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実存主義再考コミュの自己紹介

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トピックを作っておかないとコミュニティが消えてしまう事を学習したので、自己紹介トピックを作っておきます。


僕が初めて読んだ実存主義文学は、ド定番のカミュ異邦人でした。



トップ写真のサルトル、ぶっとび具合がお気に入りです。

コメント(45)

初めまして。
実存主義で検索をかけてきました。

本はそんなに読んでいませんが、参加させていただきます。

個人的には歴史的な背景こそ違いますが、仏教哲学も実存主義的思想を色濃く持っていると思っております。
どーなんでしょう、是非このコミュの方々の実存主義の定義とかを教えて頂きたいです。
それと、何故実存主義が重要なのかっても聞いてみたいですね。

いっちょかみ程度ですが宜しくお願いします。
アンガージュします!

ドストエフスキーの地下室の手記を高校時代に読んで妙に引っかかったことがあり、浪人時代にキルケゴールと出会いました。今はサルトル、ニーチェの本を読んでます。

お薦めの本があったら紹介してほしいです。よろしくお願いします。
大学一年時に「存在と無」を読む演習に参加しておりました。
宜しくお願いいたします。
若年期より長い年月に亘って、後期サルトルの「弁証法的理性批判」を解読しようと苦戦しています。邦訳もあるのですが以前原書をパリの書肆から取り寄せて、幾度と無く中断を挟みながら間歇的に自己流で邦訳しています。近年、晩年の「倫理学ノート」などが発見されたようですが、未読です。書を読む時はその本が書かれた年代が大きな意味を持つと思われますが、「批判」(La Critique de la Raison Dialectique」が公刊されてからもう半世紀近くになります。既に古典に属しますが、自分にとってはいつも新鮮に映ります。
宜しくお願いします。
初めまして

今、サルトルは新しいと思います
はじめまして。。。

今、「壁」っていうのを読んでみたいので探してます。
邦訳ので 手に入るものご存知ありませんか?
500円〜おお〜。
このクリーム色って旧版ですよね。。。

贅沢言えば 新訳のが、、、
あ、すっすいません。
せっかく検索してくださったのに。。。
私はフランス語は全く理解出来ません。故に、サルトルの著書は、翻訳を読むことになりました。能力があれば、原書を読みながら理解することも不可能ではないでしょう。
しかしながら、翻訳を読んでもサルトルの「哲学書」は難解です。一方、平易に著された「文学とは何か」などは、平均的読解力があれば理解できるようにサルトルは気配りをしています。
当時の時代背景もありますが、ある種の作家の欺瞞的著作物を遠まわしに批判しています。サルトルは行動する哲学者(知識人)であり、その意味で実存主義者であると言えます。何度もパリにある自宅アパートを爆破されても、信念を曲げないその姿勢は、行動する勇気ある知識人です。その意味でぶっ飛んでいるかもしれません。彼の斜視は生来のものです。また、彼の叔父はシュバイツアーです。

フランス語翻訳のプロが翻訳した「サルトル全集」以上の翻訳を例え能力があるとしても、かなりの労力と時間を費やすことになるでしょう。いつの間にかサルトルの著書の翻訳に目的がすり替わって、翻訳も理解も出来ずいづれは挫折するかもしれません。

私がサルトルに出会ったのは、高校3年の倫理社会でした。そして、大学一年の時に下宿の先輩の影響もあって以後10数年理解を試みました。その成果は小此木啓吾氏の講演があるときは、精神科の心理カウンセラーと一緒に出かけ、質問の時間には実存的精神分析による、持論の展開などをしました。

サルトルの理解度によって、その優劣の差が出るのは明らかです。例えば、「実存主義」と「構造主義」はどちらが優れてい
るか?それぞれの擁護派の質で論破し論破されるものです。
私個人的には「構造主義」は「構造学」と呼ぶべきだと思っています。「実存主義者」の代表はサルトル、一方「構造主義者」の代表は?この世界に対して何らかの行動を起こして影響や変革をした人物を私は知りません。

また、日本にもボーボワールと共に来日しています。サルトルは日本に非常に興味を持ち、東大で教鞭をとりたかったらしいですが、当時の日本の右翼系知識人が反対して実現しなかったようです。

サルトルの偉業はベトナム戦争終結後、国際裁判法廷の裁判長になり(引き受ける法哲学者がいなかったので)、アメリカに有罪判決を下し、満場一致の賛成を得たのである。

1980年のその早すぎる死は世界に落胆を与えた。彼は中東問題にも詳しく、少ないが著書もある。


>森の住人さん

書き込みを興味深く拝読しました。
先蹤たちが翻訳した「サルトル全集」(人文書院だったように思います)に拘わらず、少なくとも「弁証法的理性批判」を原著から自己流に訳してみようと思い立ってから数年になります。理由の一つは若い頃(多分今でも)、同書の邦訳を読んで、小生の読解力不足もあって、さっぱりわからず、また、同書が後期サルトルの代表作であることもあり、原書を読んでみたいという衝動によるものでした。(卑見では、中期の「存在と無」は、近年装丁も新たに新刊され、訳者のご苦労による具体的で豊富な訳注もあり、こちらの方は邦訳で一応自分なりに理解できたと思っています。)

