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万葉集コミュの万葉集 572・573・574・575

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4 572;相聞,作者:沙弥満誓,大伴旅人、恋情,送別,枕詞,福岡

[題詞]<大>宰帥大伴卿上京之後沙弥満誓贈卿歌二首

真十鏡  見不飽君尓  所贈哉  旦夕尓  左備乍将居

まそ鏡 見飽かぬ君に 後れてや 朝夕に さびつつ居らむ
 
[まそかがみ] みあかぬきみに おくれてや あしたゆふへに さびつつをらむ
・・・・・・・・・・・・・
いくたびお逢いしても

見飽きることのない[真澄の鏡]

貴方に置いて行かれた私は

朝な夕なに寂しく暮らすのでしょうね
・・・・・・・・・・・・・

大納言に任命されて帰京してしまった大伴旅人のもとへ贈った歌。
満誓は観世音寺別当として筑紫に残っていた。


4 573;相聞,作者:沙弥満誓,大伴旅人、恋情,送別,年齢,枕詞

[題詞](<大>宰帥大伴卿上京之後沙弥満誓贈卿歌二首)

野干玉之  黒髪變  白髪手裳  痛戀庭  相時有来

ぬばたまの 黒髪変り 白けても 痛き恋には 逢ふ時ありけり
 
ぬばたまの くろかみかはり しらけても いたきこひには あふときありけり
・・・・・・・・・・・・・
黒髪が白くなって年老いても

これほどまでに胸を痛める

せつない想いに

出逢うこともあるものかなあ 
・・・・・・・・・・・・・


沙弥満誓 さみのまんぜい 生没年未詳
笠氏の出身。父母等は未詳。俗名は麻呂。

大宝四年(704)正月、正六位下より従五位下に越階昇叙される。
慶雲三年(706)七月、美濃守に任ぜられると有能な国司として活躍し、
和銅二年(709)には業績を賞され、
同四年に正五位上、
同六年に従四位下と急速に昇進。
同七年閏二月には木曽路を開通させた功により封戸・功田を賜わる。
霊亀二年(716)六月、美濃守に尾張守を兼任する。
養老元年(717)十二月、元正天皇が美濃国に行幸した際には従四位上に昇叙された。
養老三年(719)七月、尾張・参河・信濃の三国を管する按察使を兼ねる。
同四年十月、右大弁として中央に復帰するが、
翌年五月、元明太上天皇の病を理由に出家入道を請い、勅許された。
  以後、満誓と号す。
養老七年(723)二月、造筑紫観世音寺別当となり、大宰府に下向。

翌年大伴旅人が大宰帥として府に赴任すると、いわゆる筑紫歌壇の一員となり、万葉集に七首の短歌を残した。  (千人万首)

4 574;相聞,作者:大伴旅人、羈旅,福岡

[題詞]大納言大伴卿和歌二首

此間在而  筑紫也何處  白雲乃  棚引山之  方西有良思

ここにありて 筑紫やいづち 白雲の たなびく山の 方にしあるらし
 
ここにありて つくしやいづち しらくもの たなびくやまの かたにしあるらし
・・・・・・・・・・・
ここ奈良の都にあって

筑紫はどの方向にあるのだろう

白雲がたなびくかの山の

遥か彼方なのだろう
・・・・・・・・・・・

4 575;相聞,作者:大伴旅人、孤独,羈旅,大阪,序詞

[題詞](大納言大伴卿和歌二首)

草香江之  入江二求食  蘆鶴乃  痛多豆多頭思  友無二指天

草香江の 入江にあさる 葦鶴の あなたづたづし 友なしにして
 
[くさかえの いりえにあさる あしたづの] あなたづたづし ともなしにして
・・・・・・・・・・・・・
草香江の入江を漁る葦鶴の声

なんとたどたどしいことよ 

話す友のないわが心のようであるなあ
・・・・・・・・・・・・・

草香江の 入江で餌を捜す 葦鶴ではないが ああたづたづしいことだ なじんだ友もいなくて

* 歌枕紀行 摂津国 ―つのくに―
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utamaku/settu_u.html

* 草香江 生駒山西麓、東大阪市日下町のあたり。
  もと河内平野をみたし、生駒山麓まで広がっていた広大な入江。
  「難波潟」に同じ。

* 葦鶴 葦原の鶴。「葦鶴の」までが同音で「たづたづし」を起こす序。

* たづたづし 「たどたどし」の古形。不確かで頼りない、心もとない。


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大伴旅人(おおとも の たびと、665年 - 天平3年(731年)7月25日)

奈良時代初期の政治家、歌人。
父は大伴安麻呂、母は巨勢郎女。息子に大伴家持がいる。同じく有名な万葉歌人の大伴坂上郎女は異母妹。

714年(和銅7年)、父の安麻呂が亡くなる。
718年(養老2年)に中納言に任じられる。
720年(養老4年)山背摂官となり、その後征隼人持節大将軍として隼人の反乱を鎮圧した。
神亀年間(724年−729年)には、大宰帥として九州の大宰府に赴任し、山上憶良とともに筑紫歌壇を形成した。
730年(天平2年)大納言に任じられ京に戻り、
翌731年(天平3年)正二位に昇進するが、まもなく病を得て没した。
 政治的には長屋王派と言われていた。

漢詩集「懐風藻」に漢詩が収められ、「万葉集」にも和歌78首選出されているが、和歌の多くは大宰帥以後のものである。酒を讃むるの歌十三首(国歌大観番号0338-0350)を詠んでおり、酒をこよなく愛した人物として知られている。

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