存に不都合な要素がある人というのはいらっしゃいますし、そのような人は「早逝する確率」から言えば、丈夫な人、世の中を渡っていく能力に長けた人より「早逝する確率が高い」と言えるでしょう。

しかし、冒頭の番組の件での当方を念頭に置いたらしいご発言に関して聴くところによれば、「進路の面で身の程知らずの我が儘が通らない、しかも、長期間に亘って無為に過ごした結果、社会的な義務を果たしていない」という認識を基に、そのことに対して一喝を加えたという内容であったようです。

詳しいことは個人情報に抵触しますので、ここでは表沙汰にすることは出来ませんが、当方の家系というものは、代々にわたって身体の弱い家系で、戦前の話をいたしますと徴兵検査も丙(=兵隊には向かない)で、奥さんの実家に頼ってなんとか家を維持してきたという話も聞きます。…
…そのような系譜の上に載っている存在である当方に関しては、業種・職種に関しても慎重に選んで、社会人になった後の生活が公私共に成り立ち得るように、それこそ「丈夫な人、世渡りの上手い人」など生存に適する要素を多く持った人よりも慎重に検討して渡世しなければなりません。このことに関して、曽野さんのご著書の中で、「…バキューム・カーの運転でもトラックの運転でも何をしても食べて行くことが出来る…」という趣旨の内容も述べられておりましたが、その「何でもして金を稼ぐということが出来る」というご認識は、それこそ「丈夫な人」しかほとんどの場合、出来ない、可能ではないことであって、子供の頃よりたびたび病院通いをしなければならないような状態に陥った当方にとっては、それ自体甘いご認識と言わざる得ず、そのような事に手出しをすること自体‟危ない橋を渡る”ことでしかありません。お言葉の意味を拝借いたしまして述べますと「早逝して当然な生存に不都合な要素を持った人」でさえ好き好んでこの世に生まれてきたわけではなく、工夫しつつ、その都度適切な手段を講じながら生きていかなければならないのです。

さらに、この件は、曽野さんのラジオ番組での放送内容とは直接の関係はないと思われますが、前述の‟バキューム・カー”云々というご著書の中の記述と曽野さんのラジオ番組の放送がある前に、それと同じ放送局の某テレビ番組において、曽野綾子さんご自身は出演されておりませんでしたが、「…貧乏人のクセに上品ぶりやがって」という内容の含みを持たせた番組が放送されたことがあったそうです。そのような観点から曽野さんのご著書にあった‟バキューム・カー”云々というくだりを検討すると、「…そのような身の程知らずの進路など、貧乏人であるお前らにはド贅沢だ」という意味合いもラジオ番組での発言内容にある‟ある種の嫌味な含み”として読み取ることが可能であるかと思われてなりません。

いずれに致しましても、この深夜のラジオ番組でのご発言の一件に関しましては、もし当方が事後に耳にしたご発言の解釈が事実であると致しましたら、‟見当違い”であることもよいところで、何世代にも亘って我が身を維持することに苦心惨憺かつ苦労の方が多く幸せ薄い人生を送ってきた当方に対して、余りにも軽率なご発言であると言うほかはございません。
あれからかなりの月日が経ちますが、いまだに当時の放送内容に関連して、当方を誤解していらっしゃる様子の世間の皆さまが存在いたしますため、筆を執らせていただきました。
………書き残したことがございました。‟バキューム・カー”云々のご著書での記述に加えて、この件も、直接に当方に向けてお書きになったものではないと考えるほうが一般的な受け取り方であると思われますが、大韓民国の外交姿勢になぞらえて、他人の非をあげつらった上で謝罪を促して、外交における果実を奪取するという在り方が、当方のことについても含まれるのかどうかはっきりとは分かりかねますが、曽野さんのおっしゃられる一部の‟卑怯な人”の渡世の態度と共通するものがあり、人倫に悖る態度であるというご指摘がございました。きちんとした教育・躾をお受けになり、それ相応の経済力もあるお家柄にお生まれになった方から判断されるならば、その通りであると言わざるを得ません。しかし、教育や躾・云々の前に、子女にそれだけのことをする経済力も相続財産もなく、お金を稼いで経済力をつけようにも、代々きちんとした社会的な身分・立場もなく、私生活に世間の目が入り、プライバシー上の事柄が渡世のハンデとなる状態では、稼ごうにも稼ぎようがございません。糊口を凌ぐのみで精一杯な状態でございます。その点に関して、曽野さんのおっしゃられるように、「謝らせてせしめよう(という国が…)」等というご発言などを浴びせかけられますと、ただでさえ脆弱な世間での立場がますます切り崩され生存を確保することすら困難な状況に陥ってしまいます。安易にこのような言葉遣いはしない方が善いと判断いたしますが、もしこのような身分・立場の者が存在するということなどをご存じで故意にご発言されたのであれば、‟差別発言”としか言いようがありません。日本国民であるためには、日本国籍であるばかりでなく、相応の経済力と社会的身分、体制内における社会的立場が確立されていることが必須不可欠であることを痛感した曽野さんのご著書でのご発言でございました。そのようなものを持たない国民は人間扱いされないということが間接的に示された記述であると読むことが可能かと思われました。
2010[平成22]年度の放送であるらしいが、曽野綾子さんが、ある深夜のラジオ番組にご出演の際、何か当方を念頭に置いたご発言であるそうだが、「為せば成るゥ〜(反語法)…成りません!!」とご発言されたことがあったらしい。

