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アフリカコミュのrilakkumaさんこれは、カメルーン観光旅行案内です。

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 コンゴ民主共和国、今から22年前ナイロビの、アルマンズーラという安宿に、国井五郎さんというかたが、住んでおられました。氏は、おそらく、日本人最初の、リンガラミュージシャンでは、ないかと思われます。氏に、直接質問を、ぶつけました。なぜリンガラのような音楽が、レゴスやナイロビでなく、キンシャサで生まれたのか、氏の答えは明白でした。キンシャサは、背後に、密林が、ひかえている。それが、理由なのでは、ないか?たから、その、リンガラ成立の意味を、知るうえでも、陸路でコンゴ盆地を、越えてキンシャサに、行くべきだ。

 飛行機、ブラザヴィルから、バコンゴ州から、キンシャサに、行っても、面白さが半減するのではないか?

 ということで、中部アフリカの、3大見所は、チャドチベスチィを、筆頭にした、チャドサハラ、コンゴ盆地と、キンシャサ、そしてこれから、話をする、カメルーン縦断、この3本柱が、そろえば、どれも、世界に例が、ない場所だけに、中部アフリカは、非常に魅力のある場所に、なるだろうと、思うけれど、当面は無理だろう。

 カメルーンという国、人口千数百万暗いにもかかわらず、200もの、エスニックグループが、存在する。世界にも例のない国です。

 この国の、多様性を知るには、南北に縦断するのが、一番なのです。北から、チャド平原、マンダラ山地、ベヌエ盆地、アダマワ山地、リング道路、カメルーン山、ギニア湾、首都ヤウンデ、で最後は、コンゴ盆地、これを、つなげていきます。

 それでは、rilakkumaさん私と一緒に、カメルーン縦断に、でかけましょう。季節は12月から2月までの乾季が一番です。

 まずクッセリここへは、チャドのンジャメナもしくは、ナイジェリアのマイドゥグリーから、すぐ近くです。ここより、ロゴンビルニまで、40kmくらい、ここより、船に乗ります。チャドとの国境ロゴヌ河を、さかのぼります。この船おすすめです。終点からマロアへ、ここは、博物館があります。ここより、この国最大の観光地マンダラ山地に向かいます。

 ここは、カメルーンの、ドゴンです。中心地リムスキには、展望台があります。ここより、ナイジェリア側が、一望に、みわたすことができます。ついでガロアココハ、ベヌエ河に、面した厚い場所です。ベヌエ河の、勇姿を、眺めましょう。ついでアダマワ山地ンガウンデレです、ここは、ヤウンデからの、鉄道の終点北部の入り口、交通の要所です。
 ついで、フムバンに行きます。ここは、南北の境目、マーケットが有名です。つまり、いろいろなエスニックグループが、集まって、いろとりどりになります。
 ここより、南部ですバフッサムここは、コーヒーの産地、ここからバメンダまで80kmしかありませんが、この間でフランス語圏から、英語圏に変わります。どこで変わるか、ギネスの看板を、見てください。Guinesu is good for you の看板が見えれば英語圏です。
 バフッサムと、バメンダ、人口同じようなものでしょうが、町のつくりが、全く違います。

 ここより、リング道路です。さらに標高は、高くなります。2000m近くになるのでは、ないのでしょうか?ケニアハイランドを、思い出すお茶畑が広がっています。
 カメルーン山です。この山海から見えます。つまり駿河わんから望む富士山より、300m高く見えます。リンベここは、港町そして、人口最大の都市、ドゥアラこのくかんで、再び、フランス語圏になります。ドゥアラは、この国で、一番治安の悪い場所ですので、長居はやめましょう。

 南へ、クリビ、ここは、この国最大の漁港です。バールというスズキの一種がおいしいです。
 首都ヤウンデすり鉢状になっています。
 最後はコンゴ盆地、ヨウカドマここは、ピグミー探索の、基地になっています。
 ここより、モロンド、モンゴケレ、ここから、船でコンゴウエッソに入るカメルーンーコンゴごえは、非常に魅力がある、国境越えです。

