ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

N*Mコミュの2001年時のNAM原理

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
現在googleが2001年当時のWEBキャッシュを公開しており、
http://www.google.com/search2001.html
柄谷行人の最初期(2000年5月)のNAM原理(プログラム注釈に違いがある)を読むことができます。

http://web.archive.org/web/20010218152022/www.kame.tadaima.com/associationk/NAM.html


■New Associationist Movement(NAM)結成への提案 

 

                     2000年5月/ニューヨーク  柄谷行人

 

 

■はじめに

 

私は一九九九年四月アソシエ21(東京)の創立大会で講演したが、そこにこれまでの運動

に対する根本的な反省がないこと、新しい要素が何もないこと、のみならず、今後にそれが

出てくる可能性さえないことが直ちにわかった。そこには、たんに数を集めればよいという

考え−−しかも数さえ集まらない−−しかない。それは旧新左翼の寄り合い所帯でしかない。

私はそれ以上積極的にやる気がなかった。その後、関西支部を作るために講演を依頼され、

その時、大阪で田畑稔氏らに出会ったのがきっかけで、私は新たな運動を始めようと考えた。

それがアソシエ21関西の始まりである。私は当初から、それをアソシエ21の関西支部で

あるとみなしていなかったが、ことさら分離して独立する必要もないと考えていた。が、ア

ソシエ21関西の発足とともに、そのようなつながりに矛盾と桎梏を感じはじめた。アソシ

エ21関西に「東京支部」ができたとき、それは文字通り矛盾を来した。そのことはアソシ

エ関西をアソシエK、あるいはアソシエーションKという通称で呼んだところで解決しない。

アソシエ21はどうしてもいやだが、アソシエKには入りたいという人が大勢いるのだ。こ

れを解決するには、新たな組織を作るほかない。

 

そもそも、アソシエという珍奇な名称にこだわる理由はない。アソシエは、田畑稔氏の「ア

ソシエーション」理論と無縁であって、たんに「寄り集まった」という意味でしか使われて

いない。私は、われわれの運動は、過去の経験を踏まえるとしても、それらと非連続的なも

のでなければならない、と考える。アソシエ21だろうが、ブントだろうが、共産党だろう

が、右翼だろうが、この運動に参加することは自由である。が、そこに過去の運動組織との

つながりをもちこむならば、私はそれを拒否したい。《新しい葡萄酒は新しい革袋に入れら

れなければならない》。そこで、私は「新しい革袋」をNew Associationist Movement

と名づけ、あらゆる意味で、アソシエ21その他とは別の、新組織として出発したいと考え

る。この名称を英語とすることは、キザな意味ではない。この運動は最初からトランスナシ

ョナルであり、海外に開かれていなければならないからである。

 

NAMは自由な組織である。しかし、それは一定のプログラムをもっていなければならない。

それを隠してできるだけ多くの人が参加しやすいようにやる、などということは、欺瞞的で

ある。われわれは万人が受け入れやすいようなプラグラムを掲げたりしない。そのようなや

りかたは、左翼諸派の寄り合いのためか、人を甘言で集めて、議席数を増やし、――といっ

た社会民主主義的な発想にもとづくものだ。それは、大衆運動を別の目的に利用するもので

あり、今必要且つ可能なこと(社会的経済的変革)を先延ばしにするものである。実際には、

その結果として、大衆の間に世界的に政治的アパシーが生じている。したがって、われわれ

は、公然と、変革の目標とその道筋を提示しなければならない。

 

NAMの原理原則は単純である。それに関して合意があれば、それ以後はすべて、各人の創

意工夫に負う。むしろ、私は萌芽的なもののほかに、まだ何ら具体的なヴィジョンをもって

いないことを認める。組織論に関しても、私の提案は、それが拡大した時に生じるだろう諸

問題に対処している。しかし、それも、現実に実行される時には、さまざまな創意工夫が不

可欠である。そして、現実がわれわれの組織原理や現状認識に対して根本的修正を要求する

ならば、むろん、それに応じて対処しなければならない。基本的に、私の提案は、人間性の

変化を前提しないということ、あるいはそれを要求しないということにもとづいている。た

とえば、ひとに命をかけて闘えなどと、私はいわない。しかし、命をかける必要のない場所

で闘え、という。それが流通過程での対抗運動である。権力にかんしても同じである。私は

一切の権力や組織を否定せよ、などとはいわない。そして、私は、組織の官僚化について、

それを頭で否定するのではなく、実際にそれが生じないように、権力の集中する場に偶然性

を導入すればよいと考える。それがくじ引き制である。そのことは先ず、われわれの運動自

身において実現されなければならない。

 

