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万葉集コミュの万葉集第1巻63・64・65

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万葉集63 作者:山上憶良,唐,望郷

[題詞]山上臣憶良在大唐時憶本郷作歌

去来子等  早日本邊  大伴乃  御津乃濱松  待戀奴良武

いざこども はやくやまとへ おほともの みつのはままつ まちこひぬらむ

いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ

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去来子等ーいざこどもーいざ子どもーさぁ者共よ 
早日本邊ーはやくやまとへー早く日本へ 
大伴乃ーおほとものー大伴の 
御津乃濱松ーみつのはままつー御津の浜松 
待戀奴良武ーまちこひぬらむー待ち恋ひぬらむー我々の帰りを待ち焦れているだろう。
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(山上憶良、大唐にあるとき日本を思って作った歌)

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さぁ皆者共よ、早く日本(やまと)へ 帰ろうではないか

大伴の御津(みつ)の浜の松も

我々の帰りを待ち焦れているだろう
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以下(千人万首)
山上憶良 やまのうえのおくら
斉明六〜天平五頃(660-733?)
父母等は不詳。
粟田氏の支族山上臣の出身。一説に、近江甲賀郡居住の粟田従属の百済系渡来氏族かともいう(中西進)。

大宝元年(701)正月、第七次遣唐使の少録に任命される。この時無位で、名は山於億良とある。同年九月、文武天皇の紀伊国行幸の時の作と思われるものに長意吉麻呂の「結松を見て哀咽歌」(万2-143・144)があり、これに追和した憶良の歌がある(2-145)。

同二年六月、遣唐使船出航。十月頃、長安に入る。同四年頃、大唐にて本郷を憶う歌を詠む(1-63)。同年七月、遣唐使粟田真人らが帰国。憶良も同船か(または慶雲四年-707-帰国)。
和銅七年(714)正月、従五位下に叙され、霊亀二年(716)四月、伯耆守に任ぜられる。養老五年(721)には首皇子(後の聖武天皇)の侍講に任命され、退朝の後、東宮に侍す。

一説に、この頃『類聚歌林』を編纂。
神亀三年(726)、筑前守に任命され、筑紫に下向。
同五年春までに大伴旅人が大宰府に着任し、以後、旅人を歌友として倭歌の制作に励む。
天平二年(730)正月、旅人邸の梅花宴に出席。
同三年末〜四年頃、上京。
天平四年冬、「貧窮問答歌」を作る。
同五年六月、「老身重病歌」を作り、序文として長大な「沈痾自哀文」を付す。同じ頃、「沈痾の時の歌」をなし、この時藤原八束が河辺東人を派遣し憶良を見舞わせたと左注にある。程なくして卒したか。行年七十四。

万葉収載歌は、数え方によってまちまちであるが、およそ80首前後ある。


◎ 奈良時代1.http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html
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64;作者:志貴皇子,難波,行幸,従駕,大阪,望郷,文武,羈旅

[題詞]慶雲三年丙午幸于難波宮時 / 志貴皇子御作歌

葦邊行  鴨之羽我比尓  霜零而  寒暮夕  <倭>之所念

あしへゆく かものはがひに しもふりて さむきゆふへは やまとしおもほゆ

葦辺行く 鴨の羽交ひに 霜降りて 寒き夕は 大和し思ほゆ

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葦邊行ーあしへゆくー葦辺行くー 葦辺に漂う 
鴨之羽我比尓ーかものはがひにー鴨の羽交ひにー背中にたたんだ両翼の交わるところ。 
霜零而ーしもふりてー霜降りて、 
寒暮夕ーさむきゆふへはー寒き夕は、 
<倭>之所念ーやまとしおもほゆー大和し思ほゆー大和の家郷が思い起こされるよ。
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慶雲三年丙午、難波宮に行幸された時、志貴皇子がお作りになった歌
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葦の原を泳ぐ鴨の翼にも霜が降る

寒さが身にしみる夜だなあ

大和の家郷が思い起こされるよ
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(白鳳時代)
志貴皇子 しきのみこ 生年未詳〜霊亀二(716)

天智天皇の第七皇子(続紀薨伝による。
『類聚三代格』は第三皇子とする)。
母は越道君娘(こしのみちのきみのいらつめ)。
正室は多紀皇女(天武天皇の皇女で伊勢斎宮)。側室に紀朝臣橡姫(白壁王の母)がいる。
子に白壁王(光仁天皇)・湯原王・榎井王・春日王・海上女王・坂合部女王・難波女王・衣縫女王などがいる。

名は芝基・施基・志紀などにも作る。
万葉集では志貴に統一されているが、『皇胤紹運録』『尊卑分脈』など施基と記す書も少なくない。子の白壁王(光仁天皇)即位後の宝亀元年(770)、御春日宮天皇と追尊された。田原天皇とも称される。

天武八年(679)五月の六皇子の盟約に参加。
朱鳥元年(686)八月、諸皇子と共に封を加増され、磯城皇子と同じく200戸を加えられる。
持統三年(689)六月、撰善言司に任ぜられる。同八年の藤原京遷都ののち、「明日香宮より藤原宮に遷居りましし後」の作歌がある。
和銅元年(708)正月、三品を授けられる。同七年正月、長親王らと共に封200戸を益増。この時初めて封租を全給され、封租全給の初例となった。
霊亀元年(715)正月、二品。同二年八月十一日(九日とも)、薨去。
山陵は田原西陵と称され、高円山の東南、奈良市須山町にある。

万葉集に六首。いずれも秀歌として名高く、万葉を代表する歌人の一人に数えられる。(千人万首)
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65;作者:長皇子,難波,行幸,従駕,大阪,地名讃美,文武,枕詞

[題詞](慶雲三年丙午幸于難波宮時)長皇子御歌

霰打  安良礼松原  住吉<乃>  弟日娘与  見礼常不飽香聞

あられうつ あられまつばら すみのえの おとひをとめと みれどあかぬかも

霰打つ 安良礼松原 住吉の 弟日娘女と 見れど飽かぬかも
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霰打ーあられうつー霰打つー枕詞。  
安良礼松原ーあられまつばらー安良礼松原ー住吉の海岸か、  
住吉<乃>ーすみのえのー住吉の  
弟日娘与ーおとひをとめとー弟日娘女とー遊行女婦(うかれめ)と思われる。 
見礼常不飽香聞ーみれどあかぬかもー見れど飽かぬかもー「かも」は終助詞「か」に終助詞「も」のついたもの、詠嘆・感動の意を表わす。・・であることよ。
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都人遊覧の地 あられ松原を

住吉の美しい弟日娘と一緒に眺めていると

いつまでも見飽きないことだよ
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長皇子 ながのみこ 生年未詳〜和銅八(715)

天武天皇の第七皇子。『皇胤紹運録』によれば母は大江皇女(天智天皇の皇女)。弓削皇子の同母兄。子に栗栖王・長田王・智努王・邑知王・智努女王・広瀬女王らがいる。

持統七年(693)、浄広弐。大宝二年(702)十月、持統太上天皇の東国行幸の際、藤原京に留まり、隠(名張)に廬する「妹」を詠んだ歌を作る。
慶雲元年(704)正月、封を二百戸加増される。この時二品、天武皇子で序列はトップであった。
和銅七年(714)正月、舎人・新田部・志貴諸親王と共に封二百戸を増す。
この時も序列トップ。
翌和銅八年六月四日、薨ず。享年は四十代か五十歳前後と推定されている。

2白鳳時代 斉明天皇〜志貴皇子 56人303首
(千人万首)

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