さて、ご著書を拝読すると、これは当方を念頭に置いた発言ではない、一般的な小説やエッセイという意味合いでのご発言であると思われるが、「…体力のない人、高齢の人は、早逝して当然」という趣旨のご文章が目に留まりました。確かに、生命力の脆弱な生存に不都合な要素がある人というのはいらっしゃいますし、そのような人は「早逝する確率」から言えば、丈夫な人、世の中を渡っていく能力に長けた人より「早逝する確率が高い」と言えるでしょう。

しかし、冒頭の番組の件での当方を念頭に置いたらしいご発言に関して聴くところによれば、「進路の面で身の程知らずの我が儘が通らない、しかも、長期間に亘って無為に過ごした結果、社会的な義務を果たしていない」という認識を基に、そのことに対して一喝を加えたという内容であったようです。

詳しいことは個人情報に抵触しますので、ここでは表沙汰にすることは出来ませんが、当方の家系というものは、代々にわたって身体の弱い家系で、戦前の話をいたしますと徴兵検査も丙(=兵隊には向かない)で、奥さんの実家に頼ってなんとか家を維持してきたという話も聞きます。…
…そのような系譜の上に載っている存在である当方に関しては、業種・職種に関しても慎重に選んで、社会人になった後の生活が公私共に成り立ち得るように、それこそ「丈夫な人、世渡りの上手い人」など生存に適する要素を多く持った人よりも慎重に検討して渡世しなければなりません。このことに関して、曽野さんのご著書の中で、「…バキューム・カーの運転でもトラックの運転でも何をしても食べて行くことが出来る…」という趣旨の内容も述べられておりましたが、その「何でもして金を稼ぐということが出来る」というご認識は、それこそ「丈夫な人」しかほとんどの場合、出来ない、可能ではないことであって、子供の頃よりたびたび病院通いをしなければならないような状態に陥った当方にとっては、それ自体甘いご認識と言わざる得ず、そのような事に手出しをすること自体‟危ない橋を渡る”ことでしかありません。お言葉の意味を拝借いたしまして述べますと「早逝して当然な生存に不都合な要素を持った人」でさえ好き好んでこの世に生まれてきたわけではなく、工夫しつつ、その都度適切な手段を講じながら生きていかなければならないのです。

さらに、この件は、曽野さんのラジオ番組での放送内容とは直接の関係はないと思われますが、前述の‟バキューム・カー”云々というご著書の中の記述と曽野さんのラジオ番組の放送がある前に、それと同じ放送局の某テレビ番組において、曽野綾子さんご自身は出演されておりませんでしたが、「…貧乏人のクセに上品ぶりやがって」という内容の含みを持たせた番組が放送されたことがあったそうです。そのような観点から曽野さんのご著書にあった‟バキューム・カー”云々というくだりを検討すると、「…そのような身の程知らずの進路など、貧乏人であるお前らにはド贅沢だ」という意味合いもラジオ番組での発言内容にある‟ある種の嫌味な含み”として読み取ることが可能であるかと思われてなりません。