私の提案を皆さんで検討してほしい。これらは、われわれが新たな組織として出発する以上、

各人があらためて「契約」すべき事柄であるから。むろん、これまで会員でなくても、参加

の意志がある人は発言してよい。たとえば、私の提案に関して、すでに、山城むつみ氏から

その「具体化」をめぐる提案があり、西部忠氏からも批判があった。以下の提案には、それ

らが考慮されている。しかし、それは最終的なものではない。このような提案が続々と出て

くることを希望する。また、この新組織の発足に際し、会計その他の問題をふくめて、旧ア

ソシエ21関西事務局あるいはアソシエKからの移行(切断)を明確にする必要がある。こ

のことも当然、私の提案にふくまれている。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

■New Associationist Movementのプログラム

 

1 われわれのアソシエーショニストの運動は、倫理的―経済的である。カントの言葉をも

  じっていえば、倫理なき経済はブラインドであり、経済なき倫理は空虚であるがゆえに。

 

2 われわれは、資本と国家への対抗運動を組織する。それはトランスナショナルな「消費

  者としての労働者」の運動である。それは資本制経済の内側と外側でなされる。もちろ

  ん、資本制経済の外部に立つことはできない。ゆえに、外側とは、非資本制的な生産と

  消費のアソシエーションを組織するということ、内側とは、資本への対抗の場を、流通

  (消費)過程におくということを意味する。

 

3 われわれの運動は「非暴力的」である。それはいわゆる暴力革命を否定するだけでなく、

  議会による国家権力の獲得とその行使を志向しないという意味である。なぜなら、われ

  われが目指すのは、国家権力によっては廃棄することができないような、資本制貨幣経

  済の廃棄であり、国家そのものの廃棄であるから。

 

4 われわれの運動は、その組織と運動形態自体において、実現すべきもの(参加的民主主

  義)を体現する。

 

5 われわれの運動は、現実の矛盾を止揚する現実的な運動であり、それは現実的な諸前提

  から生まれる。いいかえれば、それは、情報資本主義的段階への移行がもたらす社会的

  諸矛盾を、他方でそれがもたらした社会的諸能力によって超えることである。したがっ

  て、この運動には、歴史的な経験の吟味と同時に、未知のものへの創造的な挑戦が不可

  欠である。

 

■プログラムへの注釈

 

1 「人類」は抽象的・生物的な概念ではない。それは世界資本主義の発展と浸透の中で形

  成された、あるいは今も形成されつつある概念である。しかし、現在の資本制経済がこ

  のまま続けば、「人類」の危機を招来することは疑いない。「倫理的」であるとは、自

  由な主体であること、そして、他者を手段としてのみならず同時に自由な主体として扱

  うことである。その場合、他者は、生きている他者だけでなく、死者、そしてまだ生ま

  れていない未来の他者をもふくむ。もしわれわれが現在の「幸福」のために彼らを犠牲

  にするのであれば、それは他者を自由な主体としてでなくたんに手段として扱うことで

  ある。だが、われわれがこの人類の危機を止めるために何かをするのは、けっして未来

  の他者のためではなく、われわれ自身の倫理性のためである。ゆえに、われわれの運動

  は倫理的である。しかし、それはたんにわれわれの考え方を変えることによっては実現

  されない。それは、現実に他者を手段としてしか扱わない、世界資本主義の蓄積運動、

  そして資本と賃労働という関係を廃棄することなしにありえない。ゆえに、われわれの

  運動は経済的―政治的である。

 

