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八戸せんべい汁推進委員会コミュの啄木は麦煎餅と書いた

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 ことしの4月13日、函館啄木会主催の啄木忌で「啄木と南部煎餅」という題で、講演というにはいささか心許ないのですが、1時間ほど話してみました。
 ここで公開しようと思っていたのですが、忘れていました。今あることを捜していたら、出てきたので送ります。検索のやり方と結果については、入りきれないので別に書きましたので、そちらも読んで下さい。

 13日分。JRで函館に10時過ぎに着いた。法要が午後2時、小生の講演は午後3時からなので、ぶらぶら勝手知ったる道を歩き、総本家千秋庵へ行った。
 その前にJR函館駅の横の東横イン函館朝市へ寄り、早すぎるチェックインをして前払いして驚いた。会員専用というツインに泊まったせいか、2人で1泊5000円から10円お釣りがきた。シングルに1人泊まるより2人が安い。これで無料の朝飯と晩飯をまともに食べられても大丈夫なのかね。でも韓国釜山に初進出とキャンペーンをしていたから、経営はうまくいっているのだろう。
 千秋庵へ行くのは、葛柏のことを教えてくれた佐々木さんに講演でぶたせてもらいますぜと仁義を切るのが主目的。お土産を先に買い、包んでいる間に店内を見回したら、明治24年2月改正(!)の「函館有名一覧」という番付と古い地図が張ってあった。一覧は店なら1業種1店で、当然菓子屋は千秋庵。ただ1業種といっても思いつきみたいなもので、トップから示すと慈善家 財産家 金満家、漁業家、豪商、孝子、貞婦、智者、才子、弁士、博士、高齢達者、多子という具合。高齢達者は95歳の女、多子は16人とあった。夜の方では全盛娼妓と方正芸妓、芸妓と3種あり、小生にはこれら3者の違いがよくわからない。
 これを見ていたら、コピーでよければ差し上げるとのことなので遠慮なく商店街の地図と一緒に頂いた。こういうところが老舗と普通の店の違いだ。地図は千秋庵を含む一帯で、小生がいたときの電車の路線がまったく違うから、戦前の商店街図のようだ。
 佐々木さんは店とは離れた工場にいるとのことで、店の電話で話し、小生の怪しい名刺を置いて辞去した。そこから凾館公園が近いので、また歩き、ぶらぶらと公園を抜け、そう離れていない市営温泉でも行こうかと博物館の前を通ったら、本日は無料開放というので、時間つぶしにいいし、100円もうかったと入館した。
 端午の節句と花見シーズンらしく弁当箱コレクションと武者人形を公開していた。花見用の重箱セット、アルミのドカベンやおかず入れ、極細の柳で編んだ弁当箱、花見団子の包み紙など、どこかに残っていた面白いものだった。
 帰り際に窓口でジンギスカン鍋はないかと聞いたら、学芸員が出てきて、うちは持っていないといった。弁当をこれぐらい持っているのにそりゃ残念。函館は明治13年ごろ肉屋の広告に羊肉があるぐらいで先進地なのだからありそうなものだ。まあ、見かけたら連絡してと小生の鍋の絵付き名刺を出して、少し雑談した。
 彼は佐藤という名前で、私の生まれたところでは馬を食う習慣があるという。訛りからして東北系だし、どこかと聞いたら五戸というではないか。おいおい。おいらは八戸東高校のOBだよと改めて仁義を切り、そこからは五戸煎餅の話。直径が子供の頭ぐらいの煎餅もあったとか、農作業の時、煎餅に交ぜ御飯を乗せて渡すのが子供の役目で、煎餅好きにはまた煎餅を蓋のように載せて渡したというようないい話だった。
 それから近道を通り、啄木忌の会場、地蔵堂に着いた。あんまりうまく歩いたのでコンビニに出会わず、テープと電池を買うのを忘れていたことを後で思い出したくらい。
 午後1時前で法要までたっぷり時間があるので、そばを食べてくるからといったら、車で先生(小生のこと)をお連れするという中高年婦人がいて、いいからというのに、一度来たことのある近くのそばやまで送り、店の前で待っていて帰りも乗せるという。小生はそこで、もう一度レジメを読み直そうと思っていたのにそれができなくなるし、おまけに長く待たせては悪いと、急いで盛りを食べたら喉詰まりして、危うく啄木忌が24研忌になるところだった。
 地蔵堂に集まったのは常連と思われる20人ほど。全員60過ぎらしく安心した。婦人の多くは、正座ができないので尻を持ち上げるだけみたいな椅子座りしていた。読経と焼香の後、啄木一族の墓まで行き、もう一度焼香するのが慣わしで、天気がよくて助かった。住吉の濱から大森濱までよく見渡せた。
 戻ってロの字型に並べた折り畳み机を囲んで着席した。スクラップブックのようなものを拡げている御仁もいたが、年相当にぼけていることを期待した。さすれば老人学級のようなもので、聞く傍から話は右から左へ抜けるはず。テレビや新聞記者は7人きていたようだ。道新は名前に見覚えある女性カメラマンが1人と見習いの女性カメラマン2人組だった。
 小生はまず、いまの調べごとははインターネットによる情報検索が非常に重要だと強調した。インターネットで蔵書の検索ができない図書館はないも同然なのだといってみたが、出席者はピンと来ない様子なので、これでは少しホラを吹いても大丈夫とみた。
 私は以前南部煎餅を調べて「汝、南部煎餅を愛せよ」というホームページを作った。それは新幹線が盛岡まで通ったとき、盛岡の煎餅屋が団結して、岩手、盛岡が本家だ、盛岡土産は南部煎餅だと宣伝したお陰で、本当の発祥地は八戸だという歴史が忘れられてしまった。それで八戸こそ煎餅の発祥地であることを声を大にしなきゃならんのに、八戸市の公式ホームページはせんべい汁を取り上げ、煎餅本体をちゃんと取り上げていない。けしからん。それで私がインターネット上で煎餅の資料をみせることにすると作った。
