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万葉集コミュの万葉集 72.

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72;作者:藤原宇合,難波,文武,行幸,大阪,従駕,植物,枕詞

[題詞](大行天皇幸于難波宮時歌)

[原文] 玉藻苅  奥敝波不<榜>  敷妙<乃>  枕之邊人  忘可祢津藻

[仮名] たまもかる おきへはこがじ しきたへの まくらのあたり わすれかねつも

[訓読] 玉藻刈る 沖へは漕がじ 敷栲の 枕のあたり 忘れかねつも

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玉藻苅ーたまもかるー玉藻刈るー枕詞。玉藻は沖にあることから 「沖」に、また「敏馬(みぬめ)」「「処女(をとめ)」「辛荷の島」にかかる。 
奥敝波不<榜>ーおきへはこがじー沖へは漕がじー 
敷妙<乃>ーしきたへのー敷栲のー枕詞。敷き妙は寝床に敷くことから「枕」「床」に、「妙」を衣服にもちいたことから「衣」「たもと」「そで」に、寝る意から転じて「家」意に、同音の反復で「黒髪しきて」などにかかる。  
枕之邊人ーまくらのあたりー枕のあたりー枕もとにいた人 
忘可祢津藻ーわすれかねつもー忘れかねつもー忘れられないものを
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玉藻を刈る海女たちがいる沖には漕ぎ出さないでね

昨夜 旅の宿で枕もとにいた人が忘れられないから

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【補記】
文武天皇の難波行幸は慶雲三年(706)で、宇合はこの時わずか十三歳。
旅の宿であてがわれた女への慕情を初々しく詠んでいる。

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(奈良時代 1.の人)

藤原宇合 ふじわらのうまかい 生年未詳〜天平九年(737) 略伝

不比等の三男。藤原式家の祖。母は蘇我連子の女娼子。初め名を馬養に作ったが、渡唐後宇合に改める。同母兄に武智麻呂・房前、異母弟に麻呂がいる。子に広嗣・宿奈麻呂・百川らがいる。

慶雲三年(706)九月〜十月の文武天皇難波行幸に従駕し、歌を詠んだことが万葉集巻一に見える。『懐風藻』等記載の年齢によればこの年十三歳。霊亀二年(716)、遣唐使の副使に任命され、翌年出航。養老二年(718)、帰国入京。翌年正五位上に進み、常陸国守に任ぜられる。この時高橋虫麻呂を部下として『常陸国風土記』編述に関与したとの説がある。同年、安房・上総・下総の按察使を兼ねる。養老五年、長屋王の右大臣就任と同時に一挙に四階昇進して正四位上。同年、兄武智麻呂に代わり式部卿に就任。神亀元年(724)四月、持節大将軍となり陸奥へ赴く。同年十一月、来帰。翌年、蝦夷征討の功により従三位勲二等。神亀三年、漢詩「棗賦」を奏上(『経国集』所載)。同年十月、知造難波宮事。同六年、六衛の兵を率いて長屋王邸を囲む。天平三年(731)、参議となる。同年十一月、畿内副惣官。同四年八月、西海道節度使。同六年、正三位に昇る。天平九年(737)八月、薨去(疫病死か)。時に参議式部卿兼大宰帥正三位。漢詩にすぐれ、「翰墨の宗たり。集二巻あり」(公卿補任)。万葉には六首載る。

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