2 市場経済という語は現在、資本の活動であることを隠蔽するために用いられている。し

  かし、資本制市場経済と市場経済一般とは区別されるべきである。資本制市場経済の廃

  棄は、市場経済あるいは貨幣の廃棄ではない。消費ー生産協同組合のグローバルなネッ

  トワークは、自給自足的な共同体への回帰ではなく、「自由な独立生産者」のために開

  かれた市場経済である。そして、その際、貨幣は、利子を生まない地域通貨(LETS)

  のようなものになるだろう。しかし、これはある段階、つまり国家権力をとった段階で、

  実現される事柄ではない。資本制経済の中で、それに対抗しつつ成長すべきものである。

  ポランニーは、資本制市場経済を寄生的なガンにたとえたが、われわれの運動はいわば

  対抗ガンである。

  資本主義は放っておけば、けっして止むことのない運動である。それは人々の考え方が

  変わっても、国家によって管理しても、終わることはない。にもかかわらず、資本は剰

  余価値を獲得することができなければ終焉するほかない。産業資本が獲得する剰余価値

  は、結局、総体としての労働者が作ったものを労働者が買いもどすことによる差額であ

  る。そして、それは価値体系の差異化(相対的剰余価値)から得られる。その場合、剰

  余価値は、世界資本主義における総剰余価値として考えられなければならない。ゆえに、

  剰余価値は、個別的な企業あるいは個別国家のレベルにおいて不可視であり、ブラック

  ・ボックスの中にある。ひとが経験的に知るのは利潤のみであり、資本の運動も、労働

  組合の運動も、利潤をめぐってなされる。したがって、資本に真に対抗する運動は生産

  点だけでは不可能である。資本の剰余価値獲得と同様に、それへの対抗運動もブラック

  ・ボックスでなされるほかない。そして、そのような対抗運動に対しては、資本も国家

  も無力である。

  資本と賃労働という関係は、主人と奴隷の関係とは違っている。資本はM−C−M’とい

  う運動としてのみ存在する。つまり、資本は貨幣と違って、たえず「変態」することに

  よってのみ自己増殖する。たとえば、生産点での労働者も、彼らの生産物も資本である。

  しかし、資本が資本たりうるのは、この過程を完了して貨幣に戻ること、つまり消費者

  としての労働者に生産物を買わせることによってのみである。資本の運動において、資

  本家は能動的な主体であり、そこでは労働者は主体たりえない。だが、資本は、この運

  動過程において、二つの場(M−CとC−M’)で労働者の意志に従属せざるをえない。

  いいかえれば、そこにおいて、労働者は主体となりうる。そこで、労働者にとって可能

  な対抗とは、一つは、働かない(労働力を売らない)こと、もう一つは、資本制生産物

  を買わないことである。もちろん、そのためには、彼らが働き且つ買うことができるよ

  うな場がなければならない。それが、非資本制的な、生産―消費協同組合のアソシエー

  ションである。逆に、後者は、前者がなければ資本との競争によって潰されてしまうほ

  かない。このように、資本の運動の内部とその外部での対抗が不可欠であり、またそれ

  らは相互浸透的であるがゆえに不可分である。

 

