ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

spɐɯou ʇsol 考える旅人 コミュの愛や調和や許しに疑問を感じる doubt in love, harmony, and permission 

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 
愛についてなら何なりと。
 
  愛情
     結婚
        家族
     博愛
  恋愛
 
今や過去の書きこみについて感想や意見などもお気軽に。
 
愛って何なんですか?
 
 
〔ヒトは自然で文明を拓いて欲を晴らしてきたけれど、速まる欲とか速まる文明で苦や渇きも増してった、まるで依存症みたいに。 (N)
自然からくる苦、それに文明からくる苦を、恐がって宗教って形の願い (崇拝とか神とか救いとか) が創られてった。 (O)
たくさんの宗教からそれぞれの <愛や調和や許し> も出てきたし、別のとこからも創られた。 (P)
質も量も速まってく欲とか、質も量も速まってく文明は、苦とか宗教とか <愛や調和や許し> をも巻きこんで、どんどん入り乱れてく ..。 (Q)
 
漂流してたヒトを歌いながら陸へ運ぶイルカ、妻のために死ぬオオカミ。 (ex.2) (R)
自己とかヒトとか生き物とか物とか自然とか世界とか抽象とか、たとえどれへ向かおうと、自分って生き物の欲に応えて、ただ <願う> だけの感情や行動 ..なら、それらしいといえる愛かも。 (S)
耽る愛とか広い愛とか苦しめる愛とか、それらは速まりが増すことで入り乱れる。 (T)
 
ただ ..それにしても。
速まる欲とか、入り乱れに歪んだとかのヒトやヒトビトが、ただの願い <以上> (追加) の <愛や調和や許し> を頼る、ときだけは疑問に感じる。 (U)
理由 ; 願いのための願いじゃなくなってしまってる。 (V)
こうした疑問は解答 (ex.2) よりもずっと多い。 (一肯定派としても。) (W)
愛というのは一番、溺愛されてきた / きてる概念なのだろう。 (X)
 
愛とは実体のない、 (しかも一方的で) ほのかな希望のような何かであり、(しかも保障としては) 何の力の根源にもなりえない。 (Y)
 
<愛や調和や許し> には疑問を感じる。 (Z)
 

(トピック作成時 2007/01/21 の冒頭文は、長文なため以下のコメントへ転載しました。
 
comment=55,57
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14481626 )
 
all you need is love http://youtube.com/watch?v=7EykGRC_anM
 
about love http://youtube.com/watch?v=KIgVMUi4oK4
 

guidepost: 子ども問題 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=17829800
 
guidepost: 精神 心理 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25676640

コメント(225)

> ぴゅうたさん

[183]>「誰がいかなるものにどんな感想を抱こうが」が前提なら、「個人的な被害妄想である場合」でなければならない理由はなかろう?

被害妄想の場合を問題にすると否定されるから、その問題そのものを考えなくていいように言い逃れをしているだけ。

「誰がいかなるものにどんな感想を抱こうが」だから「個人的な被害妄想である場合」にも当てはまらなければならない。
当てはまらないなら「誰が〜」は間違い。

>何が正しかろうが、その正しさが人々の支持の証明にはならない。

正しさについての論証が正しいなら、それは正しいと証明される。
人々が支持すると云う事の論証が正しければ、それは人々に支持されると証明される。
もし現実にそうならなければ論証が間違っている。
正しさの証明には正しさの論証、支持の証明には支持の論証が必要。

正しさが証明されれば支持される事の証明になる筈と考えるのは非論理的な思考。


[184]>どうして辞書に反していてはいけないのですか?
その理由を説明してください。

辞書に反する勝手に造った意味で人に噛みつくのがいけない。
勝手に造った意味を根拠に横レスで批判してきている自覚が欠落している。


[185]>そこで戦っているのは私ではない。
自分の普通こそが、広く一般に通じる普通であると主張する人達が、戦っているのである。

それがぴゅうたさんの頭の中だけの妄想。
そんな人達のコメントなどここに存在していない。

>本当にあなたの言う普通が広く一般に通じるかどうか、実証してみせろよ。

あからさまな被害妄想を被害妄想だと理解する理性を共有する人達。あからさまな非論理的な人格者意外の一般的な人達に共有する事が出来る認識・理解。
それは普通と云う言葉の意味に整合する普通の認識・理解だと言える。

こういった論証が間違いで、論証では根拠にならず実証が必要である事を実証してみればいい。


ぴゅうたさんが本当に論理性や理性や知性を大事にするなら間違いを指摘されたらそれを認めねばならない。
根拠の無さを指摘されても根拠が無いと認められないようでは、相手にする価値が無い。


こうやって指摘された事のどれか一つでも逃げずにはっきりさせないと。
ぴゅうたさんに出来る事と言えば印象操作と、無駄にいろいろな事を並べ立てて相手の失言を待つだけ。

どれでもいい、先ずはどれか一つをはっきりさせよう。
> シマ(千のプラトー)さん

>被害妄想の場合を問題にすると否定されるから、その問題そのものを考えなくていいように言い逃れをしているだけ。

例えば、1〜100まで数字を割り振った部屋を好きに選んでよいとする。
それで、みんなが99の部屋だけを選んだらどうするんだ、とイチャモンをつけられた。
前提が1〜100まで好きな数字を割り振った部屋を選んでよいのなら、他の番号の部屋を選べばよいだけの話しだし、前提が99の部屋だけを選んだ場合を聞くのなら、それは好きな部屋を選んでよいという前提の下にない。

質問そのものがおかしい事に早く気付け。


>人々が支持すると云う事の論証が正しければ、それは人々に支持されると証明される。

してないから。
全く、人々が支持するという証明をしていないから。
それに元々、そんな証明は不可能である。
何回も言うように、それが出来たら、統計なんて何の意味も持たなくなるから。

君には分からないかもしれないけれども、人々には自由な意思があるの。
だから、「人々が支持する」という事を証明するには、実証以外の方法は存在しない。

でなければ、選挙だって存在しない。


>正しさが証明されれば支持される事の証明になる筈と考えるのは非論理的な思考。


これ私のセリフだよね?
君が勝手に、正しさが証明できればいい、とか言い始めたから、私がそれは証明にならないと言っているのだ。


>辞書に反する勝手に造った意味で人に噛みつくのがいけない。

ちょちょちょ、君は自分が何を質問されているのか分かっていないのか?
今君に質問されているのは、あなたの採用した普通の意味において、あなたの意見の普通さの証明が求められているんだぜ?

私が普通に対してどんな意味を作ろうが、関係ない話だ。


>勝手に造った意味を根拠に横レスで批判してきている自覚が欠落している。

何でそう横レスにこだわるの?
前に書いたじゃん。
こういった公の場で書くという事は、誰かから意見が飛んでくる事を了承しているという事。
誰にも口を挿まれたくないなら、壁に向かってつぶやいてな。
誰もそれに対して口挿まないから。


>それがぴゅうたさんの頭の中だけの妄想。
>そんな人達のコメントなどここに存在していない。

本当に読解力がないな。
もう一遍読み直せ。


>あからさまな被害妄想を被害妄想だと理解する理性を共有する人達。あからさまな非論理的な人格者意外の一般的な人達に共有する事が出来る認識・理解。
>それは普通と云う言葉の意味に整合する普通の認識・理解だと言える。

同じミスを何回繰り返せば気がすむんだ。
もう一度やり直し。


>こういった論証が間違いで、論証では根拠にならず実証が必要である事を実証してみればいい。

もうすんでる。
もう一遍読み直せ。
分からないなら何が分からないのか聞けと言ってるし、何回も繰り返して説明するほど、私は優しくない。


>ぴゅうたさんが本当に論理性や理性や知性を大事にするなら間違いを指摘されたらそれを認めねばならない。
>根拠の無さを指摘されても根拠が無いと認められないようでは、相手にする価値が無い。

根拠がないのはお前だろ。
根拠も証明も理論も、それが成り立っていない事をすでに書いているのに、同じ言葉を繰り返すばかり。
もう一遍最初から読み直しなさい。

相手にする価値がないと言って逃げるのか。
きっと君はいつもそうなのだろうな。
人の文章を読んでも小学生並みの読解力で中身が理解できず、同じ言葉を繰り返し繰り返し言って、最後に相手にする価値がないと言って逃げる。


あなたにできる事は、人の文章は読んでも理解は不能で、理論になっていない理論のようなものを書いて、これは正しいという事だけ。
これだけピンポイントにクリティカルに書かれているのに、「無駄に色々並べて」と言う時点で、もうあまりの読解力のなさに笑いが止まらない。

