(第17段落)さて、今までは、哲学体系の核心部分に直観があるということが述べられてきたわけですが、この段落から、ベルグソンは、哲学と科学の違いに述べていきます。そのことによって、哲学的な見かた即ち哲学的直観の独自性を示そうとするものです。 ベルグソンは1859年生まれでしたから、ベルグソンが育ったのは、まさしく19世紀後半の科学が飛躍的な進歩を遂げた時代だったわけです。この時代に至って、明確に科学は、従来の「自然学」ではなくなり、philosophieから切り離され、「自然科学」としての自己主張を始めるわけです。かつてはデカルトは自然学者であったし、ニュートンは自らの学説を哲学と名づけたように、哲学者が科学者を兼ねるということが出来なくなってきます。それだけではなく、自然科学自体がおのおのの分野で飛躍的な発展を遂げるため、自然科学者は、かつてのアリストテレスのように、すべての知に通じた総合的自然科学者たりうることが次第に不可能になってきます。 しかし、とベルグソンは言いますね。「それでも哲学者が普遍科学の人間であることに変わりありません。それは、たとえあらゆることを知ることが不可能であっても、哲学者が学んでならぬものは何もないという意味においてです。」(le philosophe reste l'homme de la science universelle, en ce sens que, s'il ne peut plus tout savoir, il n'y a rien qu'il ne doive s'être mis en état d'apprendre.) これはつまり、哲学者の真理追及の作業において、自然科学の成果を利用してもいいということを意味します。しかし、それでは、哲学的な見かたを保持したまま、自然科学と切り結ぶことは、どのようにして可能なのでしょう?この段落において、ベルグソンが批判しているように、個別科学(les sciences particulières)の成果を哲学がそっくり譲り受けて、それらを総合化することは、科学的な見かたの延長線上に哲学というものを考えていることにしかなりません。そのような知のあり方を否定するものではないが、それはあくまで科学にしかなりません。そのような知を備えた人間は、学者=物識り(un savant)であるかもしれないけれども、哲学者(philosophe)ではない。(on les dise philosophes, que d'ailleurs chaque science puisse et doive avoir sa philosophie ainsi comprise, je suis le premier à l'admettre. Mais cette philosophie-là est encore de la science, et celui qui la fait est encore un savant.) この段落はベルグソンが親しんだというスペンサーの綜合哲学に対する批判となっているのかもしれませんね。
(第18段落)そのように、個別科学の諸成果をそっくり貰い受けてそれを総合化することのみを哲学の役割としてしまうことは、科学に対する侮辱となるだけではなく、哲学そのもにに大しても大変な侮辱となるわけです。なぜならが、科学の方法の延長線上に哲学を位置付けたところで、哲学の仕事の独自性にはなんらつながらないからです。個別科学の成果を見つけたところで、科学者の仕事が終わるならば、そこから先は、科学的な見地からはまったく不確実な世界なわけで、まったく同様の科学の方法でもって、そんな不確実な世界を相手にしていたら、いつまでたっても確実性は得られず、まさしく、「確実性の終わるところに哲学が始まる」( la philosophie commence là où la certitude finit)と言われる始末になるのです。それでは、学問とはいえなくなってくるわけです。これは哲学そのものを無意味化してしまうことになりかねない。だからこそ、哲学の役割は、科学的方法とはまったく別の方法によって、確実な確からしさが得られていなければ、意味がないのです。その別の方法が、哲学的直観なわけです。 ところで、ベルグソンとまったく同時期にベルグソンとは別の観点から、科学的方法と峻別して哲学の方法を打ち立てた人物がいます。フッサールです。フッサールは、科学知そのものがどうして可能なのか、科学知そのものを可能にしているわれわれの経験の地盤はどんなものなのかを根底から問い直すために「現象学」を提唱したわけです。厳密な学としての哲学の方法はこの現象学的方法でしかありえない。科学知というのは、一種の自然的態度なのであるから、これを判断停止し、現象学的見かたができる主観性の領野に還元(現象学的還元)するわけです。このような領野において、どのように知が形成され、確実性(明証性)が確立されるのかを問うたわけです。フッサールもその領野を調べるにあたって方法論的に「直観」を採用しますが、その「直観」はベルグソンとはまったく正反対です。フッサールが問題にしているのは、この領野における<本質>即ち形相をどうやって「直観」するかですから、その追求の行き着く先は、ある意味では、プラトン的なイデアリズムになってくるわけです。ベルグソンの直観は、これらの<本質>や形相の向こう側を見ているわけですから、この二人の求めているものはまったく違うわけです。