3 ブルジョア革命は暴力革命であった。それは絶対主義的な専制体制に対して国家権力を

  奪うことであったから。ブルジョア革命(民主的国民国家形成)は、世界的には、その

  名はどうであれ、今も続いている。しかし、ブルジョア革命以後の革命、つまり、全面

  化した資本制と国民国家を止揚する「革命」は、もはや国家権力を握って社会変革をす

  るというようなブルジョア革命的なものではありえない。ゆえに、われわれは「革命」

  というかわりに、これを「対抗」(カウンターアクト)と呼ぶことにする。一九世紀末

  にエンゲルスがいわゆる暴力革命を放棄したのは、ドイツ社会民主党が議会で躍進し、

  議会において多数派となって国家権力を行使することが可能に見えたからである。しか

  し、議会制によろうと、国家権力の行使はそれ自体暴力的である。われわれの運動が

  「非暴力的」だというのは、その意味においてである。そして、「対抗」の原理は、資

  本制を成立させているメカニズムそのものに根ざしている。

  資本のとめどない蓄積運動は、世界的に階級的分解をもたらし、また、人間的自然的環

  境を破壊する。しかし、それを止めるために、国家権力に訴えることは解決にはならな

  い。国家は、資本と同様に、一つの自律性をもった機構である。国家は民主的な代表と

  見なされる「政府」には還元されない。国内的に民主主義的であることと、対外的に帝

  国主義(覇権主義)的であることは矛盾しないのだ。根本的に、国家と資本は結託して

  いる。資本主義のグローバリゼーションが国家を解体することは絶対にない。 

  議会を通して国家権力を掌握し、それによって「市場経済」(資本制経済)がもたらす

  様々な弊害を除去するというのが社会民主主義である。そして、それは二〇世紀末にお

  いて支配的なイデオロギーとなっている。しかし、それが支配的なのは、資本主義への

  対抗運動が成長したからではなく、それが資本と国家が生き延びる唯一の方法だからで

  ある。結局、それは国家的利害にもとづくナショナリズムに帰着するほかない。一方、

  われわれの運動は、諸国民国家を代表する「インターナショナル」ではなく、トランス

  ナショナルである。

  ナチスの理論家で、ナチの超国家的人種理論を批判して失脚したほどの国家主義者、カ

  ール・シュミットは、国際連合が国家を死滅させることはけっしてない、といいながら、

  同時に次のようにいっている。《「世界国家」が、全地球・全人類を包括するばあいには、

  それはしたがって政治的単位ではなく、たんに慣用上から国家と呼ばれるにすぎない。

  (中略)それが、この範囲をこえてなお、文化的・世界観的その他何であれ、「高次の」

  単位、ただし同時にあくまで非政治的な単位を形成しようとしたばあいには、それは、

  倫理と経済という両極間に中立点をさぐる消費−生産協同組合であるだろう。国家も王

  国も帝国も、共和政も君主政も、貴族政も民主政も、保護も服従も、それとは無縁なの

  であって、それはおよそいかなる政治的性格をも捨て去ったものであるだろう》(『政

  治的なものの概念』田中浩・原田武雄訳・未来社)。いいかえれば、シュミットも、消

  費−生産協同組合以外に国家を揚棄する道はないといっているのである。その場合、国

  家は残るが、もはや「政治的」なものではない。それは、資本制の死滅のあとにも市場

  経済は残るが、それはもはや「経済的」なものではない、というのと同じことである。

  大衆運動は、それ自体、社会的な変革である。というより、社会的変革であるような大

  衆運動をわれわれは組織する。われわれは、生産過程での労働者の運動―ゼネストを中

  心においてきた旧来の革命理論を斥ける。その逆に、われわれは、流通過程(あるいは

  労働力の再生産過程)における「消費者としての労働者」の運動―ジェネラル・ボイコ

  ット(不買・不売運動)を対置する。同時に、われわれは、旧来の消費者運動、市民運

  動を批判する。われわれは、マイノリティ・女性・環境問題、その他の市民運動の課題

  を重視するが、それらの運動に資本制の生産関係、第三世界との生産関係への視点が欠

  けていることを指摘しなければならない。われわれは、それらの運動のたんなる寄り集

  まりが資本と国家への対抗運動になるとは考えない。資本と国家の揚棄に関して、いか

  に明瞭な見通しをもつかどうかが重要であり、その中で、そうした市民運動の限界が越

  えられ、多様な諸次元の真の連合(アソシエーション)が可能になると考える。

 

4 われわれの運動は、その組織そのものにおいて、社会変革的でなければならない。した

  がって、それはブルジョア的代表制とも、レーニン主義的前衛党とも違っている。われ

  われは、権力志向という「人間性」が変わることを前提しないし、また、個々人の諸能

  力の差異が無くなることも前提しない。ただ、それらが悪しき結果をもたらすのは、悪

  しき制度の問題であると考える。それは、権力の集中する場に無記名選挙だけでなく偶

  然性(くじ引き制)を導入することによってのみ回避しうる。このことは、アソシエー

  ション一般についていえるが、先ず、われわれの運動の組織原則として実行されなけれ

  ばならない。

 

5 資本制経済はそれを滅ぼすための諸条件を自ら作り出す。たとえば、インターネットは、

  冷戦時代にアメリカの軍事的な防衛策として生まれた。だが、それはわれわれにとって

  も不可欠な手段である。資本主義への対抗は、ロマン主義的な回帰やノスタルジーとは

  無縁である。それは資本主義によって生じた世界的な交通の中でしかありえない。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