 メシと酒の話です。メシは、場所によってかなりことなります。ここでは、ヤウンデ周辺の話です。主食のもちは、クスクスというなで呼ばれています。とうもろこし、もしくは、キャッサバ、で作られています。
 バトンというのがあります。バトンのようにひょろ長いから、このなになっています。ザイールに行くとクアンガというなになって、短くずんぐりと、しています。どちらも、キャッサバから作ります。バナナの葉っぱで包まれていて日持ちします。まさに、この主食こそ、コンゴ盆地の味という気がします。

 やし酒というのが、あります。樹木に傷をつけて、そこの、樹液から作るのですが、このような製法なので大量生産は、できません。もし飲むことができれば非常にラッキーでしょう。

 このトピのおちです。ワールドカップの話です。でも、カメルーンという国、こんなめちゃくちゃな、民族構成にもかかわらず、よく一国として、内戦もなく、よく持ちこたえて、いるとおもう、代表選手のエスニックグルプを、しらべてみれば、ばらばらだろう。エトーは、フルベ人では、なかったのかな?よくこれで、チームプレーが、できるものだと思うが?
 日本は、こんな変な国を、相手にしなければ、いけない。はて??どうなるのでしょうか??

コメント(2)

rilakkuma様、これは、国境の話です。電球
 19世紀の、中頃の話です。カイロ→ケープタウンを、目指す、イギリス軍と、ダカール→ジプチを、目指す。フランス軍が、ついに激突します。場所は、ナイル河中流、ファショダ、英仏、全面戦争か?という厳しい局面になります。でも、大英帝国には、とてもかなわぬと見た、フランスは、屈辱的な、全面退却を、強いられます。
退却した先は、アドレ、つまり、今のスーダンと、チャドの国境です。この時点で、両国の国境が、確立されたことになります。ダルフルと、カルツームでは、遠く隔たっています。もうこの時点から、ダルフルは、この国の、辺境に、こういう運命を、背負わされてしまいます。
 だから、今日の、ダルフルの悲劇、そのもともとの、原因は、フランスが、弱すぎた、ということです。
 そして、ベルリン会議です。別名アフリカ分割会議とも呼ばれていますが、これは、ドイツ外交の大勝利に終わります。宰相ビスマルク氏は、とても卓越した、外交官だったようです。
 当然フランスでは、全面退却をした、フランス植民地軍、にたいして、轟々の非難があこったに違いありません。スーダンを、奪回しろ、イギリスと戦争を、のような、世論を、うまく利用したのが、ビスマルク氏です。多分、フランスと、同盟をするという風に見せかけて、イギリスを揺さぶった。そう推測されます
 タンガニーカを、手に入れます。これによって、カイロ→ケープタウンを、阻止します。
 カプリヴィジペルを、ボツワナから、えて、ザンベジ河への、回廊を、手に入れます。そうここ、世界で唯一の、4カ国が接しているところです。でから、私は、このナミビア、この国でもっとも特異なとこですが、カプリジジペルを、ビスマルク氏の遺産と呼んでいます。
 カメルーンもそうです、英仏両方から、領土を得て、チャド湖への回廊を、手に入れます。だからカメルーン北に行くほど、細くなっていて、国土が、直角三角形の、様な形を、しています。これも、私は、ビスマルク氏の遺産、と呼んでいます。
 かくして、チャド湖の南の、エスニックグループは、3等分されたに違いありません。
 で、首都ンジャメナの位置は、カメルーンに、近い西の端にならざるを、得なくなりました。
 で、多分人口あわせで、南部もチャドに入れてしまい、結局チャドという国、南北に長く、異なったエスニックグループを、多く含む、民族紛争の、絶えない国、として、独立をせざるを、得なくなりました。

 ダカールから、ジプチまで旅行します。オリジナルな、宗主国を並べます。独立国は、リベリアとエチオピアです。
 仏、英、仏、ポ、英、独立、仏、英、独、仏、英、独、仏、英、独立、英、伊、仏
 となるのですが、驚くべき結果になります。隣が全部違う!つまり、ギニア湾岸を、見てもらえれば、わかるのですが、南北に長い国が多い、なぜそうなるか、ヨーロッパ列強が、こぞって、海岸から、内陸に、植民地を、広げていったからです。
 で、rilakkuma様、私が何を言いたいのか?つまりアフリカの国って、ヨーロッパ列強が、民族を無視して、地図上で、勝手に決めたものなので、ヨーロッパや、アジアのそれとは、かなり意味合いが、違う
 つまり、リベリアや、シエラレオネのような、小さい国にいって、訪れた国の数を、増やすより、ナイジェリアに、何回も行ったほうが、よいのです。
 アフリカに、行ったものは、アフリカに、再び戻る、これは、以前行った場所に、戻る。そういうことなのです。つまり、何年か後に、同じ場所に行く、私のことを、覚えてくれている人もいる。前回もそうでした。4年前、ウィンドホックのカードボードボックス、B.P.、あるスタッフは、私のことを、覚えていた。じつは、これ、私は、酔っ払って、彼女に皿を投げつけたことがあったのですが、そのことを、覚えていてくれて、とてもうれしかった。