 歴史が古いという証拠のひとつに、市立図書館の歴代司書がためた煎餅の新聞記事の切り抜きを公開し、かつ地元の中里進という人の煎餅史の論文を掲載した。そのとき、ここに居られる岡田弘子氏にある質問をし、さらに6年前この啄木忌の供物の定番である南部煎餅を取り上げようと参加したことがあった。
 それでおととし、今回の演題で頼まれた。しかし、煎餅の話はできるけれど、啄木とのつながりは材料がないから、待って欲しいといったら、それでは再来年、つまり今回ということになり、小生はこの猶予期間中に取材することができた。渋民に行き、啄木の小学校では記念館の館長の授業も聞いてきた。それにしても、ただ啄木と煎餅では、たいした材料は見付からなかったことは間違いない。
 まず啄木が煎餅という言葉をどこで書いたか。これこそ検索あっての話で、青空文庫というインターネット上の文庫にある24作品のうちの7作品にあり13箇所出てくる。ほとんどが麦煎餅と書いており、ことに「雲は天才である」では「名物の八戸煎餅」と出てきたのには私も驚いた。煎餅と書いている箇所が3作品にあるが、これは東京の話とか、非南部衆の目で見た煎餅のことと書き分けたことがわかる。
 それから吉田孤羊を調べた。啄木で飯を食ったような人だが、その吉田が昭和4年に岩手日報に「南部煎餅と啄木」という記事を書き、その原文が盛岡のてがみ館という博物館のようなところに保存されていることが検索でわかった。それでコピーを依頼したら、岩手日報に頼めといわれ、それを取り寄せた。すべてインターネットでやったことであり、インターネット以前の郷土史は全部検索で再検討すべきだと私はいいたい。
 ともかく吉田の記事は長い割に中味がない。吉田でさえ、私が取り掛かる前に知っていた函館で仲間が集まるとき煎餅を食べながら議論したという程度しか書けず、東京人は南部煎餅はまずいくいものだとわれた話を書いている。これは小生が出た八戸東高の南部泰校長も東京高師の学生時代の話とまったく同じだ。南部という姓が示すように南部校長は藩主の南部家につながる人だった。吉田は啄木の歌は硬い南部煎餅の味と同じく、よく噛みしめないとわからないと結びつけている。吉田でさえこの程度しか知らないとわかれば、私の講演はあまり面白くなくてもやむを得ないとのだと、うんと気が楽になった。
 いま私はジンギスカン料理のことを調べており、世界でもトップクラスの研究者なのだ。証拠はあの鍋は勿論、日本で発達した料理法であり、国内で歴史などを本気で調べている人間は5人いないからだ。私はこの研究をやっていたから、きょう話す材料が集まったのだ。啄木だけ調べていたら、この辺で話は終わらざるをえなかっだだろう。
 例えば私は三島の日大国際関係学部に2回行き「食道楽」という雑誌を調べた。そのとき橋本徳寿という人物が「天民の短歌」という一文を見付けた。ジンギスカンと関係なさそうでも一応読むのが私の遣り方であり、読んだら義兄の松崎天民が啄木から贈られ、愛蔵していた「一握の砂」を吉田孤羊が借りだし、返さず仕舞いにしたというではないか。とんでもない悪いヤツだと書いてある。検索すると橋本はアララギ派の歌人で歌集のほかに船の本も書いたことがわかる。これは天祐だった。
 吉田はある本に、函館へ行ったら、ここに居られる岡田弘子さんが3歳のときで、かわいらしいと書いている。また別の本に、慶応の図書館学科で同級生だったと書いている。つじつまが合わないが、ほんとですかと司会の岡田さんに、その場で質問したら慶応のは短期の講習会だとの答えだった。吉田が書いたものを追跡すると、原文通りでなかったり、日付がいい加減だったりで、橋本から言えば悪いヤツであり、まあ、彼の書いた物にはマユツバの部分があることは確かだろう。
 私の作っているジンギスカン研究のホームページは「現場主義のジンバ学」というのだが、それに知ったことは全部書き、公開している。学者だとこうはいかないかもしれないが、公開することにより、まれに奇特な読者からメールがくることがある。本当のことだ。
 その一人、仮に東京T氏と呼ぶが、その東京T氏からどっさり資料を頂いた。ジンギスカン関係だけでなく「食道楽」の編集者、松崎天民の資料も頂いた。橋本の話までだと35分で終わるが、東京T氏から、さらに平野英雄という人が2月に「啄木と朝日歌壇の周辺」という本を出し、白面郎という朝日歌壇への投稿者が天民だと証明した。その記事が朝日に載っているというメールをもらった。
 調べたら、それは全国の紀伊国屋に1冊もない本だった。インターネットを知らないと変に思うだろうが、紀伊国屋を検索すれば、一発でわかることなのだ。これで10分ぐらい、講演を延ばせるとみて、私はすぐ取り寄せた。読むと平野さんは天民の書いた「記者懺悔人間秘話」という本1冊と、天民の古里の郷土史しか読んで居らず、それらに発見のきっかけになった朝日の連載記事「寄席印象記」という題名が含まれているので白面郎は天民に「間違いない」と書いていた。その程度でいいのか。現場主義的には不十分だと思う。
 啄木が選者を務めた朝日歌壇で白面郎の歌は注目されており、以前から啄木自身ではないかという説はあったことが別の本からわかる。平野さんは「寄席印象記」を書いた記者の雅号が白面郎であり、その中に含まれている記者の生い立ち情報から、この白面郎は岡山出身と見当を付け、天民にたどり着いたという。