■NAMの組織原則

 

一定数以上のメンバーがいれば、NAM**と名乗ることができる。それは組織的にも財政

的にも独立したものである。しかし、各人は必ず、少なくとも三つのカテゴリーに所属する

ことが必要である。それは、第一に、地域(外国も含む)による区分である。第二に、現在

の職業などの社会的ステイタス(学生、サラリーマン、主婦、中小企業経営者、文筆業――

など)による区分である。第三に、各人の関心対象による区分である。どのカテゴリーも、

それ自体アソシエーションとして自律的である。しかし、メンバー各人は同時に別のカテゴ

リーに属する。このような交差的な多次元的所属は、地域的、あるいは、職業的な区分など

によって、閉鎖的・排他的になることを避けるために不可欠である。

 

これらはそれぞれ「代表者」(委員)をもつ。しかし、各委員は他の区分にも属さなければ

ならないが、その委員を兼ねることはできない。それらの委員が構成するのが、アソシエー

ションのアソシエーションとしての「センター」(実行委員会)である。さらに、「センタ

ー」にも代表者がいる。「代表者」はどのレベルでも、無記名投票で三人を選んだ後、くじ

引きによって決める。残りを副代表とする。代表者の任期は一年とするが、その間に要求が

あればリコールされる。

 

実行委員会と別に、監査委員会をおく。監査委員会は、実行委員会の経理、運営を監査し、

全員に報告する。また、各支部、あるいはその間での対立やリコールに対して公平に対処す

る。監査委員は任期二年で、全員の投票で選ばれる。

 

NAMは秘密をもたない。ゆえに、重要な議題や争点がすべてのメンバーに知らされる。し

かし、そうしたインターアクティヴなコミュニケーションの経済的負担を軽減するため、各

人がコンピュータをもつこと−−またはアクセス可能であること−−が「要請」される。先

に述べた多次元的所属制もコンピュータによって簡単に処理できる。また、各支部組織は独

立してホームページをもってよいし、またもつべきである。

 

各アソシエーションは財政的に独立し、そのメンバーの合意の上で、会費を定め運営する。

ただし、メンバーは全員、「センター」に年に2,000円の会費(現在の段階で)を納め

る。その会計報告は会員すべてに開示される(各アソシエーションにおいても同様である)。

 

われわれの運動はサイバースペースを活用するが、同時に、人間の具体的な出会いの場が不

可欠である。そのような場として、大阪のスペースAKがある。しかし、これは有限会社で

あり、NAMとは独立して運営されている。当面、NAMの「センター」はここに置かれるが、

各地にこのようなスペースが作られることを期待する。

 

なお、以上は組織原則論であって、一般に、以上の原則が活かされるかぎりにおいて、細部

の修正がなされるべきであることはいうまでもない。たとえば、委員、センター、――など

の名称も暫定的なものである。また、当面、アソシエーションの単位を構成する「一定数以

上のメンバー」は不定であるほかない。三名以上ということでもよい。さらに、「代表者」

に関しても、最初の二年間は小人数であるため、以上の原則を厳密に適用しないでもよい。

最も困難なのは、地域区分と、学生などの階層区分の重複をどうするかということである。

それに関しては、今後に、組織論の再検討・再編成を必要とするだろう。しかし、当面は、

メンバーの所属区分が錯綜していても構わないし、いつでも細目を変更してよい。また、ど

の地域的アソシエーションにも属さない者は、当面、NAM関西に属するものとする。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

■関心対象の区分

 

  a 内在的な対抗運動に関して

 

      環境問題

      労働問題

      消費者運動

      マイノリティ問題

      福祉問題

 

  b 超出的な対抗運動に関して

 

      生協

         LETS

      企業組合(知的所有権など)

      学校・私塾論

 

   c 権力組織論

 

      アソシエーション論

      参加的民主主義論

      官僚制論

 

ただし、これも暫定的なもので、会員の希望に従って変更したり、追加してよい。

 

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

N*M 更新情報

N*Mのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。