人々が支持する事を論証する?
ぜひその方法をまとめて学会にでも発表してくれ。
この世界が揺らぐわ(笑)

また後で、少し書くね。
> シマ(千のプラトー)さん

>あからさまな被害妄想を被害妄想だと理解する理性を共有する人達。あからさまな非論理的な人格者意外の一般的な人達に共有する事が出来る認識・理解。
>それは普通と云う言葉の意味に整合する普通の認識・理解だと言える。

「あからさまな被害妄想」これがまず存在できない。
人は100人いると、100通りの見かたがあると言う。
実際、警察などが目撃者に話を聞くと、その場で全員同じものを見ていても、言う事や内容はバラバラで、むしろ一致する人間を怪しむ。
現実に存在する物質でさえその捉え方が違うのに、「あからさまな被害妄想」だけが共通な捉え方として存在できるだけの根拠がない。

「あからさまな非論理的な人格者意外の一般的な人達に共有する事が出来る認識・理解。」
これ自体が論理性を持たない、文章にもなっていないものだが、書きかった事は分かる。

「非理論的な論理を持つ人以外の、一般的な人達に共有できる認識や理解」
といったニュアンスだろう。

でも書いておかねばならない事はある。
「論理的な人格」や「非論理的な人格」などというものは存在しない。
人格とは個人の心理面での特性のことである。
未だ論理は心理の論理性を構築できるほど発達していない。

つまり、そんな事を書くこと自体が、非論理的だ。

まず、あからさまとは修辞的表現で、単なる発言者の感想に過ぎない。
それに論理性はない。
私にとってシマ(千のプラトー)さんの論理性の破綻はあからさまに感じるが、それを共有しない人がいるからといって、どうという事もない。
論理性とは関係のない、単なる感情に過ぎないからだ。

あからさまであろうがなかろうが、誰もが論理性と非論理性を持ち合わせている。
つまり、一般的な人たちの定義が不明確である。

「一般的な人達に共有できる認識や理解」とあるが、被害妄想やそれをもった人に対して、その認識や理解には差があるのが当然で、共有しているものがなんであるのかをまず調査して、尚且つそれを共有するのが一般的な人達である事を証明しない限り、それは成り立たない。

つまり、徹頭徹尾、その論理性が成り立っているかどうかは不明で、この事から「それは普通と云う言葉の意味に整合する普通の認識・理解だと言える」と、結論付ける事は出来ない。

ましてや、それが人々が支持する事の論証にもならない。
そもそもまだ論理的ではないので、論証になるはずもなく、また、人々が支持するかどうかは、論理性では決められない。
言葉を借りるなら、それこそあからさまな妄想だろう。

論理は、人の心理や人の意見への支持を証明するほど、まだ発達していない。

では、まとめよう。

○あからさま
論理的でない。
単なる感想。

○あからさまな被害妄想(もしくは単なる被害妄想)
共有できる人達が存在するかどうかが証明できない。
できたとしても、それが多数派である事も証明できない。

○非論理的な人格
それ自体が非論理的。
理論は個人の心理をはかる事は出来ない。

○一般的な人たち
定義が不明。
論理性があるないは、一般人であるかどうかを決めない。

○一般的な人達に共有できる認識や理解
認識や理解に違いがない人たちはいない。
被害妄想に対して、それを認識する事に関してもそうだし、それへの理解も共有できているかどうかは、調査しない限りは誰にも分からない。

○それは普通と云う言葉の意味に整合する普通の認識・理解だと言える
それまでの展開が、論理性の欠片もないので、全く何の説明にもなっていない。
補足

どうも今までのお話しの流れで、どうも「それが被害妄想である」というのが前提であるらしい。
その場合、それを被害妄想だと理解できるかどうかは、クリアできる。
何故なら、現実はともかく、それは被害妄想であるとされているからだ。
しかしそうなると、それを被害妄想だと認識できる人が一般的な人だ、とは言えなくなってしまう。
前提が根拠になるためだ。
そこに論理性はない。

それに対して、「誰がいかなるものにどんな感想を抱こうが」が前提だと主張しているが、誰がいかなるものにどんな感想を抱いてもいいなら、状況を限定する事はできないし、したとしても、それが多くの人達の支持を得るかどうかの証明は元々不能。
もしそれができたら、誰がいかなるものにどんな感想を抱いてもいい、と言う前提を崩すから。
現実における「結果」(つまり実証)として、その事実が存在した場合、「そんな時もある」という事はできるが、いかんせん、当人は実証をしようとはしない。

故にどちらも成立しない。

補足のまとめ

○前提の問題
183を参照されたし。


こうやって何度も、論証そのものを突き崩されているのに、まだ同じ事を言っている。
そうやって「あからさまな被害妄想」とやらがどんなものか実演しているのかもしれないが、ハッキリ言って迷惑である。
別にあなたがどんな妄想を抱いているのかに、私は興味はないよ。

それから、「人々が支持すると云う事の論証」の正しさを証明してもらおうか。
「論理は現実を超えない」これは、論理における前提である。
いかに正しい論理も、現実が違うなら、その論理は間違っているという事だ。
その前提を破っていないだろうな?

論理は人間の心理を定義できるほど発達していない。
論理で未だに定義できない範疇を扱っていないだろうな?
> ぴゅうたさん

186で僕が言った>>こうやって指摘された事のどれか一つでも逃げずにはっきりさせないと。

>>どれでもいい、先ずはどれか一つをはっきりさせよう。


に対して結局何を選ぶ
一つづつちゃんとやるなら相手をしましょう。
あと、また話がループになるので書いておく。

万人が認める被害妄想など存在しない→被害妄想の場合だ→被害妄想が前提なら前提が根拠になるからだめだ→前提は「誰がいかなるものにどんな感想を抱こうが」だ→誰がいかなるものにどんな感想を抱いてもいいのが前提なら、被害妄想でなくてもいいはずだ→被害妄想の場合だ・・・。

突き崩される度に言い訳が飛び出すが、その場のイキオイで言うから、すぐまた突き崩される。
それでも自分の論証はなされていると言っては、話がループを繰り返す。


「誰がいかなるものにどんな感想を抱いてもいい」と言う中には、確かに被害妄想にあたるものも含まれる。
だが、それが他人と共通のものであるかどうかは定義できない。
制限がないからだ。

無限に広がる空間の中にある2つのボールは、ぶつかるかどうかは分からない。
ぶつかる時もあるだろうし、ぶつからない時だってあるだろう。
それは、そのボールもまた無限に存在しても同じである。
無限個あるボールの一つ一つに対して、無限の空間を割り振る事だってできるからだ。

つまり、その中に「あからさまにぶつかるボール」(あからさまな被害妄想)というのを定義できない。
故に、あからさまにぶつかるボール(あからさまな被害妄想)を認識できる人がいるとは確定せず、定義自体が間違っていると言える。

しかし逆に、「あからさまにぶつかるボールはある」というのを前提にする事はできる。
誰もぶつからないとは言えないからだ。
しかし今度は、それを認識するから一般的な人、と定義する事ができない。
前提を根拠にするのは論理とは言えないし、何故ボールがぶつかると(被害妄想の概念を共有できると)一般的な人なのか、その理由が明確ではない。

あからさまにぶつかるボールがあるとするなら、それが認識できるのは、単にそれを知っている人だ。
それを知っているから一般人というのは、論理が飛躍しすぎている。
その根拠がないからである。

論理性など存在してない故、論証と認められないし、よしんばボールがぶつかる事を論証したとしても、それが人々が支持する事を証明しない。
何故なら、いくら論理でぶつかる事が証明されても、それが事実として現実に起きるかどうかまでは、論理は保障しないから。
それは、論理は事実によって保障されても、事実は論理によって保障されるとは限らない(論理は現実を超えない)からである。


いくらうわごとを繰り返しても、論理性のないものは論証とは認められない。
もう、あなたの言っていることが論理的でもなければ、論証にもなっていない事を説明するのは何回目だろうか?
その度に話をずらしては、また何事もなかったかのように同じ事を繰り返して、自分は十分な論証を示していると言う。


そう言えば、こんな事も言っていたな。
>こういった論証が間違いで、論証では根拠にならず実証が必要である事を実証してみればいい。

間違いである事は証明したよな。
私は「誰がいかなるものにどんな感想を抱いてもいい」としていて、それは法的にも認められている。
そして、君の論証が間違いであると思った。
私は私の感想を抱いた。
私にとっての実証は、これで終了である。
キチンと、最初から言っている私の主張に沿った実証である。

そして、論理は現実を超えないと、論理によって人々の支持のあるなしを決める事はできないと、これもまた、論理的に間違いを証明したよな。
その上で、私は、あなたの「普通とは広く一般に通じること」という主張に沿って、実証を求めている。
これも実に論理的な帰結だよな。

論理性を持ち、実証までしたぞ。
あなたは、自分の主張に沿って、実証をしたまえ。
> シマ(千のプラトー)さん

>に対して結局何を選ぶ
>一つづつちゃんとやるなら相手をしましょう。

これ、188と189よりも後に書かれているんだよね?
188、189は、一つの事についてしか書かれていないよね?
それすら読み取る事ができないの?