高校生の頃、サルトルとボヴォワールが来日した時、東京三田の慶応大学に講演を聴きに行ったことがあります。受講した教室ではボヴォワールの講演の中継でしたが、今では記憶にありません。(日本について「読むと観るではえらい違いだ」と当時サルトルは語ったようです)。

時事問題の「シチュアシオン」集など(邦訳です)も懐かしいのですが、昔、手放してしまい、再入手して読む時間や機会も今では乏しいです。

取り合えず、「弁証法的理性批判」の内、既訳の訳本を手本にして、序論の部分の比較的分かりやすい「方法の問題」(La Question de Methode)は、数年前に自己流に訳し終えましたが、本論の部分に入って途中から訳出を今中断しています。ご承知かも知れませんが、「方法の問題」はそれ自体で完結した別の題名の論考を改めて、「批判」の序論としています。そういうわけで浩瀚な「批判」の原書二冊も埃を被ったまま、書架の片隅に眠っています(笑)。

構造主義については、小生は読んでいません。(若い頃レヴィ=ストロースなどを繙いた記憶がありますが、今では全く記憶の埒外です)。そういうわけで、少なくとも小生は構造主義については何も語る資格はありません。サルトルの「批判」で手一杯の状態です。仏語の知識も薄れる一方の歳になり、訳了できるかどうかも分かりません。ご指摘の様に挫折するかも知れませんが、機を見て、訳出を再開できればと願っています。
>Aigle642さん

はじめまして。何か失礼なことを申しましてて恐縮です。
若い方かと思いまして...

私は率直に言ってサルトルを尊敬しています。しかしながらそれは、宗教の信者のように盲目的に彼を崇拝することではありません。

「存在と無」(全3巻)はそれぞれ2冊買いました。赤線を引きまた書き込みなどをして本が読めなくなってしまいました。
また、まっさらな新装訂版を読み返してみたいと思います。

サルトルがその後「倫理学」として我々に与えたのは、この「弁証法的理性批判」でした。これも各2冊づつ買うことになりました。「倫理学」は難しく、カント哲学のように「こうあるべし!」とか「なすべし!」とか言えませんね。その微妙な表現を解き明かすことが、我々に与えられた宿題だとおもいます。

サルトル哲学はラジカルに批評するので、批評された側はたまったものではないでしょう?故人でさえ容赦ありません。間違いを徹底的に暴くので、暴かれた人の著作は無価値なものに思えてしまいます。ヘーゲル、カント、ハイデッがーなど数え切れません。加えて、沢山の文学者、心理学者、精神分析学者など...

サルトルが日本で教鞭をとっていたら、今日的日本ではなかったでしょう。体制側に味方した知識人を軽蔑します。しかしながら、サルトルがマルクス主義に接近したのは、間違いふだったと思います。哲学は時代の申し子ともいえますが、マルクスの経済学など理解できないわたしでも、「今までの哲学者は世界をいろんなふうに解釈してきた。だが、問題は世界を変えることだ。」この有名な言葉は忘れません。

サルトルの哲学には引用が非常に多く、それを理解しないと前に進めないこともありました。また、サルトルだけが哲学ではありませんし、先人に学ぶことも必要だと思います。例えば、万物の根源は水であると言ったタレスに始まり...

学生時代第二外国語でフランス語、中国語をとりましたが挫折しました。英語は今でも話せますし、実は私の家族はアメリカ国籍でオハイオ州在住です。私も昔、英語で書かれたサルトルの「シチュアシオン」を読んでみましたが、ややこしくてやめました。

私の思考言語は日本語であり、もしこれが英語になれば理解できるか否かは別として、読むことも可能でしょう?
日本の場合、洋著の翻訳者がそのままその評論家、その専門家になるケースがほとんどです。

構造学(主義)について私もあまり大きな口はたたけませんが、「実存哲学」及び「実存的精神分析」が自己を中心にそし
て外界に向かって分析するのに対し、「構造学(主義)」はあらかじめ外界を設定しそこから内側へ自己へと分析する学門と、誤解を恐れずに言っておきましょう。これが決定的相違でしょう?

