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2ちゃんねるコミュのサンデル教授 JUSTICE

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前回は自己の物語的観念について議論した。そして、同意とは無関係に生じる非連帯や集団の構成員としての義務について考えてきた。そうした義務は私たちが交した契約や合意、あるいは選択とは別の理由で生じるものだった。そして私たちにはこの種の義務があるかどうか、あるいは全ての連帯や集団の構成員としての義務は同意、相互性、もしくは私たちが人として、人に負っている普遍的な義務につながるかどうか議論した。

君たちの中には忠誠心や愛国心を擁護する人たちがいた。すると、忠誠心や集団の構成員であるという考えは私たちの議論の中で道徳的に訴える力を持ち始めた。そして、講義の最後に私たちがその考えの反証と思われるもの、つまり、1950年代のアメリカ南部の人種分離主義者の証言映像をみた。

彼らは自らの伝統や歴史、そして生活と密接に関わるアイデンティティについて語っていた。南部の人種分離主義者にとって、その歴史や物語的なアイデンティティから生じるのはどんなものだったのか。彼らは自分たちの生活様式を守りたいと言った。これは自己の物語的観念に対する決定的な反論なのだろうか。それが私たちに残された問題だった。

今日は議論を進め、君たちがどう受け取るか見たいと思う。議論の内容はこうだ。

私は個人についての守秘主義的観念に対して、個人の物語観念を弁護したい。我々には連帯や集団の構成員としての義務があるという考え方を弁護したいのだ。そして、そのような義務が存在することが次ような考えを強めるということを信じたい。

それは正義について議論する時、結局、善の問題から離れることはできない、という考え方だ。

しかし、私は正義と善を結びつける2つの方法を区別し、そのうちの1つを支持したい。カントとロールズの人格についての守秘主義的な観念は強力で開放的なものだった。さらに魅力的なのはその普遍的な面が、つまり、偏見や差別なしに個人を個人として扱うという考え方だ。

君たちの内の何人かは集団の構成員としての義務はあっても、それは普遍的な義務、つまり、私たちが人類に対して負っている義務に、いつも劣るに違いないと論じたが、それはこの考えからきているのだと思う、だが、それは正しいのか。

私たちの普遍的な忠誠心が常に特定の人への忠誠心を優先しなくてはならないのなら、友人と知らない人との違いは乗り越えるべきだということになってしまう。友人への特別な配慮は偏見になり、いかに人類全体への配慮に対して考えていないことがわかるものさしになってしまう。
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この考え方はどのような道徳的無知、どのような道徳的想像力に私たちを導くだろうか、啓蒙思想家モンテスキューはこの容赦なく不変化しようとする傾向が、道徳的想像力をどこに導くのかについて、おそらく最も強力で最も正直な説明をしている、彼はこう表現した。

本当の有徳な人は最も他人を助けるためには友人に対するのと同様に迅速にかけつける。そして彼はこう付け加えた。完全に有徳な人に友人はいないだろう。

しかし、人々が有徳過ぎて友人が必要なくなり、普遍的な友情だけが残るような世界は想像しがたい。問題はそのような世界をつくるのは難しいとか、非現実的だと言うような、単純なものではない。

もっと深刻な問題はそのような世界は人類の世界として認識しがたいということだ。人類愛は気高い感情だが、多くの場合、私たちはもっと小さな連帯で暮らしている。これは道徳的に共感できる範囲の限界を反映しているだけではない。さらに重要なことに私たちが人類を愛することを一般論ではなく、特定の表現を通じて、学ぶという事実も反映しているのだ。こういったことは考慮すべき事柄ではあるが、決定的な議論ではない。道徳哲学に決定的な議論というものは存在せず、そこにあるのは、私たちがずっと話し合ったきたような交流事項だけだ。

さて、個人と義務の構図が正しいかどうか、評価する1つの方法はそれが正義にどうのような影響を及ぼすかみることだ。

正義に深刻な問題をもたらす例として、人種分離主義者の話に戻ろう。伝統的な生活を守りたいと望む人種分離主義者たちを私たちは賞賛するのだろうか。私たちが連帯や集団の構成員という考え方を受け入れたとすればどうだろうか?南部の人種分離主義者を含む、特定のコミュニティや伝統を含む正義が何であれ、正義は善と結びついている、と言っていることになるのだろうか。