 天民が書いた本を調べると、沢山あって、その中の「人生探訪」という本に天民が朝日時代に書いた連載記事が載っており「寄席印象記」もある。朝日の縮刷版と照らし合わせると、句読点が加えられているぐらいの違いだ。平野さんはなぜそこまで確かめずに本を出したのか。好意的に見れば何か急ぐ理由があったのだろうが、20冊以上ある天民の本を1冊しか調べなかったことは、手抜きととられても仕方がないのではないか。
 インターネットでは、見知らぬ人にメールを出すことは、そう悪いことではないので、私は橋本のこういう文章を見付けているよと平野さんにメールを出したけれど、まだ返事がこない。多分平野という人はインターネットと無縁で研究をしているのだろう。だから、こういう検索してみることがなく、天民は「恋と名と金」という本があり、それに啄木風の短歌がいくつか載っていることも調べなかったのだろう。天民の研究者から「人生探訪」にあるよなどと手紙が届いて、もうわかっていると思う。
 天民は大正9年に北海道旅行をしており、その見聞を北海道毎日新聞に連載している。函館にも来て、さっきお参りした啄木の墓にも詣でている。省資源でレジメに入れていないから、そこを読み上げよう。(暑い日だったそのくだりを少し読む)啄木の墓はこのように、まだ木標だったのだ。それから東京T氏は、天民にはその連載とは別に本に書いているとコピーを送ってくれたので、それを読みあげよう(同上)。1年たってから思い出して書いたものだが、木標の字が少し違うことがわかる。
 それから啄木の1周忌のときの記事を読むと、啄木が函館に来て知った葛柏という菓子も茶話会で出たことが書いてある。いまお菓子の事典などをいくら捜しても葛柏は出てこない。それで私は函館では老舗の千秋庵にメールを書いた。すると、佐々木さんという方が返事をくれて、葛柏という名前ではあるが、ツタの葉に乗せたもので、昭和に入っても作っていた。ツタの葉は山から採ってきた生で、初夏のお菓子だったということだった。
 「近世日本食物史」には、桜餅はかつて粳米で作っていたが、葛に代わったとある。柏餅も葛粉で作った。サンキライという葉に乗せる餅がある。検索するとサンキライの葉で巻いた柏餅と書いている例が出てくる。さらにサンキライとツタの写真を検索すると、どちらもリースの材料になることからわかるように木などに巻き付く伸び方をする。しかし、道南にもあるキヅタという種類はツタのように巻き付かず、這い回るたちのようなので、佐々木さんの言うツタはこの種の葉かも知れない。多分過去96回の講話では葛柏を取り上げた人はいないと思われるので、報告しておく。
 これで啄木のことは終わりで煎餅に移る。南部煎餅のことをいうと、昭和47年の毎日新聞の切り抜きに、盛岡では煎餅は利が薄いことから「煎餅屋は三代続かない」といういいつたえがあると書いている。八戸には100年以上続く煎餅屋がある。どうしてそういう盛岡が煎餅の本家になったのか私にはわからない。
 煎餅のホームページを作って他人の書いたことばかりで気が引けるので、私はかつて煎餅に着いている胡麻が何粒あるか数えてみたことがある。八戸で2番目に古い煎餅屋の最高級品を水につけて溶ける寸前にする。胡麻の皮が剥げないよう丁寧にほぐし、濾紙で漉して数えた。これは根気の要る作業だが、3枚数えた結果、おおざっぱに言って1600粒だった。これはグラムにしたら何グラムか。胡麻を1粒の重さを書いたものを検索したら、道立農業試験場の胡麻の品種改良の研究で1000粒の重量が書いてあった。それを計算すると1粒は2ミリグラムであり、1枚に3グラム強着いている計算になる。名古屋大の大沢教授はセサミンという健康によい成分を1日に採るべき量として胡麻10グラムという学説に従えば、少なくとも南部煎餅を4枚食べるといいという結論になった。
 それから啄木が麦煎餅と書いたのは、その以前はそば粉で作った煎餅が普通だったからだ。小麦粉で焼く煎餅は区別してそう呼んでいたとわかかる。そば煎餅は硬いといわれているが、いまの煎餅研究者は本当にそば煎餅を食べてそういっているのか怪しい。そこで私は麦煎餅との違いを知り、皆さんに正しい硬さを伝えるるために、新得産100%というそば粉で、八戸の物産協会が開発した手焼きセットという煎餅焼きの型を使って焼いてみた。
 この手焼きセットというのは、御覧のように本物の煎餅型と違って強く型を閉じらることができない作りになっている。これはテンポといって、3倍も厚いホットケーキみたい煎餅を焼くように設計されたものであるためだ。それで完全に煎餅を再現したとはいいがたいが、形のよいのだけ5枚持参したので、話の種に囓ってみてほしい。間違ってダッタンそばの粉も買ったので、それでもやってみた。粉の苦みは焼くと消えるけれど、新得粉の方がはるかによろしいが、硬さは入れ歯毀しであることを確かめた。
 それから最新の話題。八戸にせんいべ汁という食べ方がある。すき焼きやおつゆの具に煎餅を入れる八戸でごく普通の食べ方だ。それをPRしようと、八戸せんべい汁研究所、略称をジルケン、汁という漢字に濁点を付けてジルと読ませるふざけたグルーブが生まれ、B級グルメなどで売り出している。
 けさの日経新聞に野瀬泰申という記者がその近況を書いている。事務局長は自称東北のジルベスター・スタローン、仲間にはジルビア・クリステル、ミスター・ジルドレンなどがいて、せんべい汁を出す店が12軒並んだ通りをジルクロードと呼んでいるそうだ。私はすぐそれらの店ではジルバー割引ありとか、煎餅ジルバというステップもできると考えた。事務局長は知り合いなので、帰ったらメールを書くつもりだ。啄木が初めて小説を書いた明治39年から今朝の新聞までのことを話して終わる。