ねえ、188と189を読んで、いくつのテーマについて書かれていると思ったの?
個数と、その要素をそれぞれ答えてみて。


187でたくさんレスしてるから?
読み直せという事に対して、どういう回答をするつもりなの?
読書感想文でも提出するつもりだったの?
別にその必要はないです。
読み直したところで、今までの傾向から言って劇的な改善がみられるとは欠片も思っていないから安心して。
何回も同じ事を書く事がめんどくさかっただけだから。
今更、あなたの読解力でつまり戦いとは何を指していたかなんて、分かるとは思ってないから。

188、189、191で、一つの事にしぼっています。
相変わらず、レスがすでに書かれてから、そのレスを求めるのですね。
書かれたレスを読んで、なお、そのレスを求める様な読解力で、一体書かれていることの何が分かるのか、実に不安ですが、また適当な事を言って話題を変えない事を祈るのみです。
> ぴゅうたさん

では、「個人的な被害妄想の場合」についてを選んだ、と云う事でいいですね
まず、その問題の整理。

僕を批判する根拠を聞いたらぴゅうたさんは[117]で

>誰がいかなるものにどんな感想を抱こうが、それが普通でないという証明が出来ないから。

と答えた。

それに対し僕は反論をして、個人的な(あからさまな)被害妄想による感想の場合、それが普通ではないと証明できるだろう。
と言った。

でもぴゅうたさんはその反論に対し、あからさまな被害妄想の場合を根拠として考える事は出来ないとし、否定した。

別に「被害妄想」など存在しない、と主張するのではなく、共有される認識としての被害妄想など無いと云う事。

それに対する僕の反論としては、全く関係ないコメントが自分を攻撃してくる侵略者だと見なすような感想を挙げて、それが被害妄想だと云う認識は共有する事が出来ると論証した。

ぴゅうたさんはそれに対しては、全く関係ないコメントに対する被害妄想と云うものは単なる前提であり、前提から論証してもダメで、実証が無いと根拠にならないとした。


で、ここから。

論証が正しければ実証は要らない。
論証が正しく、実証も正しければ、それらは同じ結果を証明している。
証明と結果が違えば、論証であれ実証であれ証明の方が間違っている。
よってどちらかでなければならない事は無い。

それなのに論証はダメで実証でなければならない、とするなら、論証がダメで実証でなければならなと実証してみればいい。

と言ったでしょ。

>191 私は「誰がいかなるものにどんな感想を抱いてもいい」としていて、それは法的にも認められている。
そして、君の論証が間違いであると思った。
私は私の感想を抱いた。
私にとっての実証は、これで終了である。

そういうのを論証と云う。語っているのは論理でしょ?
実証と云うのは実際に存在する証拠で証明する事。
実証の「証拠」って論理の事ではないからね。論理による証明なら論証。

実際の現物である証拠など無いのに
>私にとっての実証は、これで終了である。
と言ってしまえる。
実証と云う言葉の使い方が不適切な事はともかく、少なくともそれで証明したと思えている。
結局、論証で充分だと云う事です。

そして、あからさまな被害妄想の場合から論証すると[117]の
>誰がいかなるものに〜

と云う根拠は間違いだと言える。
> シマ(千のプラトー)さん

>それに対する僕の反論としては、全く関係ないコメントが自分を攻撃してくる侵略者だと見なすような感想を挙げて、それが被害妄想だと云う認識は共有する事が出来ると論証した。

何故それができるのかが、説明されていない。
あなたが認識した事が、何故共有されると分かるのか。

「私の認識」=「多数の人によって共有」=「一般人」
あなたの公式はこうだ。
しかし、何故、シマ(千のプラトー)さんの認識が多数の人に共有されるのか、それがどうして一般人と称する人達になるのか、その理由は一切書いていない。

全く論理的でなく、論証になってない。


>論証が正しければ実証は要らない。

何回同じミスを繰り返せば気が済む?
「論理は現実を超えない」
論証が正しくても、実証しなくていい事にはならない。

いくら論理が正しくても、全く実験をしていない薬が認められる事はない。
いくら論理が正しくても、選挙なしに国会議員は選出されない。
いくら論理が正しくても、実証のないものは事実ではない。

人には散々、勝手な意味を作るなと言いながら、なに勝手なルールを作ってるんだ?


>証明と結果が違えば、論証であれ実証であれ証明の方が間違っている。

?????????
じっ‐しょう 【実証】

[名](スル)
1 確実な証拠。確証。「―のない仮説」
2 確かな証拠をもって証明すること。事実によって明らかにすること。「推理の正しさを―する」
3 漢方で、病状の一。邪気の亢進(こうしん)した状態。水毒・食毒・血毒などが体内に停滞することにより引き起こされる。→虚証

出典:小学館 この辞書の凡例を見る

○確実な証拠。確証。
○確かな証拠をもって証明すること。
○事実によって明らかにすること。

実証が間違いってなに?
間違ってたら、それは実証じゃないんだけど?
書く時にはさ、言葉の意味ぐらいは把握しておこうよ。

実証が間違いって事はありえない。
事実によって明らかにした事が間違いって、どんだけ現実を拒んでんだよ。


>それなのに論証はダメで実証でなければならない、とするなら、論証がダメで実証でなければならなと実証してみればいい。

実証云々以前に、論理そのものが間違っている。

×論証が正しければ実証は要らない。
○論証が正しく、実証も正しければ、それらは同じ結果を証明している。
×証明と結果が違えば、論証であれ実証であれ証明の方が間違っている。
×よってどちらかでなければならない事は無い。

本当は、「論証が正しく、実証も正しければ、それらは同じ結果を証明している」は△ぐらいにしておきたいが、まあ、意を汲み取ってあげて、ギリギリ○にしておいた。
実証に間違いはない。
間違っていたら、それは実証ではないから。
だから、○を貰うためには、「論証を実証によってその正しさを証明すれば、それは事実としてよい」ですね。

だから、「俺ルール」はダメなんだって。


>そういうのを論証と云う。語っているのは論理でしょ?
>実証と云うのは実際に存在する証拠で証明する事。
>実証の「証拠」って論理の事ではないからね。論理による証明なら論証。

「私は「誰がいかなるものにどんな感想を抱いてもいい」としていて、それは法的にも認められている」
事実です。
あなたは知らなかったかもしれないけど、思想の自由が日本では法によって認められています。

「そして、君の論証が間違いであると思った」
事実です。
そう思いました。

「私は私の感想を抱いた」
事実です。
そう思いました。

論理?
あなた論理と現実の区別がついてないよ?
思想の自由が法で認められているのも、私がああ発言し、そう思った事も、全て事実。

どうしたら事実でないと思うわけ?
私はこう書いている以上、そう思っている事は確実じゃん。
事実でないと言うのなら、日本では思想の自由が認められていないこと、私はああ発言しなかったこと、私がそう思わなかった事をそれぞれ証明しなきゃいけないけど、できるの?


>実証と云う言葉の使い方が不適切な事はともかく、少なくともそれで証明したと思えている。
>結局、論証で充分だと云う事です。

え?
何で私がそう思えてたら、あなたがそれで十分なわけ?
まずそれが大きな疑問だね。

そして、実証が間違うとか、論証が正しければ実証は要らないだとか、実証と云う言葉の使い方が不適切なのは確実にあなたでしょ。
私は事実に基づいて話しているのに、あなたは自分勝手に作り出した「俺ルール」に基づいて話している。

いくらあなたが「俺ルール」を作っても、現実はそれに沿ってはくれないわけ。

ハイ、やり直し。
> シマ(千のプラトー)さん

あのさ、急いでレスしなくていいよ。
人のレスを読まずに急いでレスするくらいなら、遅くても読んでからレスしようよ。

ここはレスの速さを競う場所じゃないんだからさ。

あまりにもレスした直後に、そのレスを求め過ぎじゃない?
読んでいない証拠じゃん。
いや、読んでいても、何が書いてあるのか理解できないのかもしれないけど。

例えば、191とか本当にちゃんと読んだ?
例まで出して、「誰がいかなるものにどんな感想を抱いてもいい」と言う中には、確かに被害妄想にあたるものも含まれるが、それが他人と共通のものであるかどうかは定義できないし、ましてやそれが認識できるからといって、それが一般人である根拠もない、という事を書いている。

なのにそれにも対するレスが、こうである。

>それに対する僕の反論としては、全く関係ないコメントが自分を攻撃してくる侵略者だと見なすような感想を挙げて、それが被害妄想だと云う認識は共有する事が出来ると論証した。

それが論証になっていない事をすでに説明しているのに、そのすぐ後に、全く何の改善も工夫も認められない形のまま掲載している。
つまりは読んでいないか、それが何を言わんとしているのか、全く理解できていないという事だ。

「論証が正しければ実証は要らない」という事に関しても、もう何回「論理は現実を超えない」と言っただろうか?
実証とは、確かな証拠をもって証明すること、つまり、実証が要らないという事は、確かな証拠を持って証明する必要はない、と言っているという事だ。

まあ、確かに、あなたは「俺ルール」で片付けたいから、実証は邪魔なだけなんだろうけど、「俺ルール」で何とかなるのは、壁に向かってつぶやいているときまでだ。
人と人の間では通用しない。

もう少し、私が一体どんなレスをしているのか、そこには何が書いてあるのか、それをちょっとは読み取る努力が欲しいものだ。
これだけ何回も何回も「読解力がない」と言われて何とも思わないのか?