 だから、こういう旅こそお勧めなのですが指でOK
続きです、字数オーヴァーに、なってしまいました。わーい(嬉しい顔)

 ヨーロッパ列強が、どのように、植民地化したか?まず、最も強い、イギリスが、最もよい場所を、植民地化します。ついで、フランス、これは、マブレグを除くと、砂漠とか、密林ばかりです。
 ついで、統一の遅れた、ドイツ、両国が最も植民地に、しにくかったところ、トーゴ、カメルーン、ルアンダ、ブルンジ、つまりこれらの国は、山が多くて、なかなか内陸に、いけなかったものと思います。

 タンガニーカ、つまりタンザニアの大陸部分、これは、多分、アラブ人の、力が強く、イギリスがなかなか、植民地にできなかったのだと思います。いまでも、この国の内陸部、イスラム色が、強いです。
 また、トーゴと、カメルーンの共通点、どちらも、ビールが、おいしいことです。これも、もともとは、ドイツ領だったというのが、関係している荷かもしれません。

 さて、ビスマルク氏、この後、変わった、皇帝と、そりが合わず、失脚してしまいます。で、ここから、このドイツ、は、おかしくなって、2つの世界大戦に、突入してしまいます。

 ビスマルク氏のな、ナミビアのスワコップムンドの、メインルートに、今もその名を、残しています。この町、ドイツ人が、ナミビアに、入国した、最初の町、つまり、ドイツの心が、ある町です
 
 第一次世界大戦、もちろん、植民地でも、戦闘は、起こったわけです。ドイツは、アフリカにある植民地を、全て、失ったわけですが、ナミビアだけは、占領したのが、南アフリカだということで、彼らをここから追い出さなかったのです。おさらくアパルトヘlトを、続ける、アフリカーナにとって、ドイツ人は、ゲルマン系で、文化が近く、追い出さないで、そのままにしとくほうが、得策だと、考えたかもしれません。

 ウィンドホックにも、とても短いと通りなのですが、ビスマルク通りというのが残っています。多分これドイツが、最も強かった次代を、懐古する為、アフリカ人にとっては、最も最悪の人物を、かろうじて、残してもらっている。野かもしれません。

 このコメントの落ちです。
 2099年某月某日、アフリカ合衆国の大統領Julius Beger氏は、首都アディスアベバで、次のような声明を出されました。
 ”私たちアフリカ合衆国は、ついに中国を、追い抜かし、世界のG.D.P.の30パーセントを、生産するようになりました。ここまで、成長できたのは、ひとえに、ヨーロッパ植民地主義の、おかげです。なぜって、私たちは、過去に、ルアンダ大虐殺や、ダルフルの虐殺など、多くの同胞を、惨めな死に、追いやりました。でも今、私たちは、彼らの、尊い死の上に繁栄を、なしています。
 私たちの、民族を、全く考慮しなかった、国境、このためにどれだけ同胞が死んだことか!でも、私たちは、それを、乗り越えました。彼らは私たちに試練を与えました。でもその試練を、乗り越えることによって、さらに、多くのものを、得ることが、出来ました。
 つまりヨーロッパ列強が、与えてくれた、国を、まとめるよりも、そのまとまった国を、ひとつのアフリカ合衆国にするほうが、よっぽど、簡単だったのです。ありがとう、ビスマルクさん、ベルリン会議、そしてヨーロッパ植民地主義の皆様、本当にありがとうとお礼を、言いたいです。”

 これは、決して冗談で書いているのではありません。誤解なさらぬように。指でOK手(チョキ)


 

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