ここで重要なことは正義と善を結びつける2つの方法を区別することだ。1つは相対主義的な方法で権利を考えるため、正義を考えるために、ある時代のあるコミュニティに広がっている価値観に頼る方法である。

その価値観を外部の基準で判断してはならない。そうではなく、正義を特定の文化の共通認識に忠実なものとして受け止めなければならない。しかし、この方法で正義を善と結びつけるには問題がある。なぜなら、正義を全く監修的な環境の産物にしてしまい、その非常に重要な特徴を奪ってしまうからだ。

しかし、正義を善と結びつけ、密接な関係と結びつける2つ目の方法がある。
正義の原理を正当化するために、特定の時代の特定の場所に広がっている価値観に頼ることはない。そうではなく、権利がもたらす道徳的な価値や目的に内在する善に頼るのだ。この非相対主義的な見方では権利を承認するかどうかは、それが何か重要な人類の善を促進するかで決まる。

もし、コミュニタリアニズムが正義の定義を特定のコミュニティにゆだねることを意味するのならば、この正義を善と結びつける2つ目の方法は厳密に言えば、コミュニタリアニズムではない。これから正義を善を結びつける2つの方法のうち、1つ目が不十分であることを示したい。

それは、正義を監修の創造物にしてしまう。それは伝統的な暮らしを守りたいと考える。南部の人種主義者を論破するのに、十分な道徳的論拠を与えてくれない。
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一方、正義が非相対主義的な方法で善を結びつくとすれば、難しい問題が残る。善を論じる方法はあるのか、善の概念は人によって異なるという事実はどうなるのか、人々は主要な社会制度の目的が何なのか、どんな社会の善や人類の善に名誉を与えるべきか、といった点について異なる考えを持っている。

私たちは多元的な社会に暮らしており、人々の間で善についての合意は存在いない。だから、特定の目的な善に依存しない、正義や原理を見つけようとするのだ。

善を論じる方法はあるのか、その質問に取りかかる前に、もう少し簡単な質問をしてみよう。正義を議論する上で善について議論することは避けられないのだろうか、私の答えはイエスだ。それは避けられないことであり、必要なことだ。

今日の残りの時間で私は正義について議論する上で、善や意図、目的について論じることは避けられないことであり、必要なことでだという主張を進めていきたいと思う。それを明らかにするために、これから同性結婚について議論を始めたい。

さて、同性結婚は道徳的にも、宗教的にも、論争の的となり、大きな物議をかもす見解を導き出している。従って同性愛が道徳的に許されるかどうか、社会制度として適切な結婚の目的は何なのか、といった代理論になる道徳的、宗教的な問題について社会全体としての判断がなくても、正義や権利の概念を構築することが、強く望まれるのだ。

これらの道徳的、宗教的紛争を社会全体として解決することを求めることなく、人々の権利を定義することができるなら、それはとても魅力的だろう。

では、これから同性結婚の事例を使って、同性愛は道徳的に許されるのか、結婚の目的は何なのか、といった個人の見解を国家が同性結婚を認めるべきかいなか、という問題から切り離すことが可能かどうか、みていきたいと思う。では、はじめよう。

まずは同性結婚はあるべきではない、と考える人。国は男女間結婚のみ認めるべきだと信じている人の意見を聞きたい。ボランティアはいるかな?この講義のブログで自分たちの意見をすでに表明した2人に頼んでおいたんだが、、、マークとライアンはどこにいるだろう。君がマークか、ライアンは?君か!ではマークから始めよう。

学生A(マーク):僕はセックスの目的、結婚の目的について、目的論的な理解をしています。僕のようなキリスト教徒でカトリックでもある人間にとって、セックスの第1の目的は生殖です。そして、もう1つの目的は結婚という制度の中で男性と女性を結びつけることです。
つまり、君は人間の生活度は生殖と深く結びついているというある種、つまりテロスの概念を持っているんだね。
学生A(マーク):はい。
すると、社会の制度としての結婚の目的はテロスを表現し、その目的、すなわち生殖という目的に名誉を与えることにある。君が言いたいのはそういうことかな。
学生A(マーク):はい。

ライアン、どうぞ、君もマークと同じ意見だろうか。
学生B(ライアン):はい、結婚の理念は生殖と関係していると思います。同性愛者がかけおちして、一緒に住むことに問題はありません。しかし、政府にそれを後押しする責任はないと思います。
政府は結婚の承認を与えることで、同性愛の行動を促すべきではない、ということです。禁止するのは間違いでしょうが、後押しする必要もありません。
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誰か意見のある人は?ハナ!どうぞ!