 ということで無事終了。1時間20分やれた。質問があったらと岡田さんがいってくれたが、皆何の話だったか忘れたようで質問無し。それで岡田さんが「レジメの雅号は何と読むのか、はくめんろうでよいのか」と聞いてきたので、小生は待ってたホイ。「その通りです。平野さんは書いていないが、出所は杜甫の「少年行」という詩のようです。意味はいいところのぼんぼんで、天民の育ちとはまったく違い、皮肉のように使ってのではないでしょうか。杜甫の詩は白面郎とは書かず、その注釈に白面郎があるらしいのです。検索すると中国語のホームページがたくさん出てくるが、開けると危険という要注意の付いたページが結構あり、それ以上はやばいので調べていません」と答えた。
 それ以上のことはなく、皆義理を果たしたから、もう用はないとというようにさっさと帰っていった。小生は講演料を頂いたし、喉がからからになったので、出されたお茶ボトルよりビールが飲みたい心境。勝手知ったるところだし、歩いて帰るといったら、どこかにいこうというある婦人が仕切りった。<以下略>

 検索の話は、この後にあります。

コメント(10)

 啄木の詳説の検索方法とその結果については下記の通りでした。これもmixi日記に書いたものの一部です。

 青空鯰で「煎餅」を検索してみた。当然、塩煎餅であろうが、亀の子煎餅であろうか、青空文庫の「煎餅」を含む文章を見付ける。小生が差し当たり必要なのは啄木の作品だけだから、それを人力で見付ければよい。
 やってみた。138本あると答えた。11番目に啄木の「鳥影」が出ていて、4カ所にあるとわかる。「島影」を呼び出しておいて、今度はブラウザーの検索で「煎餅」へジャンプする。それでポイポイと見付かる。そこの前後をコピーして切り出す。
 こうして青空文庫にある啄木の24作品のうち、初めての小説「雲は天才である」はじめ7作品に「煎餅」があるとわかった。切り出して見れば、啄木はほとんど「麦煎餅」と書いていることがわかった。明治40年に啄木が古里を出るまで、盛岡の方でも煎餅と呼んでおり、南部渋民を意識した小説に、単に煎餅と書くと、醤油味の米粉で作った塩煎餅と読者が受け取ることを考慮して、麦煎餅と書いたと思われる。
 八戸煎餅党としての大発見(?)は「雲は天才である」に出てくる石本俊吉の生活費稼ぎに「或菓子屋に雇はれて名物の八戸煎餅を燒き」と書いていたことだ。小生は高校生になってから読んだような気がするが、漱石の「坊ちゃん」に似ているなと思ったぐらいしか記憶にない。啄木が生きていたころ、少なくとも地元では八戸煎餅と呼び、名物だとしていたことを啄木が保証してくれた小説として、今後ネタに使えるぞ。ジルケンことせんべい汁研究所に知らせてやるかな。
 よってきょうの記録は啄木の小説の煎餅のシーン特集とする。啄木忌のレジメは下記の抜粋で量は十分だと思う。検索に暗い人なら、啄木全集を全部読み、これだけ見付けましたといえば本当にするだろう。

【鳥影】 
其の3の1
 開放した次の間では、靜子が茶棚から葉鐵(ぶりき)の鑵を取出して、麥煎餅か何か盆に盛つてゐたが、それを持つて彼方へ行かうとする。
『靜や、何處へ?』とお柳が此方から小聲に呼止めた。
『昌作(をぢ)さん許(とこ)へ。』と振返つた靜子は、立ち乍ら母の顏を見る。
『誰が來てるんだい?』と言ふ調子は低いながらに譴(たしな)める樣に鋭かつた。