いずれに致しましても、この深夜のラジオ番組でのご発言の一件に関しましては、もし当方が事後に耳にしたご発言の解釈が事実であると致しましたら、‟見当違い”であることもよいところで、何世代にも亘って我が身を維持することに苦心惨憺かつ苦労の方が多く幸せ薄い人生を送ってきた当方に対して、余りにも軽率なご発言であると言うほかはございません。
あれからかなりの月日が経ちますが、いまだに当時の放送内容に関連して、当方を誤解していらっしゃる様子の世間の皆さまが存在いたしますため、筆を執らせていただきました。
………書き残したことがございました。‟バキューム・カー”云々のご著書での記述に加えて、この件も、直接に当方に向けてお書きになったものではないと考えるほうが一般的な受け取り方であると思われますが、大韓民国の外交姿勢になぞらえて、他人の非をあげつらった上で謝罪を促して、外交における果実を奪取するという在り方が、当方のことについても含まれるのかどうかはっきりとは分かりかねますが、曽野さんのおっしゃられる一部の‟卑怯な人”の渡世の態度と共通するものがあり、人倫に悖る態度であるというご指摘がございました。きちんとした教育・躾をお受けになり、それ相応の経済力もあるお家柄にお生まれになった方から判断されるならば、その通りであると言わざるを得ません。しかし、教育や躾・云々の前に、子女にそれだけのことをする経済力も相続財産もなく、お金を稼いで経済力をつけようにも、代々きちんとした社会的な身分・立場もなく、私生活に世間の目が入り、プライバシー上の事柄が渡世のハンデとなる状態では、稼ごうにも稼ぎようがございません。糊口を凌ぐのみで精一杯な状態でございます。その点に関して、曽野さんのおっしゃられるように、「謝らせてせしめよう(という国が…)」等というご発言などを浴びせかけられますと、ただでさえ脆弱な世間での立場がますます切り崩され生存を確保することすら困難な状況に陥ってしまいます。安易にこのような言葉遣いはしない方が善いと判断いたしますが、もしこのような身分・立場の者が存在するということなどをご存じで故意にご発言されたのであれば、‟差別発言”としか言いようがありません。日本国民であるためには、日本国籍であるばかりでなく、相応の経済力と社会的身分、体制内における社会的立場が確立されていることが必須不可欠であることを痛感した曽野さんのご著書でのご発言でございました。そのようなものを持たない国民は人間扱いされないということが間接的に示された記述であると読むことが可能かと思われました。
2010[平成22]年度の放送であるらしいが、曽野綾子さんが、ある深夜のラジオ番組にご出演の際、何か当方を念頭に置いたご発言であるそうだが、「為せば成るゥ〜(反語法)…成りません!!」とご発言されたことがあったらしい。

さて、ご著書を拝読すると、これは当方を念頭に置いた発言ではない、一般的な小説やエッセイという意味合いでのご発言であると思われるが、「…体力のない人、高齢の人は、早逝して当然」という趣旨のご文章が目に留まりました。確かに、生命力の脆弱な生存に不都合な要素がある人というのはいらっしゃいますし、そのような人は「早逝する確率」から言えば、丈夫な人、世の中を渡っていく能力に長けた人より「早逝する確率が高い」と言えるでしょう。

しかし、冒頭の番組の件での当方を念頭に置いたらしいご発言に関して聴くところによれば、「進路の面で身の程知らずの我が儘が通らない、しかも、長期間に亘って無為に過ごした結果、社会的な義務を果たしていない」という認識を基に、そのことに対して一喝を加えたという内容であったようです。