学生C(ハナ):マークに質問です。例えば、あなたが女性と結婚したとして、結婚後に自分たちが不妊のカップルであることが明らかになったとします。その行為から子供から生まれない場合に、セックスは違法だとすべきだと思いますか?

学生A(マーク):その必要はないと思います。だからさっき、セックスの目的を2つあげたのです。年老いたカップルも結婚することができると思います。既に閉経を迎え、子供を生むことができない女性もです。セックスには生殖を超えた目的があると思うからです。

学生C(ハナ):失礼ですが、マスターベーションをしたことは?(会場笑い)

ちょっと待って、それには答えなくていい(会場笑い)
君の質問は、、(会場笑い)、、わかった、ちょっと静かに(会場笑い)、君は質問を、、

学生A(マーク):その質問に答えたいと思います。
いや、それは、、、、ちょっと待って!!(会場笑い)君たちはこの学期中とてもよくやってきた。大学で話し合えるとは思えないような問題を扱い、今もとてもうまくやっている。ただ、君はいいところをついている。でも、それを一般的な議論として言ってくれないかな?(会場笑い)個人を問いつめるのではなく。論点をはっきりさせて欲しい。君が考えている論拠は何だろうか?

学生C(ハナ):はい、聖書では、、、
3人称でね、、あくまでも3人称で、、、(会場笑い)、、2人称ではなく、、、

学生C(ハナ):わかりました。聖書ではマスターベーションは許されていません。子供の誕生につながらなければ、地上にあなたの種をこぼすことになるからです。でも、私が指摘したいのは、あなたが子供を生み出さない場合や結婚の絆を強めることがない場合のセックスは間違っていることです。どうして、間違っていると言えるのでしょうか。マスターベーションが明らかに子供を生み出さないのに、許されているではありませんか。

学生A(マーク):結婚は社会が美徳と考えているものを制度にしたものだと思います。たしかに僕たちは毎日、期待通りには生きられません。人には多くの点で足りないところがあります。誰かに道徳的な決定があったからと言って、その人の議論する権利が奪われることはないと思います。

ありがとう、君たちにはそこにいてもらいたい。そのまま、他の意見を聞いていこう。君!

学生D:マスターベーションへの答えは、、、
名前は?
学生D:スティーブです。
どうぞ。

学生D(スティーブ):マスターベーションは人が許可するようなものではありませんし、同性愛のセックスは許されないと議論する人もいないと思います。マスターベーションをする人が自分自身と結婚することを社会が認めないだけです。

なるほど、ハナ。(会場笑い)
スティーブはいい意見を述べてくれた。(会場笑い)
スティーブはここには2つの問題があることを示唆している。1つは様々な行為を道徳的に許すかどうかという問題、もう1つは道徳的な面とは関係なく、ある行為が国が結婚という名誉と承認を与えることに適合性があるかという問題、スティーブはとてもいい反論をしているが、君はこれに何と答える?

学生C(ハナ):人間の性機能はほとんどの人が生まれつき持っているもので、性活動は避けることのできないものです。マスターベーションについては、たしかに自分自身と結婚することはできません、しかし、同性愛者も同じ人間ですから、なぜ彼らが結婚できないのか、私には理解できません。もし、あなたが自分自身と結婚したいと言っても、法的には無理かもしれないけど(笑)、私はかまいません。

待って待って!私たちは今、立法者のように法がどうあるべきか決めようとしている。
スティーブにそれは構わないと言った。立法者としての君は自分自身と結婚できる法律に賛成票を投じるということかね?