其の3の3
信吾はニヤ/\笑ひ乍ら入つて來て、無造作に片膝を附く。と見ると山内は喰かけの麥煎餅の遣場に困つた樣に臆病らしくモヂ/\して、顏を赧めて頭を下げた。

其の3の3
『信吾や。』と隣の室からお柳が呼んだ。『富江さんが來たよ。』
 昌作はジロリと其方を見た。そして信吾が山内に挨拶して出てゆくと、不快な冷笑を憚りもなく顏に出して、自暴(やけ)に麥煎餅を頬張つた。

其の11の3
 町は樂し氣な密話(さゞめき)に充ちた。寄太皷の音は人々の心を誘ふ。其處此處に新しい下駄を穿いた小兒らが集つて、樺火で煎餅などを燒(や)いてゐる。火が爆(は)ぜて火花が街路に散る。年長な小兒らは勢ひ込んで其列んだ火の上を跳ねてゆく。丁度夕餉の濟んだところ。赤い着物を着て女兒共は打ち連れて太皷の音を的にさゞめいて行く。

【赤痢】
 三日目は、午頃來(ひるごろから)の雨、蚊が皆家の中に籠つた點燈頃(ひともしごろ)に、重兵衞一人、麥煎餅を五錢代許り買つて遣つて來た。大體の話は爲て了つたので、此夜は主に重兵衞の方から、種々の問を發した。

 此家の門と鍛冶屋の門の外(ほか)には、「神道天理教會」の表札が掲げられなかつた。松太郎は別段それを苦に病むでもない。時偶(ときたま)近所へ夜話に招ばれる事があれば、役目の説教もする、それが又、奈何でも可いと言つた調子だ。或時、痩馬喰(やせばくらふ)の嬶が、子供が腹を病んでるからと言つて、御供水を貰ひに來た。三四日經つと、麥煎餅を買つて御禮に來た。後で聞けばそれは赤痢だつたといふ。

【二筋の血】
軈て一人々々教員室に呼ばれて、それ/″\に誡められたり勵まされたりしたが、私は一番後しになつた。そして、「お前はまだ年もいかないし、體も弱いから、もう一年二年生で勉強して見ろ。」と言はれて、私は聞えぬ位に「ハイ」と答へて叩頭(おじぎ)をすると、先生は私の頭を撫でて、「お前は餘り穩(おとな)し過ぎる。」と言つた、そして卓子(テーブル)の上のお盆から、麥煎餅を三枚取つて下すつたが、私は其時程先生のお慈悲を有難いと思つた事はなかつた。其室には、村長樣を初め二三の老人達がまだ殘つてゐた。
 私は紙に包んだ紅白の餅と麥煎餅を、兩手で胸に抱いて、悄々(しを/\)と其處を出て來たが、昇降口まで來ると、唯もう無暗に悲しくなつて、泣きたくなつて了つた。
【天鵞絨】

 お定の家へ來たのは、三日目の晩で、晝には野良に出て皆留守だらうと思つたから、態々後しにして夜に訪ねたとの事であつた。そして、二時間許りも麥煎餅を噛りながら、東京の繁華な話を聞かせて行つた


一刻の前をも忘れ、一刻の後をも忘れて、温(おと)なしいお定は疲れてゐるのだ。ただ疲れてゐるのだ。
 煎餅を盛つた小さい盆を持つて、上つて來たお吉は、明日お湯屋に伴(つ)れて行くと言つて下りて行つた。


【病院の窓】
 上島は燐寸(マッチ)を擦つて煙草を吹かし出した。と、渠はまたもや喉から手が出る程喫(の)みたくなつて、『君は何日でも[#「も」は底本では「は」]煙草を持つてるな。』と云ひ乍ら一本取つた。何故今日はアノ娘が居なかつたらう、と考へる。それは洲崎町のとある角の、渠が何日でも寄る煙草屋の事で、モウ大分借が溜つてるから、すぐ顏を赤くする銀杏返しの娘が店に居れば格別、口喧(くちやかま)しやの老母(ばばあ)が居た日には怎(どう)しても貸して呉れぬ。今日何故娘が居なかつたらう? 俺が行くと娘は何時でも俯向いて了ふが、恥かしいのだ、屹度恥かしいのだと思ふと、それにしても其娘が寄席で頻りに煎餅を喰べ乍ら落語を聞いて居た事を思出す。頭に被(かぶ)さつた鈍い壓迫が何時しか跡なく剥げて了つて、心は上の空、野村は眉間の皺を努めて深くし乍ら、それからそれと町の女の事を胸に數へて居た。


【葬列】
 加賀野新小路の親縁(みより)の家では、市役所の衞生係なる伯父が出勤の後で、痩せこけた伯母の出して呉れた麥煎餅は、昨日の雨の香を留めたのであらう、少なからず濕々(じめ/\)して居た。


