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万葉集コミュの万葉集 77・78

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77;作者:御名部皇女,奉和(御名部皇女(みなべのひめみこ):元明天皇の姉)

[題詞](和銅元年戊申 / 天皇<御製>)御名部皇女奉和御歌(元明天皇に和(こた)へ奉(たてまつ)る歌)

吾大王  物莫御念  須賣神乃  嗣而賜流  吾莫勿久尓

わがおほきみ ものなおもほし すめかみの つぎてたまへる われなけなくに

吾が大君 ものな思ほし 皇神の 継ぎて賜へる 我なけなくに
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吾大王ーわがおほきみー吾が大君ーわが天皇よー(臣下として)お仕え申し上げる大君よ、  
物莫御念ーものなおもほしーものな思ほしーご心配なさいますな 
須賣神乃ーすめかみのー皇神のー皇祖神がー天皇の祖先の神。天照大神のこと。 
嗣而賜流ーつぎてたまへるー継ぎて賜へるーあなたに副えてこの世に下された 
吾莫勿久尓ーわれなけなくにー我なけなくにー私がお側におりますものを。
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(白鳳時代の人)

御名部皇女 みなべのひめみこ
天智天皇の皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂のむすめ姪娘(めいのいらつめ)。
元明天皇の同母姉。高市皇子の妃となり、長屋王を生んだ。
元明天皇の「ますらをの鞆の音すなり物部のおほまへつきみ楯立つらしも」に和した歌。
物部が(儀式とはいえ、「たてつく」)儀礼にかこつけて何かの威圧感を示したのでは?
即位の重責に不安を漏らす天皇に対し、姉として激励する歌ととるのが普通。
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部ログ「旅人」より抜粋転載。
http://blogs.yahoo.co.jp/chiyokokkk/15919973.html
文武天皇死後の翌月、 707年 2月、阿閉皇女(あへ)即位。47才。8年間。
元明天皇です。
異母姉持統天皇の歩んだ道を、彼女もまた歩むことになる。
宣命「現つ神と大八州しろしめす倭根子天皇が『不改の常典』を守って即位する」と発表。
嫡子・首(おびと・聖武)は、まだ 8才なのでやむをえず中継として自分が即位するとした。
つまり、首皇子の皇位継承権を、あらためて強調した。
即位にあたって、歌を詠った。
♪ますらをの 鞆の音すなり もののふの 大臣(おおまえつきみ)楯立つらしも   (元明・47才)
楯は、敵の矢・刀・矛などを防ぐ武具。
8年前の、持統天皇即位式の際、石上(物部)麻呂が大盾を立てた。
元明天皇も、同じものものしい儀式で、即位式を行なった。
元明天皇の思いに応じ、同母姉の御名部皇女(みなべ)は詠った。
♪我が大君 物な思ほしそ 皇神(すめかみ)の 副へて賜へる 我がなけなくに  (御名部・50才)
 (わが大君よ、決して御懸念には及びません。神さまの命をうけて、あなたのお後を継ぐ者として、
  ほら、ごらんの通り私がおります)
当時、首皇子は8才、天武の皇子は穂積皇子・長皇子など4人もあり、元明天皇が即位することは、
皇太妃という地位のもろさがあって、不安があった。
和銅元年(708)、元明女帝の治世は始まった。
首脳は、右大臣、石上麻呂(物部)70才くらい。
大納言、藤原不比等(首皇子の祖父)50才くらい。・大伴安麻呂(大宰府帥兼任)授刀舎人の制度を新設した。(元明天皇の親衛隊)

正月早々に、武蔵国から、朗報がもたらされた。
秩父郡から自然銅が産出したという。
早速、年号を「和銅」と改め、恩赦も行なった。
武蔵国の庸と、秩父郡の調・庸を免じた。
3月、石川麻呂を左大臣に。藤原不比等を右大臣に。
大伴安麻呂を九州から呼び戻し、太宰帥は粟田真人に。
和銅 2年(709)春、左大弁巨勢麻呂を陸奥鎮東将軍に、民部大輔佐伯石湯(いわゆ)を征越後蝦夷(かい)将軍に任命し、東海・東山・北陸諸国の兵をさずけて、蝦夷征討に発遣した。
前年の秋、越後の国司が蝦夷の住んでいた地に、出羽郡を新設し、統治しようとしたため、こぜり合いが起こったから。
そして、3年後、出羽郡に陸奥国の最上・置賜(おいたみ・現在の山形県の大半)を加えて、出羽国を
新設した。

藤原京は、大宝律令がととのい、役所の数も役人の数も増え、手狭になってきた。

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78;作者:元明,持統,古歌,転用,遷都,望郷,恋情,枕詞,愛惜

[題詞]和銅三年庚戌春二月従藤原宮遷于寧樂宮時御輿停長屋原<廻>望古郷<作歌> [一書云 太上天皇御製]

飛鳥  明日香能里乎  置而伊奈婆  君之當者  不所見香聞安良武 [一云 君之當乎 不見而香毛安良牟]

[とぶとりの] あすかのさとを おきていなば きみがあたりは みえずかもあらむ[きみがあたりを,みずてかもあらむ]

飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ [一云 君があたりを見ずてかもあらむ]
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飛鳥ーとぶとりのー飛ぶ鳥のー明日香にかかる枕詞。  
明日香能里乎ーあすかのさとをー明日香の里を 
置而伊奈婆ーおきていなばー置きて去なばー  
君之當者ーきみがあたりはー君があたりはーこの歌を持統天皇作とみる立場からは、この「君」は亡き夫天武天皇を指すと思われる。  
不所見香聞安良武ーみえずかもあらむー見えずかもあらむー
[一云 君之當乎 不見而香毛安良牟]ー君があたりを見ずてかもあらむ
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新古今巻第十896に元明天皇御歌

 飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて往なば 君があたりは 見えずかもあらん

この歌の作者ははっきりしない。万葉集の題詞は(訓読すると)「和銅三年庚戌(かのえいぬ)春三月、藤原の宮より寧樂の宮に遷りませる時、長屋の原に御輿(みこし)停めて古郷を廻望(かへりみ)したまひてよみたまへる御歌」とあるので、平城京遷都の際の天皇、元明天皇の御製とする説もある。ここでは『万葉集略解』の本居宣長説に従い、題詞は誤伝と見て、持統天皇の御製としておいた。「宣長云、此の歌を一書には持統天皇の御時に飛鳥より藤原へうつり給へる時の御製とするなるべし、然るを太上天皇といへるは、文武天皇の御代の人の書る詞也。又和銅云々の詞につきていはゞ、和銅のころは持統天皇既に崩り賜へば、文武の御時に申しならへるまゝに太上天皇と書る也。此歌のさまをおもふに、まことに飛鳥より藤原の宮へうつり賜ふ時の御歌なるべし。然るを和銅三年云々といへるは、傳への誤なるべしといへり」(『万葉集略解』)。(千人万首)

和銅三年庚戌春二月、藤原宮から寧樂宮に遷都した時、御輿を長屋の原に停めて、古郷を顧みて作った歌(太上天皇御製ともいわれる)

明日香の里を後にして立ち去ったなら
あなたのいる辺りは見えなくなってしまうだろうか

(一:あなたのいる辺りを見ないでいることになろうか)
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部ログ「旅人」より抜粋転載。
http://blogs.yahoo.co.jp/chiyokokkk/16007306.html

和銅 3年 3月10日、遷都の日は晴れていた。
藤原京をでて、平城宮に遷る途中、長屋原(長屋王由来の地)に1泊する。
♪飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ  (元明天皇。50才。)
 (明日香の古京を 捨てて行ったら 亡き夫・草壁のお墓は 見えなくなりはしまいか)

遷都は、藤原宮から桜井市金屋の辺りまで陸路により、そのあと、隠国の初瀬川に船を浮かべて、明日香の宮をふり返りながら、新しい奈良の都の佐保川にと、水運を使ってなされた。
長屋王は、前年11月に、宮内卿に任じられていた。
天皇や皇族に関する一切の庶務を管理する宮内省の長官として、平城入りして早速必要とする食膳や衣料、木工、金工品など、みごとに事を処理した。
長屋王もまた、藤原京で、父・高市を失っている。
新都の運営がしだいに軌道に乗りはじめた翌年、藤原京からの急使が、大官大寺焼失の報をもたらした。

平城宮の東にある殿舎は、東宮(東院)と呼ばれ、文武天皇の忘れ形見の首(おびと)は、そこで、県犬養三千代に育てられている。
東宮の隣には、藤原不比等の広大な邸がある。
不比等の邸は、あたかも首のための別邸のようである。
三千代は、先夫・美努王(みぬ)が世を去り、今や公然と不比等の妻となった。
三千代の邸には、先夫との間の葛城王・佐為王・牟漏女王(むろ)がいるが、すでに葛城王は成人しているし、その下の子供たちも、その頃の習慣によって、それぞれの乳母が養育している。
ただ不比等との間に生まれた安宿媛(あすかひめ)だけは、不比等の邸におり、同い年の首のよき遊び相手になっている。

飛鳥にあった廐坂寺が、平城京の東隣の台地に、早くも建立され始めた。
*山階精舎(やましなしょうじゃ・山階寺)
  →鎌足の死後、妻の鏡女王は、山科にあった別荘を寺にした。
   藤原京の時代に移転して廐坂寺(うまさかでら)となり、
   平城遷都後は、左京7坊の2条から3条にかけて興福寺として広大な寺地を占めた。

そして、その頃、ほとんど何の理由も示されず、先帝文武の嬪(ひん)とされていた石川刀子娘(いしかわのとぞのいらつめ)と紀竈門娘(きのかまどのいらつめ)は、その称号を削られた。
それに従って、刀子娘の産んだ広成と広世は、母と同じ石川姓とされともに文武の皇子でありながら、皇族の身分をうしなった。(この3人は、後に高円姓を名乗るようになった。)
文武の皇子として残ったのは、いまや宮子所生の首ひとり。
すでに少年期を迎えた首は、三千代や多くの侍女にかしずかれた日々を送っている。
14才の夏、立太子とともに、春宮坊が設置され、帝王教育がはじまった。
明経の博士として調古麻呂(つきのこまろ)が皇太子学士になった。
21才の正月、教育は「退朝の後」に春宮坊にまわったので、学問は午後か夜になった。
・明経博士ーーー越智広江
・明法ーーーーー塩屋古麻呂
・文章の大家ーー山田御方(みかた)・紀清人・楽浪河内(さざなみのこうち)
・算術ーーーーー山口田主
・佐為王(橘諸兄の弟)や山上憶良も進講することになった。
     うらやましい!私も憶良の講座を聞いてみたいなあ(#´ο`#)
  
長屋王は、平城遷都の直後、式部卿に転じた。
文官の人事、考課、及び、官人養成の機関である大学寮を統轄する役所の長官である。
長屋王は、正妻・吉備(元明の娘)のほか、不比等の娘・長娥子(ながこ・)も妃とした。
長屋王は、皇位に最も近い存在だった。
不比等が、長屋王を自分の陣営にひきこむために差し出した。長娥子は格好の誘い水だった。
長娥子は、安宿王を生んだ。(すこし後に、黄文王・弟貞・女子も生まれた)
http://blogs.yahoo.co.jp/chiyokokkk/16007306.html

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