学生C(ハナ):そんなことが実際に起きるわけはないと思いますが、私としては原理上はスティーブが自分自身と結婚したいのなら、私は止めません。
君は国家の承認を与えるんだね。彼の単独結婚に。(会場笑い)
学生C(ハナ):もちろんです。
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では、合意に基づく一夫多妻結婚はどうだろう。
複数の妻と1人の夫、あるいは複数の夫と1人の妻が同意するのであれば、許されるべきだと思います。

他の人の意見を聞いてみよう。はい、君!名前は
学生D:ビクトリアです。私たちは結婚の目的論的論法について話していますが、問題はカトリックの立場で話していることだと思います。他の宗教を信仰している人や、無神論者にとては結婚の目的が全くことなる可能性があります。政府にこの国全ての人にカトリックの目的論的論法を押し付ける必要はありません。ですから、同性結婚を認めないのは受け入れられません。それぞれの信仰をとやかく言うつもりはありませんが、同性のパートナーシップ制度、シビルユニオンはカトリックの教会では結婚とは認められません。国には望む人が誰であれシビルユニオンを認める権利がありますが、少数派であれ多数派であれ、国内で特定の信仰を押し付ける権利はないと思います。

なるほど、国は同性結婚を認めるべきだと思うかね。それとも厳密には婚姻ではない、シビルユニオンだけを認めるべきなのか。
学生D(ビクトリア):教会は国の場所ではないので、国が教会での同性結婚を認める権利を持つとは思いません。しかし、シビルユニオンは宗教の下ではないことを除けが本質的には同じものだと思いますし、国にはそれを認める権利があると思います。

つまり、国は結婚のテロスが何であるかを判断しようとすべきではなく、それは宗教的なコミュニティだけが決めることのできるものだということだね。他には?

学生E:私にはそもそもが国が結婚を認めるべきだと考える理由がわかりません。国はいかなる結婚でも認めるべきではないと投票した70人のうちの1人です。結婚は男性と女性の結びつき、もしくは2人の男性、あるいは2人の女性の結びつきですが、国かと結びつく許可をもらう理由はないと思います。国が結婚を認めれば、拘束力が生まれ、子供のためにもなるという人もいるかもしれませんが、現実には拘束力があるとは思えません。

君の名前は?
学生E:セザンです。

ビクトリアとセザンの意見は最初の何人かとは異なっていて、国は結婚や人間の性活動のいかなる特定のテロスや目的にも名誉を与えたり、承認したり、肯定したりすべきではない、と言っている。セザンはそれゆえ、国は結婚を認める役割から手をひくべきだという1人だ。

ここで問題だ、国はどのような結婚を認めるべきではないというセザンの意見をとることなく、つまり、結婚の適切なテロスを巡る道徳的、宗教的な論争について態度を明確にすることなしに同性結婚の問題を判断することは可能だろうか?次回はこの問題をとりあげる。参加してくれたみんな、よくやってくれた。ありがとう。

コメント(6)

私たちには2つの問いが残っていた。まず、正義について考える時、善き性の問題について検討することは不可欠なのか、答えはイエスだ。次に善について論じることは可能なのか、これもイエスだろう。

ではこれからこの2つの問いに対する答えを発展させたいと思う。これらの問いに取り組むために、私たちは前回、同性結婚の問題を議論し始めた。すると、同性結婚に対する反対意見が出た。結婚の目的、つまりテロスの一部は生殖であり、子供を生んで育てるということが、彼らの反対理由だった。

一方で、同性結婚を擁護する人たちもいた。彼らは異性愛者の結婚に生殖能力があること、あるいは子供を望んでいることが必ずしも求められることではないと主張し、結婚の目的は生殖であるという説明に異議を唱えた。

我々は不妊のカップルの結婚を認めている。というのはハナの主張だった。そして討論の最後に別の見解を示したビクトリアは私たちはこの問題を判断しようとすべきではないと論じた。我々は少なくても国家レベル、法律レベルでは善についてのそうした問題について合意に至ろうとすべきではない。なぜなら我々は異なる道徳的、宗教的信念が存在する多元的な社会に暮らしているからだ。

よって、これらの競合する見解について、州立的な法律や権利の枠組みをつくるべきである。

興味深いのは、これ以外に結婚を男性と女性によるものに支持するわけでもなく、同性結婚を認めることを支持するわけでもなく、中立の立場を取る人たちがいたことだ。彼らは中立の立場をとることによって政府は結婚というものを役割から撤退すべきだという3つ目の可能性を論じた。それが第3の可能性だった。

さて、アンドレアメイロウズが興味深い見解を示している。彼女は中立の立場に賛成する人たちに意見があると言う。アンドレアはどこだい?アンドレア、君の見解を話してくれないかな?意見を聞かせて欲しい。なぜ君は国家が同性結婚のような道徳的で宗教的でさえある問題に対して、中立であろうとすることが間違いだと思うのかな?