【雲は天才である】
 石本俊吉は今八戸(はちのへ)(青森縣三戸(さんのへ)郡)から來た。然し故郷はズット南の靜岡縣である。土地で中等の生活をして居る農家に生れて、兄が一人妹が一人あつた。妹は俊吉に似ぬ天使の樣な美貌を持つて居たが、其美貌祟りをなして、三年以前、十七歳の花盛の中に悲慘な最後を遂げた。公吏の職にさへあつた或る男の、野獸の如き貪婪(どんらん)が、罪なき少女の胸に九寸五分の冷鐵を突き立てたのだといふ。兄は立派な體格を備へて居たが、日清の戰役に九連城畔であへなく陣歿した。<1000字までしか入らないので、以下は次に続く>
【雲は天才である】の続き
『自分だけは醜い不具者であるから未だ誰にも殺されないのです。』と俊吉は附加へた。兩親は仲々勉強で、何一つ間違つた事をした覺えもないが、どうしたものか兄の死後、格段な不幸の起つたでもないのに、家運は漸々傾いて來た。そして、俊吉が十五の春、土地の高等小學校を卒業した頃は、山も畑も他人の所有(もの)に移つて、少許(すこしばかり)の田と家屋敷が殘つて居た丈けであつた。其年の秋、年上な一友と共に東京に夜逃をした。新橋へ着いた時は懷中僅かに二圓三十錢と五厘あつた丈けである。無論前途に非常な大望を抱いての事。稚ない時から不具な爲めに受けて來た恥辱が、抑ゆべからざる復讐心を起させて居たので、この夜逃も詰りは其爲めである。又同じ理由に依つて、上京後は勞働と勉學の傍ら熱心に柔道を學んだ。今ではこれでも加納流の初段である。然し其頃の悲慘なる境遇は兎ても一朝一夕に語りつくす事が出來ない、餓ゑて泣いて、國へ歸らうにも旅費がなく、翌年の二月、さる人に救はれる迄は定まれる宿とてもなかつた位。十六歳にして或る私立の中學校に這入つた。三年許りにして其保護者(パトロン)の死んだ後は、再び大都の中央(まんなか)へ礫(いしころ)の如く投げ出されたが、兎に角非常な勞働によつて僅少の學費を得、其學校に籍だけは置いた。昨年の夏、一月許り病氣をして、ために東京では飯喰ふ道を失ひ、止むなく九月の初めに、友を便つて乞食をしながら八戸迄東下りをした。そして、實に一週間以前までは其處の中學の五年級で、朝は早く『八戸タイムス』といふ日刊新聞の配達をし、午後三時から七時迄四時間の間は、友人なる或菓子屋に雇はれて名物の八戸煎餅を燒き、都合六圓の金を得て月々の生命を繋ぎ、又學費として、孤衾襟寒き苦學自炊の日を送つて來たのだといふ。年齡は二十二歳、身の不具で弱くて小さい所以は、母の胎内に七ヶ月しか我慢がしきれず、無理矢理に娑婆へ暴れ出した罰であらうと考へられる。
 煎餅の耳に例えるなんて、にくいこというなあと、切り抜いた置いた記事です。この記事では青森県出身としか書いていませんが、ウィキペディアによれば弘前市出身でした。忘れないうちに送っておきます。

「ひと2011」

日本復活への提書を出版した「はやぷさ」の開発責任者

 川口淳一郎さん

 通信途絶など数々の困難を乗り越えた小惑星探査機「はやぷさ」の地球帰還は、大きな感動と自信を与えてくれた。ブロジェクトを成功に導いた経験を基に「『はやぷさ』式思考法日本を復活させる24の提言」(飛鳥新社)を出版した。
 「はやぷさのストーリーを追う本はいろいろ出ているが、過去の経験やプロジェクトを通じて得た大切にしている心掛けを書いてみた。はやぷさの取り組みがほかでも参考になれば」
 提言は生き方、心構えから社会の在り方、制度まで幅広い。若者に伝えたいのは「天の邪鬼のススメ」。教科書をいくら読んでも、そこに書かれているのは過去のことだけ。将来のことはない。
 「教科書を一生懸命読ませて、その理解度で高得点を与えるというのは、『学びのブロ』を生んでも、新たな発想はもたらしません。人のやったことはやらないぐらいの天の邪鬼になった方がいい」
 留学や海外での仕事を嫌がる内向き志向には「煎餅をつくるときには、型からはみ出した耳ができる。無駄のないよう耳をつくらないようにすると、煎餅は型より小さくなってしまう。はみ出す部分があって初めて発展があるのです」。
 はやぶさの成功を受け準備が始まった「はやぷさ2」にも、人材育成などのアドバイザーとして参加する。妻と娘2人の4人家族。55歳。青森県出身。(共同)
(平成23年3月28日付北海道新聞朝刊4面=原本、)



偶然見つけたのだが、下記URLのこれはクッキーとは思えない。小松が焼いたらしいが、どう見てもピーナツ煎餅丸出しだなあ。
http://www.kaishindo.co.jp/michiko/other/item02.html

 逆に白煎餅に「ジャムやチーズなどをのせてご賞味」させる手もあるかな。
 図書館で「たべもの語源抄」という本を見たら、煎餅について下記のように書いてありました。著者はフランス語の専門家であり、中国語の発音は信用してよいかどうかわかりません。

 煎餅(千兵衛説)
 安土桃山時代の茶人として有名な千利休の弟子であった幸兵衛さんが、小麦粉に砂糖を入れて焼いた菓子を作った。この菓子が茶人の間に殊に評判となったので、利休から千の一字をつけることを許されて幸兵衛さんは千幸兵衛と呼ぱれた。それが菓子の名になりいつの間にか『千兵衛』と呼ばれるようになったというのだ。
 何だか落語『小言幸兵衛』をきいているような気がする。民間に伝承された語源説の方が本当の語源よりも面白いのが普通である。これから本当の語源にうつろう。