間違いでも何回も繰り返して主張すれば間違いでなくなる、なんて事もない。
間違いは何回繰り返したって、間違いのままだ。

少しは読み取りの訓練をせよ。
不慣れなら、時間がかかっても待ってあげるから、読んで理解してから、レスをせよ。
> ぴゅうたさん

「実証」と云う言葉の意味を勘違いしているようだけど、実証と云うのは実際に目の前で起こった事実や物的証拠によって証明する事。
科学ではよく実験で実証する。実験のない論理は論証。でも実験する技術が無かっただけで、論証の正しさが後に実証される事もよく有るようです。

実証に必要な証拠として論理(計算も)がどこまで認められるか判断は難しいけど、どちらにしても論理を証拠とするならそれは論証でもある。

ぴゅうたさんの言葉の使いようを見ると、実証とは現実に基づいた論理による証明で、論証とは現実に基づかない論理による証明と云う風に受け取れます。

それらはどちらとも論証であって、論証とは異なるものとしての実証などではない。

>いくら論理が正しくても、実証のないものは事実ではない。
>実証が間違いって事はありえない。

とか。

例えばアインシュタインの相対性理論。
実証が困難な理論だけど、相対性理論による論証が正しければ太陽が星の近くに有る時と無い時とで、その星の位置が異なって観測される。つまり、どちらかの場合の観測が実際の星の位置を示していない(それは太陽が近くに有る方)と云う事になる。
実証されるまではその論証が事実なのかどうか解らなかった。論理的には正しかったので、もしそれが本当なら実証されなくてもその論証の結果は実際にそうある現実であった。

1919年、5月29日。南半球で日食が起こる日、太陽の光が遮られた時に昼間でも太陽の近くに有る星を観測する事が出来る為、イギリスの天文学者エディントンとクロンメリンはそれぞれに観測隊を率いてアフリカのギニアとブラジルへ向かった。
この観測の結果、太陽が近くに有る時と無い時とでは、同じ星でありながらその位置が「アインシュタインの予測通りに」違っていた為、アインシュタインの論証の結果は現実だったと認められた。

ちなみにこれは太陽の強い重力により光が曲がる為。

日時や固有名詞を出しているので、疑うならググって調べて下さい。

実証されていた筈の星の位置には、実際のその星は無かった。
よってその事が証明されるまでの星の位置の実証は間違いだったと言える。

そういう事も有るのだよ。

>だから、「俺ルール」はダメなんだって。

ホントにそう思います。自己流の意味で言葉を使うのはやめて貰いたいものです。
論証は充分に根拠になる。
客観的事実は大事ですよ。
> ぴゅうたさん

196に書いたような訳で実証の無い「あからさまな被害妄想の場合」は根拠にならないとする考えは、間違っていると云える。

その事は認められましたか



[195]>これだけ何回も何回も「読解力がない」と言われて何とも思わないのか?

そんな事しか言えないんだろうなー、とは思っています。
大きなお世話だろうけど、下手に人を攻撃するような不必要な発言は言えば言うほど損をするよ。ウッシッシ

「あっ、ほんまですね。それ考えていませんでした、勘違いでした。」
と言えないばかりに、悪戯に背負いこんで。

と、言いつつ、容赦する気は全く無い。
> シマ(千のプラトー)さん

>「実証」と云う言葉の意味を勘違いしているようだけど、実証と云うのは実際に目の前で起こった事実や物的証拠によって証明する事。

勘違いしているのはあなたでしょ。
いつから「目の前」なんて言葉が入るようになったの?

じっ‐しょう 【実証】

[名](スル)
1 確実な証拠。確証。「―のない仮説」
2 確かな証拠をもって証明すること。事実によって明らかにすること。「推理の正しさを―する」
3 漢方で、病状の一。邪気の亢進(こうしん)した状態。水毒・食毒・血毒などが体内に停滞することにより引き起こされる。→虚証


>科学ではよく実験で実証する。実験のない論理は論証。でも実験する技術が無かっただけで、論証の正しさが後に実証される事もよく有るようです。

だからなに?
実証するまで、どんなに論証が正しく見えても、それは科学的事実として認められない。

それは何度も言うように、「論理は現実を超えない」からだ。
一切の実証なしの論証のみで、科学的事実とされているものはない。
実証されて後に、それが科学的事実として捉えられるだけ。

だからどう言い訳しても「論証が正しければ実証は要らない」は間違いなわけ。


>ぴゅうたさんの言葉の使いようを見ると、実証とは現実に基づいた論理による証明で、論証とは現実に基づかない論理による証明と云う風に受け取れます。

それは単に、あなたに読解力がないから。
私の実証についての説明を読んだろ?
全て事実だ。
論理的なのは、元々論理とは現実に従属するものだからだ。

事実? 思想の自由が日本では法によって認められています
事実? 私は君の論証が間違いであると思ったし、事実間違いです
事実? 私は私の感想を抱いた(私の普通の定義による)

これは全て現実の事象です。
あなたがどう思おうとです。

そして、「論証とは現実に基づかない論理による証明と云う風に受け取れ」るのは、あなたの言っていることが、現実に基づいていないからです。

>あからさまな被害妄想を被害妄想だと理解する理性を共有する人達。あからさまな非論理的な人格者意外の一般的な人達に共有する事が出来る認識・理解。
>それは普通と云う言葉の意味に整合する普通の認識・理解だと言える。

○完全に間違っている所
・非論理的な人格者
・意外

○まだ事実ではない所
・あからさまな被害妄想を被害妄想だと理解する理性を共有する人達が存在する事
・それが理性である事
・一般的な人達という人達が存在する事
・あからさまな被害妄想が被害妄想であるという認識や理解が、一般的な人達に共有する事が出来るという事

○まだ、吟味の必要な所
・それは普通と云う言葉の意味に整合する普通の認識・理解だと言える。
→上の問題を乗り越えてもなお、そうは言い切れない。
 現実には共有できないものの方が多いからだ。

「あからさまに」(笑)事実が含まれていない。

Aという意見とBという意見に対して、どちらが普通であるか、という問いに答えられる論理などこの世には存在していない。
そこで「広く一般に通じること」を普通の定義としてあげたのなら、実際に「広く一般に通じているかどうか」を確かめてみるしかない。
どこにも統計が上がってきていないのなら、自ら調べるより他にない。

私は私の定義に沿い、実際に現実の法によってそれが認められている事をあげたし、それに沿って現実に事実として存在するものをおいて話しをしている。

これが私とあなたの、実証と空想の違いである。


>それらはどちらとも論証であって、論証とは異なるものとしての実証などではない。

上で説明したように、私は現実にある事実を話しているが、あなたはまだ現実であるかどうか確かめていない話しをしている。
現実にある証拠も示した(思想の自由)。

よって、あなたがどんな妄想を抱こうと、私のは実証であるのに対し、あなたのは論証ですらない。

続きます。
続きです。

>例えばアインシュタインの相対性理論。

アホか。
実証されるまでは、科学的事実とはされなかった。
実証されてはじめて、科学的事実となった。
アインシュタインと言えども、実証なしにそれを科学的事実になどできなかった。
事実、彼は間違った事も書いたし、それは実証の後、削除された。