学生A(アンドレア):人々の生活は世界をどのように見るかに左右されるのに、国家が中立でいることはできるのでしょうか。私はアリストテレスが言うように、政府の役割は人々が何が良くて、何が悪いかを集合的に理解することを助けることだと思います。

それが可能かどうか、同性結婚を妊娠中絶に置き換えて考えてみよう。君は中絶は道徳的に許されるかどうかについて、自分の立場を決めることなく、あるいは判断することなく、中絶を許すべきか、禁止するすべきか、決めることができると思うかな?
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学生A(アンドレア):いいえ、それはできないと思います。だからこそ、これほどの論争になっているのではないでしょうか。人々は胎児は命かどうかについて、根本的な心情を持っているからです。もし私が胎児が生きていて、生存権を持っていると信じているとしたら、自分の考えを脇において、他の人のしたいようにさせるのは、とても難しいことです。私にとっては殺人であるということを、あなたにはさせましょう、と言うようなものだからです。
なるほど、同性結婚の例に戻るが、君は同性結婚の擁護者だと言ったね。
学生A(アンドレア):はい。
しかし、君は根本的な道徳的な問題について納得して、はじめて、その見解に達したんだね。
学生A(アンドレア):そうです。多くの人の心情は信仰により、決定されます。私もキリスト教徒でカトリックです。私はよく考え、祈り、たくさんの人と話した上で、同性愛は罪であるというカトリックの見解に反対だと判断しなければなりませんでした。そして、神と自分の個人的な関係の中でその結論がでると、嫌に宗教的に聞こえますが、多くの人は信仰から自分の心情を引き出しているんです。私が国が同性結婚を許すのに賛成だと思うのは、それでいいと思うし、道徳的にも問題ないと思うからです。

ありがとう、誰か今の意見に反論がある人はいるかな?君には、もう少し、そのままで居てもらいたい。アンドレアの考えは同性結婚についての問題を判断するには、同性愛の道徳的な立場についての問題を整理し、結婚の意味やテロス、適切な目的を解明する必要がある、というものだが、これに対して、意見のある人はいないかな?この点について、アンドレアに反対する人の意見を聞きたい。君!

学生B:自分の道徳的な意見と、どのような法であるべきかは切り離せると思います。例えば、僕は中絶は明らかに道徳的に間違っていると思いますが、法にすることで中絶がなくなるとは思えません。だから、僕は妊婦が中絶を選択できることに賛成で、女性の安全のためにも選択権があるべきだと思います。道徳的には僕は男性と結婚したくはありませんが、法という面で誰かがしたいことをする自由を邪魔しようとはしないのと同じことです。

アンドレア!!

学生A(アンドレア):何かを合法にする、あるいは違法にすることは暗黙のうちに賛成するか、反対するかということです。もし中絶を合法にすれば、私たちが社会として集団的にそれは問題ないと言っていることになります。反対にそれを違法にしたら、社会として集団的にそれはダメだと言っていることになります。それぞれの社会には異なる心情があるのです。

さっきの君、名前は?
学生B:ダニエルです。
君はどう答える?

学生B(ダニエル):僕たちはそれは問題ないと言っているのではなく、違法なクリニックで中絶し、危険な状態に陥る女性を望まないと言っているのではないでしょうか。
なるほど、同性結婚の例に戻ろう。ダニエル、君は同性結婚は法的に認められることに賛成だね?
学生B(ダニエル):それは僕に男性と結婚することを強制するようなものではありませんから、2人の男性が結婚したいのなら、どうして僕に反対できるのかわかりません。
害はないからね。
学生B(ダニエル):僕にはそれは道徳的に間違っていたとしても害はありません。

結構、ではここで、アンドレアとダニエルが話した同性結婚の問題について、マサチューセッツ州の裁判所がどんな画期的な判決を下したかみていこう。2人ともありがとう。裁判所は何と言ったのか。これはグッドリッチという男性の訴訟で、マサチューセッツ州に対し、結婚の枠組みを同性カップルにまで拡大するように求めたものだ。