 煎餅(その二)
 麩・豆腐・煎餅・辣韮<らっきょうとルビ>・餡などは、中国から輸入された加工食品であって、『餡』は唐宋音であるが、他は漢音がそのまま用いられているものである。
 ただ中国の『センヘイ』が日本にきて音も『センベイ』となると同時に内容も変ってきている。煎という字の第一義的意味は『焼いて水気をなくす』ということであって『茶を煎ずる』などという時の『煎』は第二義的である。
 弘法大師が唐の順宗帝に招かれて饗宴を賜わり、その時に、この『煎餅』が出た。大師が、この菓子を食べてみて大変風味がよかったので、その製法を、わざわざ作った人から教えてもらって、帰朝してから和三郎という菓子屋さんに、その製法をつたえた。だが、当時の煎餅は巻煎餅とか味噌煎餅とかいうような凝ったものではなく、ただ香ばしいカリカリしたものだった。今では小さなカレイやエビを干して煎餅にしたものまでできている。
(坂部甲次郎著「たべもの語源抄」59ページ、昭和37年9月、東京堂=原本、)

 古谷綱武著「女房関白時代」に、南部煎餅の風味には「普の日本の暮しの貧しさが、しみこんでいるよう」に思えると書いていました。また、古谷は盛岡の煎餅屋から教わったか地元産の小麦粉を「地ごな(粉)」と書いているが、小生が話を聞いたことのある八戸の沢銀のおばあさんはジッコと発音していました。こっちの方が南部弁らしいと思いませんか。下記はその抜粋です。

  南部せんべい

<略> ぼくが今まで口にしたせんぺいと名のつくもので、舌というよりもむしろ心に、いちぱん深く印象をきざまれたのは、盛岡市の南部せんべいである。起源は知らないが、明治よりは古いのではないか。百年ささえて伝えられてきたもののようにぼくには思える。ぼくにはこのせんべいの風味には、普の日本の暮しの貧しさが、しみこんでいるように思えて
ならないからである。もめんの味である。
 円形に焼いた小麦粉のふちのふぞろいを、まるで一枚漉きの日本紙のように残している
その姿、そしてその表面に、古くは薬効高い滋養と考えられていた黒ゴマを、ふんだんに
ちらしたいかにもまずしいデラックス、貴重な砂糖を使うなど、とんでもない塩での味つけ。この南部せんべいには、日本の庶民の暮しの底深い貧しさと、しかし質素な材料を加工して食事とは別のもてなしにするようになったそのゆとり、それがほとんど抒情的にさ
え、にじみでているように、ぼくには思われてならない。
 このせんぺいを食べることに、ぼくは、ごまさえ非常に貴重品であった日本の暮しを思う。越後新発田の米を形取った小粒糖菓の養生糖も、黒ゴマ一粒をそのシンにしているのも、ゴマの貴重性と、しかしそれがわりあい手に入りやすいものであったことを、かたっ
ているもののようにぼくはかんじる。
 この南部せんべいは、今も多くの日本人の好みにむく淡白さをもっているのである。東京郊外の乾物の安菓子屋にもならんでいる。ぽくは散歩の途中、荻窪の店先でそれを発見したとき、思いがけないところでなつかしい友だちにめぐりあったような気がして、さっそく買った。しかし盛岡のものとはまるで味が違う。だめである。
 北海道の小樽でも、このごろ、アイヌ語の「美しい」を取って「ビリカせんべい」と命名して、この同種のものを売り出したが、やはりうまくない。あのうまみはおそらく、南部の地ごな(粉)の風味を生かした郷土菓子として成功しているのであろう。
(古谷綱武著「女房関白時代」115ページ、昭和36年8月、弥生書房=館内限定近デジ本、)
 50年ほど前の雑誌「製菓製パン」に八戸市八日町の美乃和煎餅店の記事がありました。グラビアなのでページ番号がありませんが、製品の煎餅を並べて撮った写真付きです。 文中の仙台の石橋幸作翁は、東北の駄菓子研究者で知られた人で「駄菓子のふるさと」などの著書もあります。4年前のものというのは、4年前に焼いた煎餅ということでしょう。小生の10年煎餅の経験からして、4年ぐらいならカビは生えないし、シケさせなければちゃんと食べられますよ。


