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2ちゃんねるコミュの邪馬台国論争を積んだったwwwww考古学者ざまくぁせdrfrvb

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原文はググルで画像検索すると出るかな??


?至る=これから行く。まだ到っていない。到る=到った。着いた。(「狗奴韓国へ到る。倭国へ至る。」と使い分けてある。)
?邑=村
?「似」の文字には、特に意味がないらしい(中国の学者)
?一大卒=大将軍
?邪馬台国は女王の国の都であって、大国ではない。7万戸は連合国の戸数。
?奴国や投馬国は邪馬台国連合ではない。
?女王国より、海を1000余里すすむ先国あり。みな倭人なり。=国東半島から本州まで
?珠濡国=四国の南部(小人が住む。縄文人?渡来人?)
?女王国を去り、4000里で裸国と黒歯国=沖縄周辺
 1里=70〜75m

※真北は北北西です。

【倭人博】
帯方郡より東南の大海の中に在り
旧100余の国
今は通ずる所30余の国
?帯方郡から倭に至るには、韓国の海岸を沿って水行する。南に東に7000里(500km)で其の北岸「狗奴韓国」に到る。
?南に1000里(75km)で対馬に至る。1000里で壱岐に至る。1000里で末盧国に到る。
?東南に陸行を500里(35km)で伊都国に到る。
?東南に100里(7.5km)で奴国へ至る。東行を100里で不弥国へ至る。
?南に投馬国へ至る。水行を10日。
?南「邪馬台国」に至る。女王の都する所なり。水行10日陸行1月。
女王國より以「北」はその戸数・道里は得て略載すべきも、その「余り」の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。
某国は21ヶ国ある。
次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。
此れ、「女王」の境界の尽くる所なり。
その南に狗奴國。
郡より女王國に至ること萬二千余里。(およそ840km)
女王國の東に海を渡る千余里、また國あり、皆が倭種なり。
また侏儒國あり、其の南にあり。人の長三、四尺、(縄文人?)
女王を去る四千余里で(およそ280km)また裸國・黒歯國あり。
またその東南にあり、船行一年にして至るべし、 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里(およそ500km)ばかりなり。
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし「郡」に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて「京都」に詣らしむ。
卑弥呼以て(アメーバの規制対策)、塚(土偏は無い文字)を作る。径百余歩。(およそ150m?)

コメント(3)



※日数は距離と関係ありません。
・魏志は日数で距離を「記録」していません。
・日数で地図は作れません。
・倭人には「距離を数字にして測る」「物差し」の文化の痕跡が見られません。

※「邪馬台国」や「投馬国」や「狗奴国」以外の国は「其の東に〜〜里」としっかり方角と里数が書かれています。
至るは魏志の記途の時には到っていないが、以前に到った事が有って魏志の者が過去に測ったから書かれてあるのです。
しかし、「邪馬台国」「投馬国」「狗奴国」には今まで行った事が無く里数を書けなかったのでしょう。

※魏志の者は距離を正確に「記録」するために倭人に聞いた事でしょう。
だが、倭人には「距離を数字にして記録する文化」が無いので、倭人は日数を教えたのでしょう。
・女王国より北には名前だけ書かれて略された国が有りる。
・名前が書かれた国は、魏志が到っていて「迎賓館」(駐屯地)の有る伊都国から近いから記載されている。
・某国21ヶ国は、伊都国から遠いから詳しく記載されていない。
(その他の詳しく書いた国だったとしても同じ事)
・卑弥呼の墓が「怪100余歩」なのは魏志が測ったかもしれない。
だとしたら、魏が到れた範囲だろう。
違うなら、魏志が倭人に測り方を教えたのだろう。
・女王国より北には「大卒」(大将軍)を置き諸国を検せしむ。常に伊都国で治む。
・「王」、京都・帯方郡・韓諸国へ使いを遣わす。
・代々、男を王をとしてきたが、倭国が70年〜80年乱れて女王を共立する。名付けて卑弥呼なり。
・女王は共立した頃すでに老人で夫も子も無い。王となってから見る者が少ない。
・「鉄」や「絹」や「墓制」などの多くの文化が九州では一致する
・魏志には誤りが少なく「牛馬無し」ぐらいである。(九州と関東では馬具などが出土している)
・真北をおよそ北北西にして読めば何一つとして矛盾が無い。
・記紀では、道の宮宗像大社から韓国を真北と言っており、北北西が真北になっている。
・神功皇后の方位磁石はどれも北北西を向けて指して置いてある。
・記紀と魏志は、方角が感覚が共通した「時代」「文化」である可能性が有る。
・1400年頃に朝鮮で書かれた地図を、57年頃から250年頃の事を書いた「魏志」の「倭人博」と比較しても意味をなさない。

・(これは途中です。学者さんの持論を論破できる話はまであります。)
・色々なサイトを観てて思いますが、「持論」「自説」の間違った箇所という物は不自然であり、素人でも気づいた箇所が多いいです。
・よく、「きっと、何々だと思う」という感情論の持論がみえます。
「感情論」というのは「思う」が付いているからでは無く、持論にその結論へ至る過程と前提が無いものです。
感情論とは証拠(一般的な絶対)や根拠(有力)が全く無いものです。
多くの感情論は読めばわかります。
どうも学者さんは、これぐらいの事は理解しているけどあえて公開しないように思えます。
お仕事が減ると思い込んでいるからでしょうか
寧ろ、調査の具体性や意義が証明されると思うのですが^^

http://ameblo.jp/okayamadaitokai/entry-11076929777.html
【魏志に書かれた国】
※だいたいの範囲です。

・帯方郡=韓国ソウル市
・狗奴韓国(くやかん・かやかん)=韓国釜山
・対馬(つしま)
・壱岐島(いきしま)
・奴国(な・の・や)=八幡市(首都)、若松区、小倉南区、戸畑区
・伊都国(いつ・いと)=水巻町(倭国の首都)
・不弥国(ふみ)=門司区(首都)、小倉北区、小倉南区
・末盧国(すうら)=宗像市(首都)、芦屋町、岡垣町、福津市
・投馬国(とうま)=朝倉市(首都)、久山町、宮若市、直方市、福智町、添田町、星野村、、桂川町、須恵町、矢部村、日田市
・邪馬壹国(ヤマト)=京都町(首都)苅田町、行橋市、築上町、宇佐市、国東半島(くにさきはんとう)、耶馬溪、玖珠町、大分市、別府市、九重町、竹田市
・狗奴国(かや・くや・くな)=宮崎県延岡市(御陵伝説地)、宮崎県北部。熊本県北部(菊池)
・某国21ヶ国=「佐賀県、長崎県」か「中国地方」か「宮崎県南部と熊本県南部」か鹿児島県か(宮崎県と鹿児島県の南部が有力)
・倭人の国=本州。(出雲が首都)
・珠濡国(すじゅ・すず)=四国

・北北西が真北ならば、韓国のソウル市〜韓国の釜山〜日本の京都町〜延岡市までは全てが南である。
・「周施五千余里(およそ500km)」は九州島と島々の範囲。
・「女王を去る四千余里で(およそ280km)また裸國・黒歯國在り」は沖縄県周辺。(倭国の中心地を避けて、基本は陸行で通って測ったはず。)
・「またその東南にあり、船行一年にして至るべし、 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し」は書き始めの「帯方郡より東南の大海の中に在り」と同じ意味である。

・魏志をこのように解釈すると、邪馬台国は九州北東部である。(女王国東には海在り。釜山から末盧国までが南であり、末盧国から京都町までが南であり、京都町から延岡市までが南である。女王国より北には名前だけ書かれた国が在る。)

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