(第4段落)ここは前の段落を受けて、相互浸透によって、諸要素が一点に統合してくるところに非常に単純なものが見て取れるというわけです。そして、この単純なものが、その哲学の核心なわけです。これは、概念や言語を越えたものであるので、その哲学者がこの核心を摑んで、概念や言語によって表現しようとすると、大変な困難を要し、表現自体も複雑化せざるを得なかったというわけです。ベルグソンは持続を表現するのに光のスペクトルの比喩を用いていますが、これを様々な色のタイルでできるだけ正確に再現しようとすると、もともとは連続的なものだから、タイルを可能な限り細かくして、多くのタイルを使おうとするでしょう。それと同じことを言っているわけです。そしてここで「直観」(intuition)という言葉が出てきますね。即ち直観とは、概念や言語を越えて、その向こう側にある単純なものを見ることなわけです。それにしても、quelque chose de simple, d'infiniment simple, de si extraordinairement simple que le philosophe n'a jamais réussi à le dire.(なにか単純なもの、無限に単純なもの、あまりにも単純なので、哲学者それを言い得ることが出来なかった。)とありますが、とても詩的な表現ですよね。ジャンケレヴィッチの美しい著書『仕事と日々・夢想と夜々』のある章名にそっくりこの言葉が採用されています。「そこで彼は生涯かたり続けたのだ・・・」という句も引用されます。そしてジャンケレヴィッチはこの無限に単純なものを薔薇に喩えて、次のように語ります。「約束されていた薔薇はここにある。やっと、ここにある。ところがこの薔薇は、私にとっては、同時に誠実な伴侶であり、私はこれを守り、隠し、そして、それにふさわしいものにならなければならない。絶え間なくそのとげを取り払う必要がある。その香りをかぐのを妨げ、その美しい色を妨げるものを絶え間なく取り除いてやらなければならないのだ。その度に、ふたたび始める必要がある。絶えず見つけ出し、絶えずまた見失う伴侶・・・・。」
(第5段落)さて、ここでまたとても重要なことばが出てきますね。即ちimageです。これは、「具体的な直観の単純性と抽象的複雑性の中間にある媒介的なあるイメージ」(une certaine image intermédiaire entre la simplicité de l'intuition concrète et la complexité des abstractions)です。この仏文は前にも出てきましたけど、la simplicitéとla complexitéがとても明確な対照をなしていますね。前者は、直観によって近づきえたという言語や概念を越えた何かですが、後者は、既に出来上がった概念や観念、もうすこし一般的に言うと言語のことです。我々が近づきえた単純なものは、imageとなって、我々の精神のなかに形成されるわけです。しかし、このimageは言語ではない。つまり単純性以下、言語以上のものですね。「それは捉えがたく消え去りやすいイメージですが、哲学者の心におそらくそれとは知られずに付きまとい、彼の思索の曲折を通して影のように従ってきたものです。」(image fuyante et évanouissante, qui hante, inaperçue peut-être, l'esprit du philosophe, qui le suit comme son ombre à travers les tours et détours de sa pensée)という表現も先ほどのジャンケレヴィッチの薔薇の喩えに対応した美しい表現ですね。 さて、ここでは、ふたつのことを指摘しておきましょう。?ここで言われている単純性の影のimageは、『物質と記憶』での「物質とはimageの総体である」と言ったときのいわゆる「イマージュ」とは違うものなのか?あるいはどのような関係にあるか?訳者の三輪氏はわざわざイメージという訳語を当てていますがこれは適切だと思います。実際に、ここでは心に思い浮かんだことといった意味合いに近いです。だがそれにしてもイマージュとは無関係ではない。僕もこの点について、今すぐにうまい説明ができないので、宿題ということにして、先を読みながら考えることにしておきましょう。?ここでいう、イメージの層というのは、僕達の知覚を構成している言語、概念、記号等(現象学の言葉を使うと「本質」)といった表面的な層のさらに下層のことを指しています。ベルグソンが、戦後フランスを中心にして流行した現代思想のように我々の意識や知覚のすべてを言語(langue)に還元する立場と鋭く対立していることがわかります。意識には言語や記号では汲み尽くせない何かがある、人間の発想の独創性はここから生じてくるのではないか、と言っているわけです。だから、記号や概念に頼るよりも、このイメージに頼れといっているわけです。
(第6段落)この段落はゆったり読めますね。先のイメージが否定の力を含んでおり、その源泉である直観をソクラテスのダイモニオンに喩えます。ソクラテスが行為をするときに、ダイモニオンの声は禁止という形で聞こえてきます。ベルグソンも直観をこのような内なる声としてとらえます。ある知識、命題、観念について、Impossible(ありえない)と否定的に判断するわけです。それにしてもなぜ否定なのか?これは、このイメージやそのもとである直観でとらえられるものというものが、既成の言語や観念の及ばない層に属するものだからです。だから哲学者は固形物である言語によって、もともとそういったものとは異質であるこのイメージを表わそうとするわけで、その際どうしてもこのイメージをゆがめてしまう。ただ、そうした概念や観念にしても、イメージに近いものと遠いものとがあるわけで、もとと似ても似つかないものは、きっぱりと拒絶されるわけです。これが否定の力なわけですね。だから、Plus tard, il pourra varier dans ce qu'il affirmera ; il ne variera guère dans ce qu'il nie. Et s'il varie dans ce qu'il affirme, ce sera encore en vertu de la puissance de négation immanente à l'intuition ou à son image.(肯定するものにおいては、意見を変えるかもしれないが、否定するものにおいてはほとんど意見を変えない。そして、肯定するものにおいて意見を変えるにしても、直観ないしはイメージに内在する否定の力によるものである。)と興味深いことを言っていますね。
さて、放談です。ベルグソンは、彼がここで言うとおり、その体系の中心は実に単純であり、生涯にわたって一つのことしか言わなかった哲学者であることは異論の余地がないでしょう。しかし、その他にベルグソンに匹敵するような哲学者がいたでしょうか?近代では、デカルトやルソーは明らかにこの類の天才ですね。またドイツではカントがそうです。しかし、少なくともベルグソンの時代についていえば、このようなひとつの単純な中心をもつ哲学を生んだ大物がもう一人います。即ちアランです。ベルグソンほど華麗な存在ではありませんし、その生き方もまったく対照的です。しかし、その哲学は、実に美しい体系をなしており、その中心に非常に明晰な単純性をもっています。しかもそこから多くの新しい発想が生じており、よく読んでみると、実存哲学だとか、記号論だとか、現代思想に通じるものがいろいろと出てくる。見ようによっては近代の哲学史をひっくり返すような革命性を確実にもっています。特に日本の思想界では、その著作の訳者も含めてそうなのですが、アランというと、人生論風な哲学者、モラリストでことさら独創的な体系をもっていないと評されていますが、とんでもない誤解で、ベルグソンとともに、フランスのみならずヨーロッパの同時代のどの哲学・思想をも凌駕しています。こうしたアランの思想の独創性、革命的側面は、アンドレ・モロアも言ったように、その主著Système des beaux-arts と Eléments de philosophieを調べればすぐにわかります。まさに、その哲学者の内側に身を置かない限り思想の正確な理解はできないというベルグソンの主張を見事に裏付けるよい例です。