八戸煎餅
  〈八戸市八日町二〇〉
             美乃和

 いろいろを土地に名産菓子があるけれど、その土地でなければ味わ
えない情緒と風味を持ったものがある。またものによっては、その土
地のイメージを少しも伝えないものもある。
 目的が違うから、どちらが良い悪いということはいえないけれど、
この八戸(はちのへ)煎餅は、やはり東北のイメージが強い煎餅である。
 円形の小麦粉種で薄い塩昧、表面にゴマをふりかけて型焼きしたも
ので、よく見えないが、菊水の線彫りが見え、裏面には、三階松の変
形に『南』の文字が入っている。
 口に入れるとゴマと薄い塩味の淡白な味から、東北という風土と個
性が感じられてならない。お茶うけにも、またビールのつまみにも向
くし、シオリにあるように、バターをつけて食べると、とたんに現代
風の味になるから不思議である。
 建徳の昔、長慶天皇がおいでになったある日、日が暮れても夕餉(げ)
の支度ができず、困っていた。その時一行中の赤松某が兵の兜(かぶ
と)を鍋として、そば粉を煉って火にかけ、ゴマをふりかけて奉った
処、その風味を天皇は非常にお喜びになった。そして、その後も時折
赤松に命じて、その独得な風味を賞味した。
 だから、煎餅型の表に菊水、裏に三階松(赤松の定紋)の模様は、天
皇のお許しをえてつけられたものだとシオリでは説明されている。
 別名、流煎餅ともいわれ、また、盛岡など東北一帯には『南部煎
餅』の名でひろく愛好されているが、発祥はこの八戸市が本当のよう
である。
 その由来はともかく、やはり、この味は庶民の味であり、また口の
おごった人にも珍味であろう。
 仙台市の石橋幸作翁をたずねた時、『四年前のものですが』といっ
て出された、この煎餅は美事だった。表面にゴマの代りに、浜防風の
葉を焼きこんだもので、こうなると、風流な上菓子の格がある。季節
によって、菊、萩その他の植物の葉を入れたら、たいへん楽しい煎餅
になると思った。
 現在、ゴマの他に商京豆を入れたものもあるが、今のアーモンドや
薄荷の葉などを入れたらよいだろう。
 一番残念なのは、紙製の筒があまりにも田舎臭いことで、やはり、
今少し近代化された郷土色をデザインしでもらいたいもだ。
    (一筒 百二十円)   金子善正
(製菓実験社編「製菓製パン」30巻3号ページ番号なし、昭和39年3月、製菓実験社=国会図書館内限定で読める近代デジタルライブラリー)


 八戸せんべい汁研究所事務局長の木村聡さんが書いた煎餅汁の話が、平成13年9月4日付日本経済新聞朝刊36面に載りました。見出し(題名)はたいてい新聞社側がつけますが、木村さんのそれは「八戸温めるせんべい汁」で、副見出しが「市民団体設立から10年、『B1―グランプリ』も発起」。優勝杯に当たる金の箸を掲げる木村さんとせんべい汁のカラー写真付きです。
 「ご当地グルメによるまちおこしの祭典『B―1グランプリ』で昨年、1位に輝いた『せんべい汁研究所(汁<じると振りがな>研)』。私が事務局長を務めるこの市民団体は今年、設立からちょうど10年になる。」と始まるのですが、日経を読んでいない人もいると思うので、その要旨を紹介します。掲載面は全国共通面なので詳しく知りたい人は地元図書館で読んでください。
 木村さんは海外で農業をやろうと東京農大に入ったが、お父さんが倒れたので、その夢は諦めて卒業後、八戸に戻り水産会社勤務を経て地場産業を振興する財団に転職。それで東北新幹線が八戸まで延びたとき、新しいお土産開発と取り組むことになったそうです。
 お菓子や水産物のお土産は色々できたけれども、せんべいは難航した。それは八戸がせんべいの本場で「イカを混ぜたりゴマを塗ったりと大概のことをやりつくている」せいだった。せんべい汁用のせんべいにしても、かつてやってみたことだったのです。
 でも、せんべい単体のことであり、おつゆせんべいプラス「具やだしとのセット商品」はやっていない、これだと1年で2000個は売りたいとセットを発売したら、なんと4万個も売れたそうです。しかも民放で取り上げられるや、せんべい汁を知らない津軽地方からもじゃんじゃん問い合わせがあり「試食会をすれば、『気持ち悪い』と言っていた人が『おいしい』」に変わることを実感した木村さんは、お土産だけでなく、まちおこしになると考えた。この活動を長続きさせるノウハウを学ぼうと先進地を視察して、静岡県富士宮市の富士宮やきそば学会を知った。この学会の活動は皆、市民が無償でやっていたのです。
 そこで木村さんは「利害関係がなく、楽しんでまちおこしに取り組んでくれそうな人に声をかけた。平成15年、12人で汁研を立ち上げた。」のです。せんべい汁を全国区にするにはどうすればよいかと汁研のメンバーと議論するうちに、B―1グランプリ開催というアイデアが生まれたのですね。
 ぜひ実現させようと約30の地域グルメ団体に参加要請したが、反応ゼロ。大赤字覚悟で参加者の旅費負担人数を増やしたりして再度呼びかけ、よくやく平成18年2月、集まった10団体による第1回B―1グランプリを地元八戸で開いたのです。
 小生が八戸市民がこぞってせんべい汁に投票しないと優勝できないぞと、ここだったかどこかに書き込んだら、心配無用と言った人がいましたが、案の定、優勝を逃して7回目の去年、やっと1位になれたのです。もっとも、八戸でやれば市民は身近なせんべい汁より、よその未知の食べ物にひかれるから勝てないという見方もできますがね。
 日経の記事に戻りますが、木村さんはこう締めくくっています。
「 汁研にかかりきりでまったく家にいない私のことを、娘はよく思っていなかっただろう。だが2年前、当時小6の娘が市の弁論大会で1位をとった。お父さんがまちおこしに頑張っている、という内容だった。泣いた。
 将来は帰ってきたい。進学や就職で離れた人がそう思える八戸にするのが目標だ。八戸せんべい汁はそのための武器。食文化を通じた終わりのないまちおこしに、生涯取り組むつもりだ。」。
 フレー、フレー、キムラ!! フレー、フレー、ジルケン!!
 

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