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万葉集コミュの万葉集 75・76

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75;作者:長屋王,吉野,行幸,妹

[題詞](大行天皇幸于吉野宮時歌)大行天皇(文武天皇)の吉野宮行幸の時に作った歌。

宇治間山  朝風寒之  旅尓師手  衣應借  妹毛有勿久尓

うぢまやま あさかぜさむし たびにして ころもかすべき いももあらなくに

宇治間山 朝風寒し 旅にして 衣貸すべき 妹もあらなくに
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宇治間山ーうぢまやまー宇治間山ー宇治間山の  
朝風寒之ーあさかぜさむしー朝風寒しー朝風は寒い  
旅尓師手ーたびにしてー旅にしてー旅にあっては 
衣應借ーころもかすべきー衣貸すべきー衣を貸してくれるはずの  
妹毛有勿久尓ーいももあらなくにー妹もあらなくにー親しいひと(女)もいないのに
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 長屋王は高市皇子の長男。聖武天皇が即位すると、正二位左大臣に昇ったが、藤原氏が画策した光明子立后に反対して対立した。
すると、「長屋王が密かに要人を呪詛して国を倒そうと謀っている」との密告がなされた。
養老4年(720)に藤原不比等が亡くなってからは彼に並ぶものがいなくなり、正二位左大臣にまでなったが、神亀6年(729)年2月に謀反の密告により追及され、妻子とともに自殺に追いやられた。
その後、(735)年に天然痘が大流行し、長屋王亡き後に権勢をふるっていた藤原不比等の4人の子供たち、房前(ふささき)・麻呂(まろ)・武智麻呂(むちまろ)・宇合(うまかい)が次々に病死した。人々はこれを「長屋王」のたたりとして怖れた。

続日本紀(しょくにほんぎ)の巻第13の天平10年(738)の個所には次のような記事が載っている。

長屋王に仕えていた大伴子虫(おおとものこむし)が、囲碁をしていた相手の中臣宮処東人(なかおみのみやこあずまひと)を斬殺した。長屋王事件のことに話がいったときのことだった。
東人(あずまひと)は、かつて長屋王を誣告(ぶこく=嘘の申し立て)した人物であった。
やはり長屋王は無実だったのか、大伴子虫が特に罪に問われている記事はない。
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(白鳳時代の人)千人万首より

長屋王 ながやのおおきみ 天武五〜神亀六(676-729) 略伝
生年は天武十三年(684)とも言う(公卿補任)。高市皇子の長男。母は御名部皇女。吉備内親王(草壁皇子と元明天皇の子)を正室とする。子には膳夫王・安宿王・黄文王・円方女王・賀茂女王ほかがいる。
大宝四年(704)、正四位上に初叙される。その後、宮内卿・式部卿などを歴任し、霊亀二年(716)、正三位に昇る。養老二年(718)、大納言に任ぜられる。同四年八月、右大臣不比等が薨じると、翌年正月、従二位に昇叙され右大臣に就任して台閣の首班となる。同七年には自邸に佐保楼を建設し、以後ここで華やかな詩宴をたびたび開催した。神亀元年(724)に聖武天皇が即位すると、正二位左大臣に昇る。
神亀五年(728)、基皇太子が薨去すると、藤原氏は光明子の立后を画策。長屋王はこれに反対したためか、聖武天皇・藤原氏との対立を深め、翌年二月、訊問の末自尽に追い込まれた。享年五十四(または四十六)。妻吉備内親王、内親王所生の男子膳夫王ら四王も自死に至らしめられた。屍は生駒山に葬られた。
万葉集に五首の歌を残す。なお万葉巻一・二の原型は、白鳳期の皇親政治を理想とする長屋王が企画し、王のサロンに集った文人(佐為王・紀清人ら)が編集したとする説がある(高野正美)。
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0075 宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに
0268 我が背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり君待ちかねて
0300 佐保過ぎて寧樂の手向に置く幣は妹を目離れず相見しめとそ
0301 岩が根の凝重く山を越えかねて哭には泣くとも色に出でめやも
1517 味酒三輪の祝の山照らす秋の黄葉散らまく惜しも
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76;雑歌,和銅1年,年紀,作者:元明,和銅,儀式

[題詞]和銅元年戊申 / 天皇<御製>

大夫之  鞆乃音為奈利  物部乃  大臣  楯立良思母

ますらをの とものおとすなり もののふの おほまへつきみ たてたつらしも

ますらをの 鞆の音すなり 物部の 大臣 盾立つらしも
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大夫之ーますらをのー 兵士たちのー勇ましい男子たちの 
鞆乃音為奈利ーとものおとすなりー鞆の音すなりー弓の弦が防具に当たる音ー鞆の音が聞こえる  
物部乃ーもののふの(もののべ)ー物部の  
大臣ーおほまへつきみー大臣ー将軍が
楯立良思母ーたてたつらしもー盾立つらしもー楯を立てて励んでいるらしい。
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(儀式とはいえ、「たてつく」は?。)儀礼にかこつけて何かの威圧感を示したのでは?
「物部の大臣」は石上麻呂を指すとする説(契沖『萬葉集代匠記』)や「将軍といふが如きこと」とする説(山田孝雄『萬葉集講義』)などがある。
即位の儀式においては石上氏(旧物部氏)・榎井氏(物部系氏族)が楯を立てる慣例があった。
続日本紀によれば和銅元年(708)十一月二十一日、元明天皇即位大嘗祭が挙行されており、この時の御製か。この歌に和した御名部皇女の歌がある。(千人万首)
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兵士たちの鞆の音が
ひびいて聞こえてくる
軍を統率する将軍が
楯を立てているのか
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(白鳳時代の人)

元明天皇 げんめいてんのう 斉明七〜養老五(661-721) 
天智天皇の第四皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の女姪娘。諱は阿閉(あへ)皇女。草壁皇子との間に軽皇子(文武天皇)・氷高皇女(元正天皇)・吉備皇女をもうけた。
慶雲四年(707)、文武天皇崩御の後、遺詔により即位。文武の遺子首皇子(のちの聖武天皇)を将来即位させるための中継的な天皇と見られるが、和銅元年(708)の和同開珎、同三年の平城京遷都、同五年の古事記撰上、同六年の風土記編纂など、在位中に歴史的大事業が次々に成し遂げられた。和銅八年(715)九月二日、退位。皇太子首皇子はまだ幼少であったため、娘の氷高内親王を中継ぎとして即位させた(元正天皇)。養老五年(721)、病に臥し、長屋王と藤原房前を召して後事を託す。同年十二月七日、崩御。六十一歳。奈保山東陵に葬られる。在位はわずか八年であったが、この間不比等らを重用して律令官制の整備を大いに進めるなど、随所に卓越した政治力を窺わせる。
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(参照)
ブログ[旅人]飛鳥時代ー元明天皇ー1、和銅
http://blogs.yahoo.co.jp/chiyokokkk/15919973.html

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