私は学生時代、よく神田の古本屋に出かけました。アルバイトもしていたので、掘り出し物がけっこうありました。今は出かける機会もなく、また行動する人間でもありません。

現在の趣味はバイクで北海道の林道を調査して、既成の北海道林道ガイドを打破すべく、毎年夏にクマに怯えながら北海道の林道を走り回っています。また、北海道の公官庁、市町村などを取材し協力を頂いています。既成のものは間違いが多くまた紹介すべきものも紹介しないルーズさもあります。
これは私の反骨精神の成せる業であります。

私は決して無神論的な立場ではありませんが、自然には大いに畏敬の念を抱きます。


敬具
>森の住人さんへ

拝復、

小生の場合、以前に書きましたように晩年の「倫理学ノート」はまだ入手もしていず、読んでもいませんので、何とも意見を述べられません。

昔、邦訳の特に「シチュアシオン」集などを読んだ際、ご指摘の様にサルトルの場合、ラジカルなスタンスの哲学者だったので、時論であることも手伝って、歯に衣を着せず、反対意見を一つずつ頭から切り崩してゆく論法だったように記憶しています。

初期の哲学論文集や「存在と無」に見られるように、サルトルの著作にはモノグラフや比喩などの引用も多く、これが難解である一つの理由になっていると思います。

著作の把握に当たって言語を問わないのは勿論ですが、小生の場合、聊かの仏語の知識で原意をつかめればと思って長い中断を挟んで、間歇的に「批判」を訳出している次第です。上に書きましたように、小生の思考能力では邦訳の「批判」はさっぱり分かりませんでした。例えば「了解する」(comprendre)というキーワードの動詞一つも、恐らく訳者の方(数年前に物故した平井啓二氏)の解説にあったようなディルタイの心理学上のverstehenという独語から由来した、強いて言えば「追認」の意味合いの様です。

陽明学に「知行合一」という標語がありましたが、サルトルの場合、ご指摘の様に行動する知識人でした。アルジェリア独立に際して「アルジェリアに平和を」と呼号してモンマルトルの丘を駆けていった逸話も残っているのを記憶しています。記憶が正しければ、「批判」が公刊されたのが1960年、東西のイデオロギーの対立が酣だった頃の事です。マルクス主義との関連では、「批判」の序論「方法の問題」の中で、彼は自分の哲学を「マルクス主義」という「哲学」に対する一種の「飛び地」として自己の実存主義を捉え、自分を「イデオローグ」(思想家)と記しています。(勿論、マルクスの「哲学」とは一線を画していますが、単なる「唯物論」ではなく「史的唯物論」こそが唯一の哲学である趣旨を書いていました)。また、時代の文化的中心となる興隆期の階級の世界に対する態度を「哲学」と規定しています。しかし、そのように「哲学」を規定することが正鵠を得たものかどうか小生にも分かりません。1960年に公刊された著作が2007年にどれ程の意味を持つものなのか、その点も久しく疑問点を感じています。(この事は勿論思想なり哲学の時代を超えた普遍性を否定する訳では無いのですが、現在の世界と当時を比較すると隔世の感がして、小生の場合、以上の疑問を多少自問しています)。

中期の「存在と無」から後期の「批判」へは、個人から集団へ、集団から歴史へという「批判」の基因ともなるべき彼の戦時体験が介在しますね。engagment (政治的参加)の発想も戦後になってからだったように思います。現在の小生の様な歳では単なる懐旧に過ぎません。

構造学については先に書いたとおり意見を述べるほど読んでいません。従ってご指摘の「外界」から内側の自己に向かうという点も何とも分かりません。

私事に亘りますが、小生の場合、学生時代第二外語は仏語と独語でしたが、独語の方は挫折しまして、現在に至っております。小生も学生時代、暇さえあれば神田の古本屋を渉猟したのを思い出します。

年齢のせいもあり、現在の仕事以外の趣味は読書や音楽を聴いたりする位で、至って静観主義的です。

小生は、宗教及び宗教家を否定するものではありませんが、著名な諸宗教を会得するほど関心がありません。その意味では無神論かも知れません。仮に「史的唯物論」から議論を出発させると、「一切の宗教は民衆の阿片である」というマルクスがどこかで述べていた有名な言辞を想い出します。

ご趣味から拝察すると自然に親しむ機会が多いようですね。

加齢のせいか、小生なども漱石の「草枕」に親しみを覚えます。「自然への情感主義」という用語を昔ある学者が使っていましたが、娑婆の労苦に疲れると自然の豊かさに興味が移ります。唯、サルトルの実存主義の立場からすれば、「この宇宙で人間の存在が唯一の特権を持つ」となり、飽くまで人間中心主義ですので(「実存主義はヒューマニズムである」)
昨今は自己の内面で少し矛盾を感じ始めています。

以上、蛇足に過ぎませんが、ご参考になればと。擱筆。

敬具

 
 はじめまして、ウォームアート (war.) といいます。
最近、管理人になったコミュニティに関連するコミュニティを探してて、こちらを見つけました。
皆さんのコメント(?) を参考にさせていただくつもりです。
よろしくお願いします。
どうぞ気軽にページを踏んでくださってかまいません。

