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万葉集コミュの万葉集 73・74

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73;作者:長皇子,望郷,難波,文武,従駕,行幸

[題詞](大行天皇幸于難波宮時歌)長皇子御歌(大行天皇が吉野宮に行幸された時の歌)

吾妹子乎  早見濱風  倭有  吾松椿  不吹有勿勤

わぎもこを はやみはまかぜ やまとなる あをまつつばき ふかざるなゆめ

我妹子を 早見浜風 大和なる 我を松椿 吹かざるなゆめ
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吾妹子乎ーわぎもこをー我妹子をーわが妻を 
早見濱風ーはやみはまかぜー早見浜風ー早く会いたい、浜風よはやてとなって  
倭有ーやまとなるー大和なるー大和に待つ  
吾松椿ーあをまつつばきー我を松椿ー妻の木、椿 不吹有勿勤ーふかざるなゆめー吹かざるなゆめーきっと吹け
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
愛しい妻を早く見たい
早い浜風よ
大和で私を待つ松や椿にも
必ず吹いておくれ
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(白鳳時代の人)
長皇子 ながのみこ 生年未詳〜和銅八(715)
天武天皇の第七皇子。『皇胤紹運録』によれば母は大江皇女(天智天皇の皇女)。弓削皇子の同母兄。子に栗栖王・長田王・智努王・邑知王・智努女王・広瀬女王らがいる。
持統七年(693)、浄広弐。大宝二年(702)十月、持統太上天皇の東国行幸の際、藤原京に留まり、隠(名張)に廬する「妹」を詠んだ歌を作る。慶雲元年(704)正月、封を二百戸加増される。この時二品、天武皇子で序列はトップであった。慶雲三年九月から十月、文武天皇の難波行幸に従駕し、歌を詠む。和銅七年(714)正月、舎人・新田部・志貴諸親王と共に封二百戸を増す。この時も序列トップ。翌和銅八年六月四日、薨ず。一品とあるが、叙品の記事は見えない。享年は四十代か五十歳前後と推定されている。
万葉集には上記のほか、巻一巻末「長皇子、志貴皇子と佐紀宮に倶に宴する歌」、巻二の「長皇子、皇弟に与ふる歌」がある。(千人万首)


二年壬寅(みづのえとら)、太上天皇、参河国に幸(いでま)す時の歌
長皇子の御歌

宵に逢ひて朝(あした)面(おも)無み隠(なばり)にか日(け)長き妹が廬りせりけむ(万1-60)
(宵に共寝をして、翌朝恥ずかしくて会わせる顔がなく、隠(なば)ると言う――その名張で、旅に出て久しい妻は仮の宿をとったことだろうか。)

大宝二年(702)十月から十一月にかけての持統太上天皇の三河行幸に際しての作。飛鳥の都に留まった長皇子が旅先の妻を思いやって詠んだ歌。隠(なばり)は三重県名張市。畿内の東限で、ここを越えると伊賀国。

慶雲三年丙午(ひのえうま)、難波宮に幸す時
長皇子の御歌

霰うつ安良礼(あられ)松原住吉(すみのえ)の弟日娘子(おとひをとめ)と見れど飽かぬかも(万1-65)
(霰が打ちつける安良礼松原は、住吉の弟日娘子と同じく、いくら見ても見飽きることがない程すばらしい。)

慶雲三年(706)晩秋九月から初冬十月にかけて、文武天皇の難波行幸に従っての作。
「安良礼松原」は住吉の海岸か。「弟日娘子」は遊行女婦(うかれめ)と思われる。
土地と人を同時に讃美している。

大行天皇、難波の宮に幸す時の歌
長皇子の御歌

我妹子(わぎもこ)を早見浜風大和なる我まつ椿吹かざるなゆめ(万1-73)
(我が妻を早く見たいと思う――その名も早見の浜を吹く風よ、大和で私を待っている松や椿の所まで吹いて行ってくれ。決して忘れずに。)

文武三年(699)か慶雲三年(706)の難波行幸の折の作。「我妹子を」は「早見」(所在未詳。住吉付近か)の枕詞。「我まつ椿」は故郷の大和で待つ妻を暗喩。「吹かざるな」は二重否定で強い命令をあらわす。「吹かずにいるな」、即ち「必ず吹いてくれ」ということ。

長皇子、志貴皇子と佐紀宮に倶に宴する歌

秋さらば今も見るごと妻恋ひに鹿(か)鳴かむ山そ高野原の上(万1-84)
(毎年秋になったら、今も我らが見ているように、妻を恋うて雄鹿が鳴く山であるよ、この高野原の上は。)

平城遷都後、長皇子が従兄弟の志貴皇子を佐紀の自邸に招いて宴をした時の歌。
佐紀は平城京の北。高野原は佐紀の北の丘陵。
「今も見るごと」の見る対象を山田孝雄は「その状をかたどれる物」とし(萬葉集講義)、これを踏まえて伊藤博氏は「秋の野に鹿の鳴くさまを描いた絵ではないかと思う」と言い、邸内に飾られた屏風絵などを眺めての歌かと推測している(萬葉集釋注)。

長皇子、皇弟に与ふる御歌一首

丹生(にふ)の川瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛(こひた)し我が弟(せ)いで通ひ来(こ)ね(万2-130)
(丹生の川の瀬は渡らずに、まっすぐどんどんと通って来てください。恋しさに心痛む我が弟君よ。)
「皇弟」は弓削皇子を指すと思われる。一首には何らかの寓喩が籠められているかと思われるが、よく分からない。
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<椿を詠んだ歌>