詳しいことは個人情報に抵触しますので、ここでは表沙汰にすることは出来ませんが、当方の家系というものは、代々にわたって身体の弱い家系で、戦前の話をいたしますと徴兵検査も丙(=兵隊には向かない)で、奥さんの実家に頼ってなんとか家を維持してきたという話も聞きます。…
…そのような系譜の上に載っている存在である当方に関しては、業種・職種に関しても慎重に選んで、社会人になった後の生活が公私共に成り立ち得るように、それこそ「丈夫な人、世渡りの上手い人」など生存に適する要素を多く持った人よりも慎重に検討して渡世しなければなりません。このことに関して、曽野さんのご著書の中で、「…バキューム・カーの運転でもトラックの運転でも何をしても食べて行くことが出来る…」という趣旨の内容も述べられておりましたが、その「何でもして金を稼ぐということが出来る」というご認識は、それこそ「丈夫な人」しかほとんどの場合、出来ない、可能ではないことであって、子供の頃よりたびたび病院通いをしなければならないような状態に陥った当方にとっては、それ自体甘いご認識と言わざる得ず、そのような事に手出しをすること自体‟危ない橋を渡る”ことでしかありません。お言葉の意味を拝借いたしまして述べますと「早逝して当然な生存に不都合な要素を持った人」でさえ好き好んでこの世に生まれてきたわけではなく、工夫しつつ、その都度適切な手段を講じながら生きていかなければならないのです。

さらに、この件は、曽野さんのラジオ番組での放送内容とは直接の関係はないと思われますが、前述の‟バキューム・カー”云々というご著書の中の記述と曽野さんのラジオ番組の放送がある前に、それと同じ放送局の某テレビ番組において、曽野綾子さんご自身は出演されておりませんでしたが、「…貧乏人のクセに上品ぶりやがって」という内容の含みを持たせた番組が放送されたことがあったそうです。そのような観点から曽野さんのご著書にあった‟バキューム・カー”云々というくだりを検討すると、「…そのような身の程知らずの進路など、貧乏人であるお前らにはド贅沢だ」という意味合いもラジオ番組での発言内容にある‟ある種の嫌味な含み”として読み取ることが可能であるかと思われてなりません。

いずれに致しましても、この深夜のラジオ番組でのご発言の一件に関しましては、もし当方が事後に耳にしたご発言の解釈が事実であると致しましたら、‟見当違い”であることもよいところで、何世代にも亘って我が身を維持することに苦心惨憺かつ苦労の方が多く幸せ薄い人生を送ってきた当方に対して、余りにも軽率なご発言であると言うほかはございません。
あれからかなりの月日が経ちますが、いまだに当時の放送内容に関連して、当方を誤解していらっしゃる様子の世間の皆さまが存在いたしますため、筆を執らせていただきました。
………書き残したことがございました。‟バキューム・カー”云々のご著書での記述に加えて、この件も、直接に当方に向けてお書きになったものではないと考えるほうが一般的な受け取り方であると思われますが、大韓民国の外交姿勢になぞらえて、他人の非をあげつらった上で謝罪を促して、外交における果実を奪取するという在り方が、当方のことについても含まれるのかどうかはっきりとは分かりかねますが、曽野さんのおっしゃられる一部の‟卑怯な人”の渡世の態度と共通するものがあり、人倫に悖る態度であるというご指摘がございました。きちんとした教育・躾をお受けになり、それ相応の経済力もあるお家柄にお生まれになった方から判断されるならば、その通りであると言わざるを得ません。しかし、教育や躾・云々の前に、子女にそれだけのことをする経済力も相続財産もなく、お金を稼いで経済力をつけようにも、代々きちんとした社会的な身分・立場もなく、私生活に世間の目が入り、プライバシー上の事柄が渡世のハンデとなる状態では、稼ごうにも稼ぎようがございません。糊口を凌ぐのみで精一杯な状態でございます。その点に関して、曽野さんのおっしゃられるように、「謝らせてせしめよう(という国が…)」等というご発言などを浴びせかけられますと、ただでさえ脆弱な世間での立場がますます切り崩され生存を確保することすら困難な状況に陥ってしまいます。安易にこのような言葉遣いはしない方が善いと判断いたしますが、もしこのような身分・立場の者が存在するということなどをご存じで故意にご発言されたのであれば、‟差別発言”としか言いようがありません。日本国民であるためには、日本国籍であるばかりでなく、相応の経済力と社会的身分、体制内における社会的立場が確立されていることが必須不可欠であることを痛感した曽野さんのご著書でのご発言でございました。そのようなものを持たない国民は人間扱いされないということが間接的に示された記述であると読むことが可能かと思われました。

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