>実証されていた筈の星の位置には、実際のその星は無かった。
>よってその事が証明されるまでの星の位置の実証は間違いだったと言える。

「実証」と云う言葉の意味を勘違いしているようだけど、実証と云うのは確かな証拠をもって証明すること。事実によって明らかにすること。
間違っている時点で証明できていないので、それは実証ではない。
だから正確には、「予測されていた筈の星の位置には、実際のその星は無かった。よってその事が証明されるまでの星の位置の論理は間違いだったと言える」

正解とは、正しい答えを指す。
それまでは正解とされていても、間違いだと分かった時点で、「それは正解ではない」。
実証も同じである。
どんな論理や予測があっても、確かな証拠をもって証明することや事実によって明らかにすることができなかった時点で、「それは実証ではない」。

実証が間違っている、と言うということは、確かな証拠をもって証明することや事実によって明らかにすることが間違っているという事だ。
それは今の所あり得ない話なので、「実証が間違っている」事はない。
間違っていた事が証明された時点で、それは実証でなくなる。



>ホントにそう思います。自己流の意味で言葉を使うのはやめて貰いたいものです。
>論証は充分に根拠になる。
>客観的事実は大事ですよ。

ホントにそう思います。自己流のルールを使うのはやめて貰いたいものです。
事実の無い論証は根拠にならない。
あなたに客観的事実がないのが問題なのですよ。


>196に書いたような訳で実証の無い「あからさまな被害妄想の場合」は根拠にならないとする考えは、間違っていると云える。
>その事は認められましたか

論理もメチャクチャである事が「あからさま」にされ、事実がないのも「あからさま」にされて、そんな都合が悪い所には一切触れず、勝手に人の意見を何の根拠もなく間違っているという事は、間違いですよ。


>そんな事しか言えないんだろうなー、とは思っています。
>大きなお世話だろうけど、下手に人を攻撃するような不必要な発言は言えば言うほど損をするよ。

いや、大きなお世話だろうけど、本当に読解力がないから、それもキチンと実例挙げてまでそれを説明しているんだから、現実逃避を続けるほど、損をするよ。

続きます。
続きです。

------------------------------------------------------------------------
>×論証が正しければ実証は要らない。
>○論証が正しく、実証も正しければ、それらは同じ結果を証明している。
>×証明と結果が違えば、論証であれ実証であれ証明の方が間違っている。
>×よってどちらかでなければならない事は無い。

・論理は現実を超えない
・実証は間違いであるものを指さないので、間違いである時点で実証ではない
・よって、どちらもなければならない

>あからさまな被害妄想を被害妄想だと理解する理性を共有する人達。あからさまな非論理的な人格者意外の一般的な人達に共有する事が出来る認識・理解。
>それは普通と云う言葉の意味に整合する普通の認識・理解だと言える。

○完全に間違っている所
・非論理的な人格者
・意外

○まだ事実ではない所
・あからさまな被害妄想を被害妄想だと理解する理性を共有する人達が存在する事
・それが理性である事
・一般的な人達という人達が存在する事
・あからさまな被害妄想が被害妄想であるという認識や理解が、一般的な人達に共有する事が出来るという事

○まだ、吟味の必要な所
・それは普通と云う言葉の意味に整合する普通の認識・理解だと言える。
→上の問題を乗り越えてもなお、そうは言い切れない。
 現実には共有できないものの方が多いからだ。

「あからさまに」(笑)事実が含まれていない。
------------------------------------------------------------------------

ボロボロなんですけど?
論証にもなってなければ、事実も含まれていない。

実に見苦しいね。
> ぴゅうたさん

さっきTVで観た刑事ドラマで自己流の意味付けで言い逃れをするストーカーがいました。
ある店の店長が、従業員の若い女性にクマのぬいぐるみをプレゼントした。
その店長である男はぬいぐるみの中に小型カメラを仕込んでいた。
男は警察に捕まったが、「私は彼女を見守っていただけ。迷惑はかけていない。」と主張していた。
ぴゅうた論ではそのストーカーの言い分も普通でないとは言えないのだろう。


「普通」にしても「被害妄想」にしても「実証」にしても、それらの意味や概念はぴゅうたさんが勝手に決めて良いものではない。
ぴゅうたさんにとってどうであろうと、ぴゅうたさん意外の人達にとってのそういった言葉の共通概念は有る。
思想の自由と云うものは、自己流の意味付けで何でも言っていいと云う事を保証するものではない。
例えば先のストーカーが思想の自由を根拠にして、自分の行為は「迷惑をかけてはいない。」と主張しても、そんなものは裁判では通らない。
女性の部屋を小型カメラで盗撮する事。
それは迷惑であるとするのは社会通念上妥当であり、普通の認識だと言える。
いちいち社会の人達にアンケートを取る必要などない。
客観的事実としてストーカーの行為が迷惑なのか迷惑ではないのか、それを決めるのはストーカー本人がどう思うかなどではない。

ストーカーの話はフィクションだけど、現実の裁判でよく争点になる「殺意の有無」にしても、ぴゅうた式実証や思想の自由を根拠に殺意を否定しても、そんなものは通らない。

辞書に反した自己流の意味など何の根拠にもならない。

実証が無い論証では根拠にならないとする客観的根拠は無い。
実証だって間違う時は間違う。
重力レンズ現象(重力で光が曲がる)により、二つの星の光が実は地球に届く前に強い重力で二つに裂かれた一つの星の光だった、と云う事も事実あったそうです。
新しい実証により以前の実証が否定される事は有るが、そうなるまでは古い実証も実証は実証である。
新しい実証が見つかった事で結果としてそれまでの実証が間違いだったと解っただけです。
実際に星の光が二つ有ったのだから、それを証拠に二つの星が在ると考えるのも無理はない。
実際の現物を証拠にする点でそれは実証だけど、結果としては間違いだった。


>それは何度も言うように、「論理は現実を超えない」からだ。

誰がそう決めたん
(中傷的な言葉の類は相手にしません。)
> シマ(千のプラトー)さん

>さっきTVで観た刑事ドラマで自己流の意味付けで言い逃れをするストーカーがいました。
>ある店の店長が、従業員の若い女性にクマのぬいぐるみをプレゼントした。
>その店長である男はぬいぐるみの中に小型カメラを仕込んでいた。
>男は警察に捕まったが、「私は彼女を見守っていただけ。迷惑はかけていない。」と主張していた。

犯罪という「行為」と、「思想」の区別ぐらいはつけような。
君にはその区別は難しいようだけど。


>ぴゅうた論ではそのストーカーの言い分も普通でないとは言えないのだろう。

ああ、そう思うこと自体は普通だよ。
その人にとってのね。
それと、それが犯罪であるという現実とは関係ないけどね。


>「普通」にしても「被害妄想」にしても「実証」にしても、それらの意味や概念はぴゅうたさんが勝手に決めて良いものではない。

これは思想の問題だから、私がどう定義しようと、それを禁じる事はできない。
現実と思想の区別をつけようね。


>ぴゅうたさんにとってどうであろうと、ぴゅうたさん意外の人達にとってのそういった言葉の共通概念は有る。

漢字ぐらいは分かるようになろうね。
もう何回注意されたかな?

どうして私「以外」の人の共通概念、と分けねばならんのか?
どうして私の定義に共通する概念がないと分かるのか?
私の書いた定義が理解できずに、全く見当はずれの事しかかけなかった君に、どうしてそれが分かるのか、説明してもらおうじゃないの。


>思想の自由と云うものは、自己流の意味付けで何でも言っていいと云う事を保証するものではない。
>例えば先のストーカーが思想の自由を根拠にして、自分の行為は「迷惑をかけてはいない。」と主張しても、そんなものは裁判では通らない。

熊のぬいぐるみにカメラを仕掛けて盗撮するのが思想?
頭おかしいんじゃないの?


>女性の部屋を小型カメラで盗撮する事。
>それは迷惑であるとするのは社会通念上妥当であり、普通の認識だと言える。
>いちいち社会の人達にアンケートを取る必要などない。

一々アンケート「採ら」なくても、裁判によって法的根拠にてらした実証がなされるからな。
いい加減、実証はなくても事実と認められるなんて妄想はやめろ。


>客観的事実としてストーカーの行為が迷惑なのか迷惑ではないのか、それを決めるのはストーカー本人がどう思うかなどではない。

何当たり前の事を。
行為と思想の区別をつけような。

ストーカーの「行為」が迷惑かどうかを決めるのはストーカー自身ではないが、私が何を「思う」のかを決めるのは、私だ。


>辞書に反した自己流の意味など何の根拠にもならない。

論理的である事と、辞書の意味に従う事は違う。
私は私の定義に従い、主張をした。
あなたはあなたの定義に従い、主張をした。
違いは、私は法的根拠をもって、その実証を果たしたが、あなたは論理も実証も破綻したままだ。

定義に問題があるのなら、定義のどこにどう問題があるのかを述べたまえ。

続きます。
続きです。

>実証が無い論証では根拠にならないとする客観的根拠は無い。

あなたの「俺ルール」と違って現実は、実証がないものは科学的事実として認められない。
あなたがどんなに現実を拒もうとしても、多くの人が賛同するということを論理では証明できない。
証明ができたら、統計は意味を持たなくなるからだ。


>新しい実証により以前の実証が否定される事は有るが、そうなるまでは古い実証も実証は実証である。

「辞書に反した自己流の意味など何の根拠にもならない」んじゃなかったの?
辞書のどこに、確かな証拠をもって証明する事はできなくなっても、それは実証である、と書いてあるの?
自分が作る辞書に反した自己流の意味は根拠になるのか。
えらく都合がいいな。


>誰がそう決めたん

日本語の意味は誰が決めたの?
この星を地球と決めたのは誰だったの?