当初裁判所には意見の対立があった、判決文を注意深く読んでいくと、裁判所は私たちがついさっき聞いた2つの主張、アンドレアとダニエルの立場で対立していたことがわかる。これはマーガレット・マーシェルの判決文だ。最初はリベラルな中立性への試みからはじまる。多くの人は結婚は男女間に限るべきであり、同性愛行為は道徳的に反するという強い宗教的、道徳的信念を持っている。同時に多くの人が同性愛者には結婚する資格があり、彼らは異性愛者と等しく扱われるべきであるという、同様に強い宗教的、道徳的な信念を持っている。どちらの見解も我々の前にある問題には答えていない。

重要なことは、個人の自立性と法の下の平等の尊重である。重要なことは個人が2人だけの約束を交す相手を自由に選ぶことである。言葉を変えると、問題となっているのは、選択の道徳の価値ではなく、個人の選択する権利だ。

これは裁判所の判決文のリベラルで中立的な立場だ、主意主義的な立場で、自立、選択、同意を重視するものだ。

しかし、ここで裁判所は同性結婚を認めるためには、リベラルな主張、中立的な主張だけではうまくはいかず、その見解に到達できないことに気付いたようだった。それが個人の自立性の尊重だけの問題であって、自由意志による親密な関係の道徳的な価値に、政府が本当に中立なのであれば、違う政策をとっているはずだからだ。その政策とは、国と政府から男女の結びつきに承認の役割をなくすということだ。本当に中立的な政府というのは、第3の立場として、私たちが表現してきたものだ。

それはジャーナリストのマイケル・キンズリーが支持しているもので、彼は国の機能としての結婚の廃止に賛成している。わかりやすく言えば、国境制度の場合と同じように、結婚の制度を廃止するということだ。キンズリーの考えはこうだ。

彼は自分が同性結婚に反対する理由は、中立的な寛容の限度を超えて、同性結婚に政府の承認を与えることになるからだと指摘する。それが論争の中心にあるものだ。

アリステトテレスの言葉を借りれば、ここで問題となるのは、任務と名誉の適切な分配、つまり社会的承認の問題だ。リベラルや中立性や無差別性、あるいは自立的な権利だけに基づいて同性結婚と正当化することはできない。問題になっているのは、同性結婚には道徳的価値はあるのか、それは名誉と承認に値するのか、結婚という社会制度の目的に合致しているのだろうか、ということだからだ。

キンズリーは君は中立になりたいのかと問う。それなら、教会や他の宗教機関に結婚式を提供させよう。デパートやカジノが望むなら、彼らにも参入させよう。カップルに望み通りのやり方で挙式させ、好きな時に結婚したと考えさせよう。結婚を望む3人がいれば、あるいは自分自身と結婚したい人がいれば、そしてほかの誰かが彼らのために式を行い結婚を宣言したいのであればそうさせよう。あなたと政府が関わっていないのなら気にすることなどない。そうキンズリーは言う。

しかし、これはマサチューセッツ州最高裁判所の望んでいた立場ではない。彼らは結婚制度の廃止を訴えたわけではないのだ。裁判所はある親密な関係に社会的な承認を与える政府の役割については問題にせず、反対に結婚について、私たちのコミュニティでもっとも実り多い、大切にされている制度の1つである、と雄弁に語り、結婚の定義を同性のパートナーを含むところまで拡大した。
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その過程で裁判所は結婚は個人の選択をどこまで強要するかという問題以上のものであると認めた。それは社会の承認と名誉の問題でもある。

マーシャル判事はこう書いている。
全ての民事婚には3者が関わっている。結婚を望む2人とそれを承認する国家である。民事婚は深く個人的や約束である一方で、相互関係、交友、親密さ、家族の理念に対する法的な賞讃でもある。これが裁判所の見解だ。

リベラルな中立性をはるかに超えている。彼らは公式な承認という形で、結婚を名誉あるものであると祝福し肯定している。裁判所は結婚のテロスについての議論を避けることはできないと、気付いたのだ。

判決文の中で、マーシャル判事は結婚の主要な目的は生殖であるという概念を検討し、却下している。彼女は結婚を許可証を希望する異性愛者にする子供をもうける能力や意思を証明する要件はないとした。受胎能力は結婚の条件ではないのだ。