0054: 巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を
0056: 川上のつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は
0073: 我妹子を早見浜風大和なる我を松椿吹かざるなゆめ
1262: あしひきの山椿咲く八つ峰越え鹿待つ君が斎ひ妻かも
3222: みもろは人の守る山本辺は馬酔木花咲き末辺は椿花咲くうらぐはし山ぞ泣く子守る山
4152: 奥山の八つ峰の椿つばらかに今日は暮らさね大夫の伴
4177: わが背子と手携はりてあけ来れば出で立ち向ひ夕されば振り放け見つつ思ひ延べ.......(長歌)
4418: 我が門の片山椿まこと汝れ我が手触れなな土に落ちもかも
4481: あしひきの八つ峰の椿つらつらに見とも飽かめや植ゑてける君
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74;作者:文武,吉野,行幸,望郷,妹,異伝

[題詞]大行天皇幸于吉野宮時歌

見吉野乃  山下風之  寒久尓  為當也今夜毛  我獨宿牟

みよしのの やまのあらしの さむけくに はたやこよひも わがひとりねむ

み吉野の 山のあらしの 寒けくに はたや今夜も 我が独り寝む

[左注]右一首或云 天皇御製歌

「大行天皇」は、崩じて未だ諡号が贈られていない天皇。単に先代の天皇のことをも言う。
左注の「天皇」は文武天皇を指すと見られる。大宝元年(701)二月の文武天皇吉野行幸の際の歌であろう(因みに同じ時に詠んだ長屋王の歌がある)。

宇治間山 朝風寒し 旅にして 衣貸すべき 妹もあらなくに      (万葉集・巻1・75)
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見吉野乃ーみよしののーみ吉野のー吉野の  
山下風之ーやまのあらしのー山のあらしのー山おろしがー吹き下ろす激しい風が、 
寒久尓ーさむけくにー寒けくにー寒いというのにー肌寒いのに、 
為當也今夜毛ーはたやこよひもーはたや今夜もーやはり今夜もー もしや今夜も 
我獨宿牟ーわがひとりねむー我が独り寝むー私は一人で寝るのだろうかー仮の宿りに独り寝るのだろうか。
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吉野の山おろしが寒いというのに
やはり今夜も
私は一人で寝るのだろうか
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文武天皇 もんむてんのう 天武十二〜慶雲四(683-707) 諱:軽皇子 略伝
天武天皇の孫。草壁皇子の子。母は阿閉皇女(元明天皇)。藤原不比等の娘宮子を夫人とし、首皇子(聖武天皇)をもうけた。名は珂瑠(かる)にも作る。持統称制三年(689)、七歳の時父を亡くす。祖母持統天皇の庇護のもと、持統十一年(697)二月、皇太子となり、同年八月、持統の譲位を受け十五歳で即位した。大宝元年(701)、『大宝令』を施行し、官名位号を改正した。以後、完成した『大宝律令』を天下諸国に頒布するなど、律令の整備に尽力する一方、南島に使を派遣し薩摩・種子島を征討するなど版図拡大に努めた。慶雲四年(707)年六月十五日、崩御。二十五歳。母阿閉皇女に万機を摂する詔を遺した。万葉集に1首、吉野宮行幸の際の歌(1-74)が伝わる。
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ブログ[旅人]より抜粋転載;
文武天皇の御歌
http://blogs.yahoo.co.jp/chiyokokkk/20627008.html
文武天皇の御歌は、『万葉集』に、1首しかない。
それにハモッたのは、長屋王。

♪み吉野の 山のあらしの 寒けくに はたや今夜も 我がひとり寝む   (万葉集・巻1・74)
(み吉野の山おろしの風が こんなに肌寒いのに もしや今夜も わたしは独り寝をするのだろうか)

♪宇治間山 朝風寒し 旅にして 衣貸すべき 妹もあらなくに      (万葉集・巻1・75)
(宇治間山、ああ、この山の朝風は寒い 旅先にあって 衣を貸してくれそうな女もいないのに)

文武天皇の吉野行幸は、大宝元年(701) 2月20日。
太陽暦では、 4月上旬だから、花冷えの季節。朝夕は肌寒い頃ですね。
2首の歌は、風で呼応している。
ともに風の寒さを通して、郷愁を詠っている。
文武天皇が、行き先の吉野山・夜を示されたから、、長屋王は、逆転して、途中の山(宇治間山)・朝をうたった。うまい!
この「和」は、歌心であり、文雅だった。
この時、長屋王は、26才。まだ無位だった。
長屋王は、高市皇子の子で高貴な人。
49才で、左大臣になったけど、藤原氏のそねみにあい、自尽の悲運に泣いた。(長屋王の変)
今ここで、なごみうたった文武天皇は、聖武の父です。
30年後に、その聖武によって惨劇が振りかかることなど、知るよしもない吉野の1日だった。
のちに長屋王が無実だと知って、聖武天皇は、さめざめと泣いたという。
血ぬられた天皇の椅子にすわるのは辛い。
半分、民間の聖武天皇は、自分を問い詰めたのかも・・・
後半生、ノイローゼ気味だったのは、自立してきたからかも・・・

巻1には、持統天皇・文武天皇の行幸の歌が、一括してまとめてある。
 持統天皇の行幸
     難波行幸(66〜69)
     吉野行幸(70)
 文武天皇の行幸
     難波行幸(71〜73)
     吉野行幸(74〜75)

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