実にバカげた質問だよ。
誰が決めたかなんて、何の意味もない。
決めた人が誰かによって、それが真実になる事も嘘になることもない。
実証のみがそれを決めるのだ。

論理は現実に従属するものだから、そう言われている。
どこかの人みたいに勝手に「論証があれば実証なんて要らない」と言い始める奴がいるから。

この世の事象とは、論理によってそれがあるのではなく、人間が事象を理解しやすくするために、論理があるのだ。
だから、論理においては確からしく見えても、事象としては起こりえないことがある。
なので、どんなに理論が確からしく見えても、実証しない限りは事実として捉えられる事はない。

それを「論理は現実を超えない」という。
論理が現実を作っているのではなく、現実が論理を確かなものにするからだ。

だから、いくら論証があれば実証は必要ない、と言っても認められる事はない。
「論証が正しいなら、実証は必要ない」が正しいなら、この世に冤罪は存在しない。
論証が正しいから、判決が下るのだから。
だから、裁判は証拠主義なのだ。
確かな証拠を持って証明する事、つまり、実証こそを根拠にするべきであり、それができないときには「推定無罪」、つまり、実証ができない以上、それは事実ではないとされているのである。

つまり、論証が示せれば実証は要らないという事にはならない。
まさにそれそのものに、何の根拠もない。
それに、間違いを認めろだの、容赦はしないだの、バカげた話だ。
私は単に、あなたに自身の言葉の証明を求めているだけ。
あなたに間違いがあろうがなかろうが、私の知った事ではない。
それはあなたの問題であり、私の問題ではないからだ。
容赦をするとかしないとかも同じだ。
単にあなたの言葉の証明を求めるのに、容赦するとかしないとか全く必要ない。
あなたが何を許し、何を許さないのか、それはあなたの問題であって、私の知った事ではない。

実にバカげた話だ。


が、まあ、間違いを認めさせようとするのも、容赦しないのも、許してやろう。
私は、あなたがそう思うなら、それを認める。
それを早々にあきらめても、それを認める。
思う様に振る舞い、思う様に思え。
私はそれを認める。

私がそう定義したからだ。

その上でただ、あなたにはあなたの定義の実証を求める。
ただそれだけだ。
あなたの間違いなどどうでもいいし、容赦するもしないもない。

ただ、あなたが容赦しないと言うのなら仕方がない。
50年だろうが60年だろうが、付き合おうではないか。
あなたに逃げ出さないだけの根性があればの話だが。
まあ、期待はできないが。
 

(『愛や調和や許しに疑問を感じる』
comment=83...204
PC:http://mixi.jp/view_bbs.pl?&page=5&id=14481626
CP:http://mixi.jp/view_bbs.pl?&page=17&id=14481626&readmode=start
 
コメント83〜204は、発端となった映画『プレシャス』にまつわる話題から外れ、トピックの指定する論点からも外れて長期化しています。
再開は9/1以降で、以下トピックか雑談トピックかのいずれかへ移動してくださるよう希望します。
また、その際は当コメント冒頭のリンクをご転載くださるとわかりやすくなり、助かります。
〔僕個人としては、当初の話題としてでなくとも参考になる対話だと感じてますし、後は建設的で甲斐のある対話になればと思っています。〕
よろしくお願いします。
 
『言葉・話し合い・私たちに必要なもの』
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=44043772
 
『本質探し?』
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=45139549)

 
> w a r m a r t :)さん

お手数おかけします。

『本質探し?』
view_bbs.pl?id=45139549)

のトピックへ移りました。
まさに愛や許しに疑問を感じると云うテーマでいろいろ思う事が有ったのですが、ぴゅうたさんとのやりとりが終わってから機会があれば、にしたいと思います。

余りに長期化している事に関しては申し訳なく思っていますが、それなりに意義を感じているので続けさせて下さい。
 

> 浮気は、本人じゃなくて相手(現パートナー)が決めることじゃないかな。
 
> 浮気って「裏切り」って意味合いで使われてると思いますが、本人は例えばその10分間や・その10日間・その10ヶ月を自分自身に対しては裏切ってないはず。
 
> よく結婚式や離婚慰謝料では、今だけでなく将来も愛しあうことを正当だとしますが、それは宗教や政治が求める正しさにすぎなくて、それに対して一般の日本人は別に信仰や政治思想が強いせいじゃなく、挙式や入籍しないと「変」だからするだけだろう、と思う。
 
> そういう、形の約束を破棄されたことを裏切りだと呼べるのは、本人じゃなくて相手じゃないでしょうか。
 
> もし、思いつく限りの強い愛情があるとしたら。
> 明日から相手が自分じゃない人を愛そうと・何人かを同時に愛そうと、そうした変化しつづける相手に心を乱されずに、(現実問題として別れるにしろ別れないにしろ、)相手への愛情の履歴を汚すことなく自分の愛情をも変化させてゆくものだろうと思う。
 

> 「相手への」(自分の)「愛情の履歴を汚すことなく」。
> つまり例えば、
> “私は数年前にそのときの相手に浮気されて、怒り狂いました”
> って人は、相手が変化したら途端に受け入れられない・または独占欲でできている愛情だった、という自分の恋愛遍歴で、汚れると思うんです。
 
> 昔にベストセラーになった『誰のために愛するか』という本には、
 
> 「私は相手が泥棒だろうと、好きになればついてゆきます。
> その代わり相手も、そういう相手がいて支えつづけていればいつか、泥棒をやめようと決心してくれるでしょう」
 
> というような内容がありました。
> これは、泥棒がいけないという当たり前の話よりも、相手が泥棒だろうと愛情は起きるということのほうが重要かと思います。
> 世の中の正しさと関係ないところで愛情は起きて、さらに著者はもし相手が死ぬまで泥棒のままでも、愛情の基本は変わらないんじゃないかなと僕は思いました。
> だとしたら美しいなと。
 

あるマイミクさんの日記へ書いたコメントです。(加筆訂正)
 
何だか禁欲的な意見ですが。
例えば競技とか武道とかのスポーツが大好きだとしたら、ちょっとした才能でいい成績を獲るだけじゃなく、さらなる成績のためなら、辛い練習も貯金のような快感にできたりする。
あるいはそうした行動がなくては奥を深めたり・高みに達することもないはず。
 
愛情は人生の課題の大きな1つで、で人生って野放図な野原じゃなくて、道場だと思う。
じゃなければ飽きたらない。
 


http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14784225
 
http://www.youtube.com/watch?v=2Lm9HKylUUg
 
>わーさん

スピリチュアルでは「愛は与えるものである」と言います。
つまり、受け取ることを対象としたとき、それは愛ではないという事です。
具体例を出しましょう。

> 「私は相手が泥棒だろうと、好きになればついてゆきます。
> その代わり相手も、そういう相手がいて支えつづけていればいつか、泥棒をやめようと決心してくれるでしょう」

相手が泥棒でも支えていこうとするのは「愛」です。
しかし、相手がそのために泥棒をやめようと決心してくれるだろうと思うことは「期待」です。愛ではありません。

私の好きな本に「傷つくのならば、それは愛ではない」というタイトルの本があります。
つまりはそういう事です。
愛とは、与える事なので、絶対に傷つきません。
そこでよく言われるのが、「受け入れられないと傷つく」というものです。
しかし、「受け入れられない」は「与えられない」ではないのです。

もちろん、これだけではストーカーの大量生産をしてしまいます。
なので、相手との関係性を保つことが出来た上で、という注釈がつきます。
つまり、相手がこちらのしていることを了解し、してあげることを受け入れているなら、バンバンストーカーしろって事です(笑)
断らないのも相手の問題だからです。
その代わり、相手が浮気をしても、それは相手の問題ですから、関係なしです。
それが原因であなたが以前より相手に何かしてあげたいという気持ちが薄れるなら、しなければ良い話で、誰もあなたを苦しめていません。
常に同じ様に愛せなんて誰も言わないのですから、愛せないのなら、しなくてOKです。
誰にだってしたくない時はあります。
そしたらしない。
するかしないかは、常に自分の問題です。