死に瀕した者も結婚するかもしれない。そこで彼女は私たちが前回はじめたように、結婚の適切な目的、本質的な性質、テロスについての議論を進め、こう結論付ける。生殖ではなく、パートナーのお互いに対する高級な約束が結婚の本質的な点であり、目的なのである。

さて、私がこの裁判所の判決について言いたいことは、同性結婚への賛成でも、反対でもない。根底にある、道徳的、宗教的な問題に中立的な立場をとりながら、同性結婚を支持、あるいは否定できるという主張には反対だと言うことだ。

このことは次のことを示している。
私たちの社会で、正義と権利をめぐって、激しく争われている議論のいくつかにおいては、ただの同意と、選択と自立の問題だから、我々はどの立場も取らない、と言って中立であろうとしても、うまくいかないのだ。道徳的、宗教的な論争では、中立でありたい裁判所であるさえも、そうはできないとわかった。

では、善の論じ方の問題はどうだろうか。正義と権利の議論において、善について論じることが、避けられないのなら、善を論じる方法はあるのだろうか、善について論じることが道徳性に関して意見の相違があるたびに照らし合わせる、善き生についての唯一の原理で、あるいは規則をみつけなければいけないのだとしたら、答えはノーだ。

ただ1つの原理、規則を持つことは、善き生や正義について論じる、唯一の方法でも、最善の方法でもない。

正義や権利について、そして善き生について、私たちがここで議論してきたことを思い出してみよう。

議論はどのように進んだだろうか、それは、アリストテレスが指摘した通りのやり方で、進んできた。つまり、ここの事例、出来事、問題についての私たちの判断は行ったりきたりしていた。ここの事例や問題についての判断と、ここでそのような立場をとった理由を説明する。より一般的な原理の間で、行ったり来たりしていたのだ。

このような道徳的論法の弁証法的なやり方は、古代ギリシャの哲学者、プラトンやアリストテレスまでさかのぼる。しかしそれは、彼らで終わることはなかった。ロールズが正義論を正当化する手法を説明した際、彼は素晴らしい明晰さと説得力を持って、ソクラテス的、弁証論的な道徳的な論法を擁護したからだ。

ロールズが論じたのは、無知のベールとその背後で選ばれる原理だけではない、彼は反証的均衡という正義についての道徳的論法についても論じているのだ。

反証的均衡とは何だろうか。それは、ここの事例について、私たちが下した判断とそれらの判断の根拠となる、一般的な原理との間を行ったり来たりすることだ。だが、私たちの直感は間違っているかもしれないから、そこにとどまるのではなく、その作業をした後に、ここの判断を原理に照らして見直すこともある。

原理を見直すこともあれば、個々の事例の判断と直感を見直すこともある。ロールズによれば、その一般的な主旨はこうだ。正義の観念は自明の前提からは導き出され得ない。それは多くの考慮事項が相互に支え合い、全てが1つの趣味一環した見方に整合化される。のちに彼は正義論でこう書いている。

道徳的哲学はソクラテス的である。私たちは自分たちの差し当たりの判断を1度、それらを規制する原理が明るみにでれば、変えたくなるかもしれない。ロールズがこのように考え、反証的均衡の考え方を進めるなら、私たちに残された問題は、彼がそれを道徳性と善き生の問題ではなく、正義の問題にあてはめていくことを、そしてそれゆえ、彼が善よりも権利が優先するという考え方を問い続けているということだ。

ロールズは反証的均衡の手法は正義と権利については、共有される判断を生み出すことができると考えているが、それが善き生と包括的な道徳的、宗教的問題についてまで共有されると生み出すとは考えていない。

なぜなら、彼は現代社会には善についての考え方が多元的に存在すると考えるからだ。論理的に考える良心的な人たちでさえ、善き生の問題、道徳性や宗教の問題は互いに意見が合わないことに気付くだろう。その点において、ロールズは正しいと思われる。
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彼は多元的社会には意見の相違があるという事実を語っているだけではない。善き生と道徳的、宗教的問題の間には、たえず意見の相違があるであろうことも示唆している。しかし、それが真実だとすると、正義については同じことが言えないという、彼のさらなる主張は正しいと言えるのだろうか。