 ところで。
実存主義へ多大な影響を与えたといわれる、ドイツの近代哲学者マルティン・ハイデッガーの主著について、読書会を開こうと予定しています。
よろしかったら一緒にやりませんか? ^_^

『「存在と時間」ネット読書会 “本を手に街へ出よう!”』
http://m.mixi.jp/view_event.pl?id=22840477
 
はじめまして
実存主義は学生のころパスカルから始めました
人間とは考える葦である のパスカルです
唯神論的実存主義ですのでキリスト教信者で在りながら
実存主義者と少し矛盾があります。
実存主義のくくりでコミュニティは難しいのかな、
ニーチェのコミュニティは結構盛り上がっていますが。
そのころニーチェ、フロイト、ユングと読んでいったのですが
サルトル、ハイデッカーとなると難かしかったです。
そのころは フロムの「自由からの逃走」とか
フランクルの「夜と霧」リースマン「孤独な群集」
なんかを教科書よりも熟読していました。
あのころのような、哲学、心理学、社会学のベストセラー
は最近ないですね。
初めまして
多分実存に触れたのは中学の頃だっと思います何を読んだわけではないのですが…
それが実存だと知ったのはつい最近です、勉強のためにコミュニティに参加しました
何も知らないで大きな事は言えませんが
哲学は一握りの知識人の物であってはいけないと考えております
よろしくお願いします
初めて。
実存主義はサルトルの嘔吐 壁 水入らずや批評論評をみた時から漠然と自分 生活 実存と関連づけて考えておりました。
あえて今実存とは何かと考えてさせてもらえるこのコミュニティーに感謝します。 マイミクよろしくお願いします。
はじめまして。

実存主義哲学は結構好きです。
特に、ニーチェから実存主義に興味を持った者です。
その他、キルケゴール、ヤスパース、サルトル、ハイデガー
※ハイデガーについては疑問視する声が多数ですが・・・

今はカントだけでてんぱっていますが、だんだんと実存主義に
ついても知識をつけていきたいと思っています。


実存主義を教育に導入する試みもされるべきだろうと考えている
ものです。
実存主義は、多くの営みに適用可能な、リアリティをもったもの
と確信しています。
よろしくお願いします。
はじめまして。
ニーチェ、ドストエフスキーを経て、最近キェルケゴールの哲学に惹かれました。一番関心のあるのはラカンの精神分析なのですが、それを実存で読もうとしてしまいます。それって正しいんですかね(汗)

実存は、「この世界に存在していること」と自分の中で理解していますが、それには二種類あるような気がします。一つは、この時空間に存在してしまっていること、そしてもう一つは他者との関わりの中で存在すること。この分け方が適切かはわかりませんが、私は後者の意識がとても強いです。他者に認識してもらうこと、、これが私にとっての実存です。
「実存」というキーワードは今でも考えるに値するものだと思っています。

よろしくお願いします。
はじめまして

実存主義を思うとき、最初に頭に浮かぶのは
宮澤賢治のあの序文です。

 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 一つの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといつしょに
 せはしくせはしく明滅しながら 
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です

"仮定され"ている状態とか
直流ではなく交流であることとか
"風景やみんな"は他者のことのようで
それらが明滅しあっている様はまさに
実存する自己から垣間見える世界
そのもののように私には直観されます。
(既に何かに書かれていることかもしれませんが)

みんなと一緒に明滅する様子が
いかにも賢治らしい楽しそうな雰囲気で
そんな愉快な実存の世界って素晴らしいなというのが
私の中の実存主義です(笑。

哲学としてはあまり分かりませんが
宜しくお願いします。
はじめまして、最初構造主義から入ったのですが、
ハイデガー、ニーチェなどに盛んに言及されていて、実存主義に興味を持ちました。
まだまだ至らない点もありますが、宜しくお願いします。
京都の大学生です。
普段はできないお話をこういった場を借りてさせてもらいたいと思ってます!
よろしくお願いします(^-^)
>>[005]

>お気に入りはロロ・メイの『失われし自我を求めて』です(実存主義心理療法の大家)♪


ロロ・メイを読まれているなんて素晴らしいですね。
ぼくも実存主義心理療法家の著書は大好きです。
  初めまして。宜しくお願いします。

  *「エッセイ(空・仮・中)」を一つ加えましたので、
   ご覧戴ければ幸いです。

  下記、HPの仏教タイムスの二つの「エッセイ」で、一応、「空」が
  分かります。御参考戴ければ幸いです。

  http://ww4.enjoy.ne.jp/~okano11/

   「縁起・無自性・空」、「空・仮・中」(中道)
実存主義文学だとされる、椎名麟三。面白いよ。ドストエフスキーも黒い実存主義者と言われていたけども、いまやあんま言わないですよね。

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