文章だけで読むと、とてもドライにとられがちです。
しかし、実際の愛に満ちた行動は、キッチリ自分の問題と相手の問題を分けています。
不満があるからと言って相手に絡みませんし、相手を自分の都合でコントロールしません。

愛に見せかけたコントロール、これは実に関係性に良くない影響を及ぼします。

 
> ぴゅうたサン:208
 
愛情の問題を責任ある自他の問題として見直す、というのは同感です。
自己完結しあう・自立しあう関係なら、余計な対立が起こらない。
 
愛情といえばいいのか、それよりも恋愛や結婚についてだといえばいいのか、少し混乱してきますね。
 
いつも感じるんですが、「愛」って言葉ほど、人によって印象や解釈が違い、違うのに音楽などで大量生産される単語はなく、まるで念仏みたいです。
 
愛は与える・与えっぱなしのもの、という1つの解釈があります。
でも例えば離婚協議などで、
「どちらに愛情の喪失という落ち度があって、それが慰謝料としていくらに相当する」というようなやりとりがあります。
こうしたことからか、愛情も、接客や奉仕などのサービス(任務)と同じ扱いとして考えられ、
「恋愛や結婚でもギブ&テイク(等価交換)が成立しなくてはならない、そういう約束の関係だ」として扱う人は、逆に(?)多いでしょう。
悪く言えばメイド喫茶やソープランドみたいに。
 
やはり人間は聖人君子じゃないから、例えば
「恋愛関係にあって、相手の態度が悪化して、こちらばかりが与えっぱなしだとなれば、別れて何が悪いの?」という言い分もわかります。
 
また、そもそも婚姻とか性的関係とはそういうもの(一定の契約)だった、とも見れます。
 
こうした混乱の理由は、1つには「愛」という言葉の乱用と・共通の認識が確立してない状況のせいかと感じます。
 
そしてもう1つ、ここで話題にしたかったものがあるわけです。
(もちろん有り難迷惑の行為は除外して、)
与えっぱなしの・見返りを求めない気持ち、そういう類いの愛情は、具体的には時間やら労力やら資財やらを提供するにも係わらず、満足感などの快感を得る。
いや場合によっては得られないこともあるのに、与えたいと願う気持ちがあって、そうした愛情の種類を他のものから分けて明示したいと感じました。
 
でもそうした無償の愛情を本物だとか強度だとかと呼ぶと、有償の愛情を差別して角が立ってしまうので、何か違う・わかりやすい呼び名がほしいところです。
僕としては、新しい言葉よりも、厚意とか友情が相応しい気がしました。
 
>わーさん

その辺、私はキリスト教的倫理観が全てを台無しにしていると思うのです。
夫は妻を妻は夫を一生にただ一人と決め、添い遂げると。
これは元々セックスを制限するために作り出されたものです。
中世では冗談ではなく、貴族や王族と違って庶民の嗜好を制限するのは当たり前と考えられていました。
つまり、庶民には自由なセックスは過ぎたものであると考えられ、また、キリスト教以外の地の信仰は大地母神信仰が多く、その神官は女性であるのが普通で、やってくる男性信者とセックスをして寄進してもらうという形を多くがとっていました。(女性信者は、年頃になると神殿に篭り、生理の処理の仕方や性の手ほどき、出産について必要なことなどを教わりました)
ここに、権力とキリスト教の利害が一致し、一夫一婦制、しかも性に厳格なキリスト教的倫理観が出来上がりました。

日本には確かに昔から、結婚という制度はありました。
それは元々、貴族などがお互いの権力や仕事の権利を家で管理していたため、権力の取得や家督の相続が主だったもので、今で言うなら就職活動に近いものでした。
まあ、詳しいことは以下のHPを見てください。
http://www3.ocn.ne.jp/~nw21/rekisi.konrei.html

キリスト教的倫理観の結婚は、「契約」です。
どんな事があろうとも一生を添い遂げるという契約を神の名の下で行うのが、キリスト教の結婚です。
現在の結婚も「契約」です。

つまり契約第一で、愛なんて「あるに越したことはないよね」程度のものなのです。

しかし、一般的に「結婚は愛に因るものである」という誤解が広まっており、そこが「愛」というものを分からなくしている原因なのです。

いつも私が言っているように、諸悪の根源はキリスト教的倫理観です。

故に、現在の結婚と愛は別のものと考えなければなりません。


>でもそうした無償の愛情を本物だとか強度だとかと呼ぶと、有償の愛情を差別して角が立ってしまうので、何か違う・わかりやすい呼び名がほしいところです。
>僕としては、新しい言葉よりも、厚意とか友情が相応しい気がしました。

あります。
それは呼吸に例えられます。
愛は呼気です。
期待が吸気です。

わーさんのいう、有償の愛とは「期待」のことです。
期待とは得ようとする事です。
期待には常に条件が伴います。
「きっと○○をしてくれるに違いない」といった。

つまり浮気なら、「私と結婚しているのだから、いくら私が家事やセックスを拒否して、話し合いも持たなかったとしても、浮気はしないに違いない」と思ってるわけですよ。

だから、浮気がばれると「裏切られた」というのです。
「何があっても浮気はしないと思っていたのにされた」から、裏切られたと思うのです。
「結婚したら順調に出世して、毎年給料が上がる」と勝手に期待するから、給料が上がらないだけで「期待はずれの人だ」と思うのです。
「結婚したら私を完全に支えてくれる」と勝手に期待するから、話しを聞かないと、「仕事と私とどっちが大切なの?」とか聞くわけです。

まあ、流石に最近はそんな期待をする奴がいませんが(笑)

バブルからこっちと言うもの、女性の期待が過剰になっていることは言うまでもない事です。
年収が1千万ないと嫌だとか、3000円のランチに一回数万円のエステ、一つ数万円の化粧品…、そんな話になるわけです。
それは期待という要求であり、愛ではありませんから、正しい対処法は「手前のマラリアにかかったハコフグみたいなツラは、世界一の美容形成でもなおらねーよ。」と、期待を作った時点で粉々にするのが、正しい…のかどうかまでは知りません(笑)
 
> ぴゅうたサン:210
 
うーん ..。
確かに、世界史としても一夫一婦制が各地の権力機構によって指導・管理されてきたらしきことから、つまり一対が自発的に確立された・人が自然に望む様式だ・というのは幻想のようですね。
日本でも、管理社会の様相が強まった江戸期の以前は、男性の同性愛が表立って認識されていたり・性交の関係もかなり自由だったようですし。
 
現代でもアラブでは一夫多妻制があるわけですから、(男尊女卑を否定して一婦多夫なども考慮すれば、)権力機構が指導した婚姻様式が、支配体制から解放された現在、尚も合理的で機能的だから継承すべき、とまで断定できないなと思います。
 
動物などヒト以外の生態を見ると、いわゆるツガイ・一対という形式を選ぶ種族は少数派のようです。
オシドリも一生一対というのは虚構だそうですし。
 
現代、先進国でもすでに支配体制からの伝統的な一夫一婦制はどんどん崩れて、離婚率は高まり・少子化は進み・同性婚や・片親世帯・高齢者共同生活など、多様化しています。
愛情や婚姻の、様式や形態の強制力が個人にはもう大した負担じゃなくなったのかもしれません。
逆に社会的に管理するには難題でしょうが。
 
キリスト教的な倫理観が、保守的また固定観念的なせいで、本質や現代の自由に適合しない、という意見はよくわかります。
ただし一方で、現代にも権力機構は形を変えて存在するわけです。
 
もし大航海時代や産業革命をアジアやアラブが先んじていたとしても、やはり宗教的な倫理観は時代の権力機構に使われただろうと推測できます。
となると、これは1つの必然的な歴史の過程で、さらなる課題は、社会が個人の人生を一定に管理したいという事態そのものにあるのかもしれません。
そしてその正体・本質は、過度の功利主義・合理主義なのだろうと思います。
 
まあこれは、結婚や世帯といった形の問題が主で、もちろん教育や風潮が愛情の精神面をも誘導する流れはあっても、現に人々の愛情の形や心はどんどん移りかわり・分化を遂げています。
 
ただ、人々は時代を重ねながら、自由を求めて既成から逃れようと努力しますが、世代交代のせいで経験は蓄積されず、いざ自由を獲られた世代が、それに対して寄るべなく戸惑ってしまう、という事態・その反復こそ現代の(歴史の)課題では、と感じます。
 
 


RE:俺、家を出るよ。
 
お母さんです。いつかこの日が来ると待ってました。行ってらっしゃい。
 
(一人暮らしを決断した時、女手一つで育ててくれた母からのメール)
 


大丈夫。
 
厄年じゃなくて躍年!!
 