私たちは実際のところ、多元的社会において、正義についても合意しないのではないか。そして、少なくとも、それらの意見の相違のいくつかは、道理にかなった当然の不一致なのではないか。リバタリアンの正義論を支持する人もいれば、もっと平等主義的な正義論を好む人もいる。自由放任主義的なリバタリアンの正義論から、より平等主義的なものまで私たちの社会では私たちの社会では多元的な考え方がある。

私たちが正義や言論の自由の意味、宗教的、自由の性質について議論について生じる、道徳的論法や意見の相違の間に何か原理上の違いはあるのだろうか。最高裁判所の判事指名をめぐる議論を考えてみよう。

正義と権利についての意見の相違ばかりだ。道理にかなった考え方が多元に存在するという事実に、正義と権利の場合と道徳性の宗教の場合とでは違いがあるだろうか。原理上、違いがあるとは思えない。どちらの場合も意見が合わなければ、我々はこの講義を通じてやってきたように、対話の相手を意見を交えることになる。そして、個々の事例から生じた議論を検討し、自分たちを1つの方法に導いてくれる理由を発展させようとする。他者の理由を聞き、時には自分の見解を見直すように説得される。自分の見解を補強し、強化するよういとまれることもある。

しかし、正義に関する道徳的な議論はこうして進むのであり、私には、善き生の問題についても同様であるように思われる。さて、さらなる懸念、リベラルな懸念が残っている。

私たちが、道徳性と宗教について意見が異なるのであれば、正義について意見が異なるのは当然だと考えるようになったらどうだろうか。どうしたら、意見が合わない同胞市民を認める社会に辿り着くことができるだろうか。それは、私たちがどのような尊重の観念を受け入れるかによると思う。

リベラルな観念では同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重することは、いわば、それらの政治的目的のためにあえて無視することである。そういった道徳的、宗教的信念を脇に置いたまま、それらにはふれずに、自分たちの政治的な議論を進めることである。しかし、それは、民主的な生活に欠かせない相互尊重を理解する唯一の方法でもなければ、おそらく、最も打倒なやり方でもない。

私たちが同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重する方法はある。それを無視するのではなく、それらに関わる関心を向け、時には挑み、競い、そして時には、耳を傾け学ぶことだ。道徳的、宗教的に関与する政治がいかなる場合でも合意につながるという保証はない。それが、他者の道徳的、宗教的信念の深く理解することにつながるという保証もない。宗教的、道徳的な教義をより深く学ぶことで、結局それがさらに好きでなくなることは常にありうる。

しかし、私には他者を深く考え、関与していくことは、多元的な社会には、より適切でふさわしい理念のように思える。私たちの道徳的、宗教的な意見の相違が存在し、人間の善についての、究極的な多元性が存在する限り、私たちは、道徳的に関与することでこそ、社会の様々な善をより深く理解できるようになると思える。

講義の最初に、この場所に集まった時、私は政治哲学を賞讃すると共に、その危険性について話した。

つまり、政治哲学がいかに私たちを馴れ親しんだものから遠ざけ、私たちの安定した前提を不安定なものにするかという話だ。私は1度、慣れ親しんだものが、見慣れないものに変わると、それは2度と同じものになることはないと、君たちに警告しようとした。

君たちが多少がこの不安を経験してくれていればいいと思う。なぜなら、この不安は批判的な考え方や政治的な改善、そしておそらく道徳生活さえも活気づけるものだからだ。私たちの議論は、ある意味では終わりにはたどり着いたが、別の意味では続いている。私たちは当初、なぜ永遠に解決できない質問を提起しながらも、これらの議論は続いていくのかと尋ねた。

その理由は私たちは日々、これらの質問に対する答えを生きているからだ。

私たちの公的な生活、私的な生活の中、時には答えなどないと思えても、哲学は避けることができないものだ。私たちはカントの思想からはじめた。懐疑主義は人間の理性の休息所である。そこは独善的なさまよいを熟慮できるところだ、しかし永久にとどまる場所ではない、単に懐疑主義や自己満足に従っても、理性の不安を克服することは決してできない。カントはそう書いた。

この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに通じるかをみることだった。我々が少なくとも、それを実行し、その不安が、この先、何年も君たちを悩ませ続けるとすれば、我々は共に大きなことを成し遂げたということだ。ありがとう(拍手喝采)

THANK YOU !!(拍手喝采

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