(嫌なことが続きヘコんでいる私に、親友からの一言)
 


今はそんな事言ってても
 
その内、イヤっていうほど一緒に居られますよ
またオマエかよ
まだオマエかよ
いつもオマエかよ
さらにオマエかよ
って
 
(忙しい彼に不満を言ったところ返って来たメール。その後、結婚。10年近く経っても大切なメール)
 


絵文字で笑顔
 
いつまでもむっつりしているといいことないよ
男前の顔が台なしだね!
 
(ケンカをして、口をきかない日が続いていた時、妻からきたメール)
 


無題
 
孫はとても可愛い
でもあなたの方がもっと可愛い
よく頑張りましたね
偉かったよ
 
(出産時に母がくれたメール)
 


秋刀魚
 
家に着く10分前にメール下さい。
秋刀魚を焼いて待っています。
 
(9月7日が結婚記念日。新婚旅行から帰ってすぐのメニューが秋刀魚の塩焼きで、以来、結婚記念日は秋刀魚に。今年の結婚記念当日、主人に出したメール)
 


Re:生きてるぜ
 
家流された。船流された。でも、生きる意欲までは流されていない!家族は、皆無事だから。
 
(震災後、やっと連絡がとれた知人からのメール)
 


e-mail of love
http://ainoarumail.jp/pc/archive/index.php
 
faint smell
http://youtu.be/-4ywvJA_Ga0
 
 

> 愛は長くは続かないものなんだろうか。




そうだね、長くはつづかないのかも

でも、それは寿命みたいに自然なことで

儚いから、かけがえのないもの、なんじゃないかな

例えば、今から死ぬまで保たれる愛に出会うとして

じゃ、もし自分が先立ったとしたら、相手には生涯、無恋愛で貫いてほしい、とは僕は思わない

それに、もしも人間の寿命が1000年や5000年だったとしても、日常の過ごし方は変わらず今のようだと思うから、たぶん恋愛や友情の寿命のほうが短く、100年や500年とかで一旦の満ち引きを迎える、そう思うな

ただ、そうした推察は、冷たく悲しい、ってことじゃなく、ありのままの儚さ・だからこそのかけがえのなさ、なんだと思う

どう思う?



http://youtube.com/results?q=%EF%BC%93%E3%81%B3%E3%81%8D%E3%81%AE%E3%81%8F%E3%81%BE
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/3%E3%81%B3%E3%81%8D%E3%81%AE%E3%81%8F%E3%81%BE
 
>>[213]

>>「儚いから、かけがえのないもの」

はい。共感します。

そして、そういう風に感じる人の心というものは
愛ということの意味を、知っているんではないかと思えてなりません。
 
“彼氏がいなくて寂しい…なら、自分で作っちゃえばいいんじゃない!?
ニットで編んだ等身大のボーイフレンドが海外で話題!!”

彼氏がほしいのになかなか見つからない皆さん。
側にいてほしいときにいてくれない彼氏に幻滅しちゃってる皆さん。
一人で過ごす日々がとっても寂しくて虚しくなること、女子にはありますよね!

それは日本だけでなく海外の女性も同じなようで。
海外サイト「BUZZFeeD」で紹介され話題になっているのが、オランダ人アーティストの ヌートジェ ケイジャーさんの作品。
彼女が学校の卒業制作で作ったというものは、ニットで編んだ等身大のボーイフレンド!!
こんな彼がいたら、もう一人の夜も寂しくない!

彼を紹介した動画がこれまたイカしてる!
彼氏がいなくてひとり、部屋で寂しく過ごすケイジャーさん。
しかし、いいアイデアを思いついた様子。
「彼氏がいなければ自分で編んじゃえばいいんじゃない!?」
そうしてひと針、ひと針、愛を込めて編み上げた等身大のボーイフレンド。
ニットの中に枕を入れれば肉厚感が出て、よりリアル!
彼ならどんなときだってずっと一緒にいてくれる。
仲良く歯磨きしたり朝食を食べたり。
ダンスを楽しんだりホラー映画を観るときも寄り添ってくれたり。

ニットの肌触りもよさそうだし、これはちょっとホントに欲しいかもしれない……!!
ニットボーイフレンド君を紹介した動画やイラストはオシャレ&茶目っ気たっぷりで必見!
おひとり女子の最愛のダーリンになってくれそうなこんな彼。
あなたも自分で編んでみる?

(文=鷺ノ宮やよい)
2013/05/02-17:00 Pouch
http://youpouch.com/2013/05/02/118788/ (CP:http://zhp.jp/jAcm )
 
 
〈セックスと品位〉

“品”“上品ぶること”って、私室の整理に似ていると思います。
神経質なまでに片づいている必要はないでしょうが、グチャグチャな混沌が落ち着くという人は、少なくとも品格と引きかえに何か(ゆるみ? 自由さ?)を得ているのでしょう。
部屋の品性は、もちろん客を迎えるためでもあるけれど、そこで暮らす自分が居心地よくあるためにあるわけです。
そして部屋の品性は、持ち主の精神性や・さらにセックスに通じていてもおかしくないかと。

また、セックスはスポーツにも似ていると思います。
テニスで昔、あるトレーナーが選手像を3種類に例えました。
たしか、レンドルはマシン、コナーズはアニマル、マッケンローはアーティストだと。
3人とも名選手で、それぞれ同じように勝利を目指してきましたが、それぞれにスタイルは違ったわけです。
彼らにとって、情熱の対象で・収入源でもあったテニスのプレースタイルは、セックスに通じていてもおかしくないかと。
その3種を、あくまで仮に品格(美?)で順位づけするなら、アーティスト>マシン>アニマルになるのかも。

セックスでも、トピック冒頭の「没頭」「制御」について、情熱的であることと・(涎など)取り乱すことには違いがあって、違いを守る(逆に解放する)場面があったり・場面に係わらず一貫した人物がいたり・すると思いました。

(さらに複雑化した禁忌の美や野生美という視点もありますが。)

http://mixi.jp/view_bbs_comment.pl?comment_number=217&bbs_id=42446209
 
 
“「結婚の価値」は2500万円 話題の学者が弾き出す値段の衝撃”
2012/03/07-12:00 モノウォッチ http://mixi.jp/view_bbs_comment.pl?comment_number=011&bbs_id=58138283
 
こんばんは。
今クールで放送されている『逃げるは恥だか役に立つ』というTVドラマ、面白いです。
契約結婚を隠して仮面夫婦になる、という設定なのかな。
物語を通して結婚を多角的に描いています。

『逃げるは恥だが役に立つ』https://goo.gl/uYXjCJ
>>[216]

倫理や癖の濃淡とは別の話で
まさに、スポーツ的な側面を見ると
恋愛感情が無い方が極められそうではないのだろうか?
と考えていたことがあります
恋愛感情が全身を性感帯にする役割を果たす場合もあるのでしょうが
そうでない状況で果たして
一体何が起こり、どこまで可能性が広がるのか
>>[219]

プレイ·セックスはグルメに似てる気がします。
対して愛あるセックスは肉ジャガというか、調理技術や素材に美味を感じるのとプラス α があるような。 ハート(矢)
なので一長一短ですが、愛のないほうが客観的で具体的なのは確かですね。
>>[220]

超〜わかりやす〜い
です、面白いなぁ…
ありがとうございましたぴかぴか(新しい)
>>[221]
このトピックのどこかですでに書いたと思いますが。
小話で、昔に中国の大富豪たちの美食クラブが古今東西の美味や珍味を取り寄せては楽しんでいて、最期に究極の味を求めたとき、美味を食べ尽くしたメンバーたちの誰かを食べたとか。
性欲は食欲によく似ています。
>>[222]

…何てホラーですか
でもそういうことのかな、究極

性欲、食欲の関連はよく聞きますね
食べ方の汚ない人はセックスも汚ない
みたいな話
>>[223]
ハハハ中華料理じゃテーブルを汚すほどおいしく食べた印というマナーがあるらしいですよ。
>>[224]

へ〜〜またまた面白いですね
人の解釈って何なんでしょう?
ご都合主義な感じもするなぁ
でも
清く正しく美しく
途方もない罪の発想だなぁと感じることもありますね

ログインすると、残り185件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

spɐɯou ʇsol 考える旅人  更新情報

spɐɯou ʇsol 考える旅人 のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング