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2ちゃんねるコミュの300年論争である「邪馬台国」の場所は四国か九州なのであるるぅ

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?邪馬台国は、九州東部と四国東部以外では有り得ない。
?奈良県説が、メディアや教科書で有力視されているのはおかしい。
?邪馬台国をほぼ説明できる説がある。


?「倭人の国は大海に絶した島の中にある。倭国と呼ぶ。」「倭国には邪馬台国(壹・臺)がある。女王の都する所である。」「女王国の東に海あり。其の1000里先に国あり。皆、倭人種である。」

倭国と倭人の国は海で別れています。
奈良県派は奈良県を邪馬台国としています。その場合、志摩半島を女王国領土として浜松市あたりが倭人の国と言えます。

陸で繋がっているなら、わざわざ「皆、倭人種」である事を記す必要がありません。
わざわざ、浜松市のあたりの国だけを記す必要はありません。(海の先の浜松市周辺以外にも国の跡はあります。)

地理的に「邪馬台国」は「倭国」にあります。
よって、倭国と邪馬台国は九州東部か四国東部しかありえません。

この証拠に対しての反論は「魏志倭人の条」には誤りが多々あるとしています。因果関係が崩壊しています。考古学としても間違いです。

?奈良県の「纒向遺跡派」におかしい学者が多い事は、近畿説学者や他地域説学者や中立の学者や多くの歴史愛好者が言っています。

纒向遺跡を大集落(大都市)と言うが、跡が無い。
村の跡はあるが、古墳時代前期に作られ、古墳が建った頃には消滅している。(古墳を建てるための村だろう。)
弥生時代の地層から京都府や兵庫県には村の跡があるが、纒向遺跡には村の跡が無い。

国のあった痕跡と主張している銅鐸も「兵庫県」「徳島県」「島根県」「和歌山県」「滋賀県」「愛知県」からは多く出土していますが、奈良県からは全くありません。

纒向遺跡説は細い柱を卑弥呼の宮殿の跡として「先進的な技術があった」言う。 http://youtu.be/r9GTislc_Pg明らかに、宮殿跡としては不可能だから「先進的な技術」と言っているのである。
纒向遺跡は、元々は4世紀(古墳時代初期)の遺跡とされていた。しかし、木の年輪から3世紀の遺跡と言い換えたのである。
他地域の遺跡でも同じ手法を取れば、古墳時代の「古墳」や「鉄」も、縄文時代の「古墳」や「鉄」と言えてしまいうるのだ。考古学上おかしな話である。

纒向遺跡と言うが、箸塚古墳以外の古墳は前方後古墳では無いので文化や時代が違うのである。
古墳の原型であり古墳では無いとの意見もある。
同じ遺跡では無いのである。

近畿からは、「三種の神器であり、卑弥呼が魏から貰った銅鏡」の出土が多いと言う。
近畿を中心に、日本全国で三角縁神獣鏡は出土しているが、4世紀の物であり時代が違う。
卑弥呼が貰った100枚の4倍出土しており、まだ数倍出土するだろうと言われている。
三角縁神獣鏡は4世紀の遺物である事について、三角縁神獣鏡は伝世したと主張している。
魏の年号や呉の年号や晋の年号がある。
三角縁神獣鏡の中に、原料が弥生時代の魏の物である事を調べあげ、卑弥呼が貰った物と主張している。
伝世説や原料は木の年輪を調べるのと同じ事である。倭製の「銅」や「鉄」の製品の原料は多くが輸入物である。
他の地域の遺跡の銅鏡も同じく「魏からの銅鏡」と言えるのである。

纒向遺跡から出土した土器の15パーセントが、東海地方や山陽地方や九州地方といった他地域である事などから倭国の都としている。
纒向遺跡は4世紀であるし、伝世したとの主張に部が悪い。
三角縁神獣鏡が伝世したのは奈良県内からではなく、他地域のどこからでも有りである事になる。

三角縁神獣鏡の原型は、中国の前漢時代の地層から出土している。中国に三角縁神獣鏡は無いと言うが、遺跡調査をあまりしていないからである。

最近の新聞に「九州と出雲の二大勢力に近畿が勝利した説」があった。
九州と出雲が鉄を牛耳っていおり、近畿ヤマト王権が勝利した事が「倭国大乱」らしい。
感動的な話ではあるが現実的には可能性が極めて薄い。
九州と出雲の二大勢力の方が明らかに「武器」も「人口」も多いからである。
何故、弥生時代が弥生時代か、中国大陸や朝鮮半島から大勢人間が渡来してきたからである。
しかし、近畿地方は銅鐸文化と縄文文化が入り交じっている。
縄文人は弥生時代になって、祭祀以外の日常的な物は取り入れても、祭祀の文化だけは変えてないので、銅鐸文化圏は縄文人と争いながら小さな国を有していた事になる。

纒向遺跡で鉄や絹が全く見つからないのは「溶けて無いから」「九州の事」と言うが、首都に無いのはおかしな話である。
首都なら数が多いので、ごく一部が溶けてしまっても多くが見つからなければおかしい。

? http://www.geocities.jp/oden1947/index.htmlこのサイトの管理人は九州よりしている。しかし、多くは正しい。
この説に「巨石文化」と「土偶文化」から縄文時代の考察を加えて、「遺物」「風土記」「地方伝承」「神社の由緒」から「縄文時代との変化」「九州北部以外の話」を考察すればほぼ全てが説明できる。
(オロチ=悪霊と蛇。佐伯人=縄文人=土蜘蛛。イザナギがイザナミに会う話はイザナミの墓場所を示す。)


※円墳も古墳としているのは一々変換するのが面倒だからと円墳も古墳にかわりないからです。

世の中には「科学的客観」や「正しい日本語」はありません。
相互理解を深める姿勢でいましょう。
相手の「持論」「自説」を論破しているわけでも無い無意味な揚げ足とりはせず、わからない所があれば優しくホラ吹き様に質問をしましょう。

コメント(19)

邪馬台国論争してるやつってアホとしか思えないわ
魏志倭人伝の部分なんてどれも信用ならない適当なものなのに。九州か近畿かみたいな話をしてるけど、文面通りに読めば日本じゃなくて海の上に出る。まともに書いてないから論争が起きる

日本人なら古事記・日本書紀をベースに歴史を考えよう
【邪馬台国時代の結論】
・邪馬台国は福岡県京都町
・投馬国は福岡県朝倉市
・狗奴国の領土は熊本県と宮崎から鹿児島県までの南九州全体
・狗奴韓国は伽耶国
・不弥国は北九州市門司区
・末盧国は福岡県宗像市
・伊都国は福岡県水巻町
・女王国とは邪馬台国を首都とする連合国の事であり、現代で言うと県
・倭国は九州北部
・倭人の国とは本州
・倭人の国の南の国は四国
・倭国大乱は島根県の勢力との戦い
・魏志と古代日本の言う真北は北北西
・某国21ヶ国は九首北東部
・1000人が逝った倭国内乱は熊襲の国との戦い
・卑弥呼は「モモソ姫」(40歳〜50歳で斎女王になった)と「トヨスキ姫」
・壹与はヤマト姫(六才半で斎女王になった)
・57年に光武帝様から金印を頂いたのは孝昭天皇
・107年に中国へ朝貢したのは孝安天皇
・親魏倭王の金印を貰った卑弥呼はトヨスキ姫
・266年に中国へ行ったのは神功皇后では無く、ヤマト姫
・卑弥弓呼は日御子子(天孫)であり、天孫降臨の儀式をした王
・壬申の乱の時に朝廷は変わり、都は奈良へ移動した
・大化の改新で古代書は焼かれた
>7
卑弥呼が二人居た説とは、卑弥呼の即位から亡くなるまでが70年あり即位したときに年齢が例え若くて10歳であっても80歳で亡くなった事になるので、長生きしすぎな点と、任期期間が70年は長すぎる点から考察しされた物です。

二倍年歴説とは、当時の倭人の平均寿命が100歳という記録があり、あまりにも長すぎるためと、天皇の最高齢が高すぎるため、真面目に半年間を一年間として記録していたのだろうとする説です。
..
ミュールルンルン 【アマテラスは奈良王朝が創作した神である】
・「三輪の神も伊勢の神も同じ神である」という伝統芸能があること(ニギハヤヒの事)
・最初の神や、イザナギやイザナミより偉いのはおかしいこと
・ニギハヤヒも皇祖神と呼ばれていること
・「スサノオは神祖。我が国の主なり。」と言われていること
・そもそも、伊勢神宮は壬申の乱の記念に建てられた神社であること
・そもそも、和気清麻呂の時代でさえ伊勢神宮よりも宇佐神宮の方が大事だったこと。
・そもそも、天皇家が参拝するのはもっと後であり全く重要視されていなかったこと

【記紀神話は実在した話である】
・古い神社では、神と人を同等と言っていること(「元々、神は人でした。普通の人も亡くなったら神と呼べます。」)(高千穂天岩戸神社)
・ホツマツタエによると、崇神天皇までの日本に宗教は存在しなかったこと(文化としての墓参りや祈願などは有った)


【720年頃以降の、神明造りの新しい神社は卑弥呼の時代を反映してはいないのである】
・アマテラスは創作された神であること


【記紀は、奈良時代までは九州を都としているのである】
・奈良だとしたら、話が矛盾だらけなこと(全く同じ場所に全く同じ地名を名付けて、全く同じ場所で全く違う特徴を書いてある。)
・九州北部なら説明ができること
・壬申の乱で奈良の将軍が朝廷に勝利して、記念に伊勢神宮を建てたのである。
・隼人の反乱の頃は宇佐に神軍があったこと。

【地祇とは、元々の土地神のことでは無いのである】
・縄文人(佐伯人。土蜘蛛)の神を邪神と読んでいること
・縄文人の神(アラハバキ。土偶。)を信仰することを、平安時代になっても禁止していたこと
・地祇は、崇神天皇の遠征あとの国守(将軍)であること


【その他】
・「師・武・建・卒」は将軍の意味である
・魏志の「大卒」とは大将軍の意味である
・魏志の「似て」には特に意味がない(中国の学者)
・卑弥呼の墓は円錐型である(魏志には大作冢とある )
・近畿の王墓は奈良王朝時代まで偽物である。(記紀の話との矛盾)



【日本書紀は前王朝を書いたものであり、奈良時代に王朝は変わったのである】
・豪族主導になったからか王家が交代したのか
・中国の史書である「前漢書・後漢書」などを呼んでいたので可能性は高い
・中国の史書で「〜書」は前王朝を書いたものである
・日本書紀にだけ書かれている、天津神であり邪神であるアマツミカボシは前王朝の最高神である

【ホツマツタエは偽書ではないのである】
・倭人とは、元々は中国の呉に居た者達であり、朝鮮半島を経由して日本に到達したと思われ、星を観測する海洋民族である可能性が高いこと
・ホツマツタエの神は中国と同じく、建国者を星(北極星など)に例えていること
・ホツマツタエの神話は明らかに現代物理学であり、1944年に写本が発見された江戸時代の「偽書」には不可能なこと
・ビッグバンで素粒子と反素粒子が遠心分離した理論。
・陰と陽には素があるとしてある
・他の偽書は、明らかに記紀を理解せず書いたものであるが、ホツマツタエは記紀と同じく奈良以前を九州とすると説明ができること
・宇佐神宮には北極星の神が祀られていること
・現代では、古事記、日本書紀、神社の由緒書き、地方伝承、地名をインターネットで検索したり本を買ったりすれば九州説にたどり着けるかもしれないが、江戸時代では不可能に等しいこと
・江戸時代では現代的な説しか出ておらず、可能性が低すぎること
・「秀真伝」は漢字に訳された偽書であること
・「漢字以前に文字あらず」は、知らなかったか、隠したのか、漢字が無かったと言っているのか。
(万葉仮名を経由して平仮名、カタカナが発明されつつ次第に日本語が形成されていった経緯を読み取るとき、逆に不自然なことになる。万葉仮名自体が、それまでの日本語をベースにして漢字が当てはめられており、これを逆に云えば漢字渡来時点で確固とした上古代日本語が確立されていたことになる)
・簡単に考案できる極めて幼稚な文字だと言うが、簡単に考案できるかどうかは偽書の否定に意味をなさないこと
・江戸時代の言葉が有るというが、同じ言葉でも意味が違う上、文明が発達していて多くの言葉があれば、似た言葉や同じ言葉は生まれること。日本語という言語は極めて簡単な言語であり、韓国語起源説や、トルコ語起源説と同じく意味をなさないことである。

【その他】
・王朝の順番は、前倭王朝→ニギハヤヒ王朝→後倭王朝
・ホツマツタエでは、ニギハヤヒは偽物の天孫とされ国を奪ったとされている

・邪馬台国の時代で既に、漢字は使われていた可能性が高い(卑弥呼の時代まででも、中国と100年は関わっていたこと。倭人は、元々は中国にいた可能性が高いこと。近畿などの、古墳時代の遺跡から和製の銅鏡が発見されたこと。)

・三角縁神獣鏡は古墳時代の和製鏡である(愛知県の銅鐸専門の教授は数千あるだろうと予測していること。近畿地方には鏡の神社が多いこと。中国に無い年号があること)

・島根県の出雲の「出雲国風土記」だけ他の風土記と大きくちがうのはニギハヤヒを祖先とする王朝が有ったからである(本州の日本海に灘が無いこと。大量の銅剣が有ったこと。出雲の神にはスサノオやイザナギとの血縁関係が見えないこと。記紀で有る出雲の神話が無いなど、明らかに記紀の出雲とは別の場所であること)

・灘とは九州の倭王朝が海軍を置いて警備した地域である(鉄の出土や崇神の遠征と整合すること)

卑弥呼は日の巫女である。女王とは斎女王のことでもある。
・当時の方角概念では、女王国より東は本州、其の南は四国のことである。
・真北は現代の北北西である。神功皇后の方位磁石の真北は、北北西を指していること。北北西を真北とすれば説明ができること。そもそも、何の根拠も無しに人工衛星や南極探査や地球儀やらが有る現代と大昔を「同じものさし」で測る事は考古学上有り得ない話がであること
・方位磁石は動いて(機能して)北北西を指したわけでは無く、「いつまでも」「どこでも」同じ方角概念を持つ事で方角上の混乱を避けた跡である。
・不弥国は北九州市門司の富美国である(伝承看板が有る)
・至るは到っていなく、到るは到っているという意味である
・邪馬台国の7万戸は、女王国全体のものである(女王国=現代の県と同じ意味。倭国は日本の大都市圏)
・邪馬台国は女王国の首都である
・投馬国は邪馬台国と同じく連合国で、「トウマ国」であり、連合の首都名である
・トウマ国は、ツキヨミの「月の宮」が有った場所である
・トウマ国の首都は朝倉市周辺である。(遠賀川=淡海。あわうみの近くにツキヨミの宮があること。大集落の遺跡があること。近くにニギハヤヒの三輪山があること)
・高天原とは天体のことであり、九州北部には天体に因んだ地名が多い(星、月、日、昼、夜など)
・日本書紀の作者は中国の史書を読んでいるので、「ヤマト国」(邪馬壹国)を「夜麻登」や「夜摩苔」など「登」や「苔」を多く使っていたのである。当然、「邪馬壹」の「邪馬」は中国側がヤマトを見下して使ったのであり無いのである。
・日本書紀は「苔」も「登」も同じ意味で有るので、中国の史書でも壹と苔の違いを同じく言えるのである。

7>>→>痔でも座りやすい椅子です


【その他】
・邪馬台国=ヤマト国である
・常陸国風土記の吾妻は東を意味する地名であり、元々は九州にも有った。吾妻国(あずま)の別名はトウマ国である(ホツマツタエのホツマ国と同じ意味であり、ホツマ国は九州の国だったから)
・任那国は崇神天皇の弟子(韓国人)が建てた国であり、狗奴韓国である。
・狗奴韓国は伽耶韓国である
・ヤマト姫は、八百万の大臣を従えており、三種の神法を貰っているので天皇である。
・佐田彦とは、アマテルの時代からヤマト姫をずっと待っていた一族である。
・魏志に馬牛が無いと有るが、弥生時代の遺跡から馬の道具は出土しているので、あまり無かっただけだと意味である。
・常陸風土記の通り、弥生時代の吾妻(関東地方)には崇神天皇が将軍に送った馬の鞍が出土した。(九州からもあるが他地域には無く整合する)
・崇神天皇の言う「豊葦原瑞穂の国」とは、豊国(宇佐)葦原(九州の近畿)と、瑞穂国と称された吾妻国である。
・農業大国の吾妻には、征夷大将軍が置かれた可能性が高い。(豊葦原瑞穂国と言われたこと。馬が特別に送られたこと。地祇の反乱が有ったこと。北に縄文人の国が大きくあること。)
・ホツマツタエの天鈴という暦を二倍年歴で計算すると卑弥呼以前に中国へ行った天皇がわかる
・元々は、神は「世界」と世界を成している「素粒子」「反素粒子」のことである
・ホツマツタエは九州を首都としている事だけではなく、本州の話も話が矛盾せずに読めるので偽書だとすると日本全国を調べた事になる。
・ホツマツタエは12万文字1万行も書いてある。
・ホツマツタエでは弥生時代の始まりと倭国の始まりがほぼ一致するが、科学の発展していない江戸時代には推測する事はかなり無理がある。

神功が壱与というのは日本書紀の誤解でした。
でも、必然的に日本書紀の頃にはホツマツタエは無かった可能性がでてきました。

漢字渡来以前の日本に「文字無し」とは知らなかった可能性が高いです。
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34349051.htmlソース。


ちなみに、纒向遺跡の箸塚遺跡は本物の箸塚ではありません。
第一に年代が違います。
卑弥呼の時代よりも後世の古墳時代です。
纒向遺跡の周辺には景行や崇神や神武の墓(天皇陵)もありますが、全て偽物だと言い切れる物です。
もしも正しい天皇陵なら、記紀の「神武東征」があった事は大前提になります。
ですが、ありえません。

近畿地方に東征していながら近畿地方の開拓を10代経ってから行なってしまうこと。
同じ地名を二度同じ場所に付けてしまうこと。
話が飛んでいたり時間が逆流してしまうこと。

あと、前方後古墳は完成に5年〜10年を必要とするため、即位した年(生存中に)に築造され始めたと思われる。
全国の前方後古墳(円墳)は豪族や王族が自身のために建てさせたと思われ、大きさ=権力とは言えない。(独断で建てたから)


瑞穂の国(吾妻)にだけ馬が送られたのは関東地方が農業大国なので、征夷大将軍を置いたから。
「豊葦原瑞穂の国」の豊は宇佐。葦原は地祇の本拠地である福岡県北部。瑞穂は吾妻(関東)
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌(いわお)となりて
苔(こけ)のむすまで

和歌「きみがよ」は邪馬台国の事では無いかとこじ付けてみるw
http://blog.livedoor.jp/nanamihantaro/archives/cat_61720.html
君=大君=倭王
千代=現、北九州市の千代町
八千代=現、北九州市の八千代町
さざれ石=帝踏み石(記紀で景行が蹴った小さな石)
巌=岩石
苔=邪馬台国


踏み石とさざれ石を検索して直ぐヒットした事だが、 http://homepage3.nifty.com/tak-shonai/intelvt/intelvt_021.htmさざれ石は大きくなったのではないのか。

北九州市に帝踏み石は有るが、とても蹴れる大きさでは無い。
しかし、時間をかけて巨大化したか何か意味があるのではないか。 http://www.geocities.jp/kikunosato2005/sub80.html海岸線だったかもしれない事が可能性を高める。

壱与(ヤマト姫)の時代の倭王である「景行」は土蜘蛛(佐伯人・縄文人・蝦夷人)を討伐しますが、その際に石を蹴り占ったのです。
銅鐸については「神社の鈴の起源」だと思われる。

銅鐸は大きい物と小さい物の二種類あり、小さい方は古墳時代まで残り大きい方は使わなくなった。
大きいのは吊るして中から何かしらの棒で音を出し、小さいのは風鐸になっていたのではないか。
小さい方が気に入られた。
もはや日本全国規模で出土している以上、土偶と敵対していたとは言い切れない。

?大きい物と中ぐらいの物と小さい物があること
?絵がある物もあること
?多くは埋められ方が共通していること
?発見場所が共通していること
?壊されてる物もあること

一番古いのは九州で発見された弥生時代中期初頭の物であるが、もう少し古い可能性がある。

大きいのは元が朝鮮式で、小さいのは中国の銅鈴だろうか

家の呼び鈴だったのかもしれない。
銅鐸が宗教道具と言うのは有り得ない。
本州の縄文人は九州の縄文人とは違い、弥生時代になっても土偶を使い続けた。
九州北部の倭人は土偶を禁止して、銅鐸の倭人は禁止せずに縄文人と共存したとしか説明ができない。
縄文人は、巨石で村規模の祭りを、土偶で家庭規模の祭りをしたはずである。

[ 18 ]
ミュールン3 ♪S...
11/18 11:45
削除
17> CAESARさん
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/09/000594.html
騎馬民族説はまだ調べてませんが、神武に「天の子は幾多もおる。」という台詞があるので一応可能性はあると思われます。
「幾多もおる」が外国を示すかもしれません。


?4世紀あたりに満洲を起源とし渡来した騎馬民族がヤマト王権を造った。
?古代からの伝統的な王朝である様に見せるために記紀を創った。
?農耕民族は、自己の伝統的な文化に固執する性向が強く、急激に、他国あるいは他民族の文化を受け入れて自己の伝統的な文化の性格を変容させるような傾向は極めて少なく、馬具や馬型埴輪の急増は不自然。


?は可能性が薄いと思います。
?は日本を起源とする場合でも有る説ですが、創作物なら正当化したり良く見せようとするだろうが寧ろ悪く見せている部分が多々あること。崇神以前までは九州での事であり、崇神からは四道将軍により全国規模になった話と説明できるので、創作物として不可能に近いこと。
?は倭人も縄文人も半分程度の農耕文化であったこと。神功皇后はインドへ部下を遣わし仏教の影響を受けたこと。(稲荷神社の起源か?)スサノオは何種類もの木を韓国から持ち帰ったこと。西暦57年頃には既に中国と貿易をしており、銅鏡などの影響を受けたこと。
記紀にも中国の史書にも記されていないこと。
4世紀以降の言語は日本語であること。
そもそも、騎馬民族が韓国に国をなした証拠が薄いこと。
壱岐対馬にも島根にも痕跡が無いこと。


現実的には、天孫降臨とは天子降臨と同じだと思われます。
つまり、中国で言う所の皇帝の王位継承の儀式です。
こんな屑以下のコミュに書き込んでも意味ないですよ!(≧皿≦)
【参考サイト】
http://inoues.net/mystery/3kakubuchi.html
「三角縁神獣鏡」中立的です。
http://inoues.net/club/makimuku.html
「纒向遺跡」上のサイトと同じ同盟サイトのようです。
http://www.geocities.jp/oden1947/index.html
「ついに古代史2千年の謎が解けた」地名と地名の導きだし方は全面的に参考になります。

http://gejirin.com/index.html
「ほつまつたゑ解読ガイド」ホツマツタエやミカサフミやフトマニは全面的に参考になります。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/gengokenkyu/mojishico/kamiyomojico.htm#k


http://yamatai.cside.com/tousennsetu/tokusyuu.htm
「邪馬台国の会」中立的です。参考になります。

http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page014.html

http://www.eonet.ne.jp/~hondana/shohyou/yamazenbo.html
■著書名:【邪馬台国の全貌】
■ジャンル:古代
■著者名:橋本 彰

http://kamnavi.jp/index.htm
「神奈備にようこそ」

「恋姫無双の原作サイト」大分参考になります。

http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4027/historytop.html
「歴史のページ」



http://www.kek.jp/kids/
「キッズサイエンティスト」あまり参考にできませんでした。

http://www.highlight.jp/izumooyashiro/index.html
「出雲大社いずもおおやしろハイライトジャパン」

http://www.geocities.jp/mb1527/index.htm
「古代史の復元」

http://www2t.biglobe.ne.jp/~cherimo/history/index.html
「調月の歴史と和国の古代を」

http://kodaishi-21.web.infoseek.co.jp/
「邪馬台国発見!出雲に存在していた」

http://www.ten-f.com/index.html
「日本史探訪」


http://blog.livedoor.jp/nanamihantaro/archives/cat_61720.html



「幻の邪馬台国」

「坂田隆氏」
「澤田洋太郎氏」
「大杉氏」


http://nire.main.jp/rouman/sinwa/hitatihudoki.htm
「常陸風土記」常陸や吾妻は全面的に参考になります。


http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/index.html
「岩石祭祀学」縄文時代は全面的に参考になります。

http://syoki-kaimei.blog.so-net.ne.jp/
「日本書紀の解明・邪馬台国と大和王権」

http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-mokuzi.htm
「暗号」??

http://www.dai3gen.net/index_j.html
日本古代史とアイヌ語


http://www.systemicsarchive.com/ja/a/afterlife.html
システム論アーカイブ

http://jyashin.net/evilshrine/gods/tsuchigumo_shrine/tsuchigumo_index.html
土蜘蛛 佐伯 蝦夷 縄文 土偶は全面的に参考になります。

http://www.geocities.jp/kituno_i/
「きたの空」
http://www2.ocn.ne.jp/~syouji/kodaisi.htm
「古代史探訪」

http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/kodaiindex.html
「マニアが行く!映像の古代祭祀」


http://www.densetsu-tobira.com/
[伝説の扉]

http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10000285/0/index.html
[愛知県の銅鐸の話。]銅鐸は全面的にものすごく参考になります。

http://members3.jcom.home.ne.jp/wakokunosobo/hougen/7Days.html
「近畿説が不可能でなくなる」中立的?

http://www.geocities.jp/taru638/index.html
「異端の古代史」

http://wosi.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-52c2.html
「縄文文字復活!」ものすごく参考になります。

http://inoues.net/ruins/welcome2.html
「全国・遺跡案内」
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34349051.html
「邪馬台国総論」神功皇后の事と二倍年歴の事が参考になります。
・第6代孝安天皇。 オシヒト 天鈴291年(孝昭49年)生まれ。天鈴326年(35歳)即位。天鈴428年(137歳)崩御。
『後漢書東夷伝』「倭国王師升等」が後漢に生口百六十人を献じた」と伝えています。 この「國押人命」と同一人物と考えられます。 「倭国王師升等」を「倭、国王師飛等」(倭のくにおしひと、「升」を「飛」の略字とする)と音訓混じりで読むと、墓碑から得られた「國押人」と偶然とは言えない確かさで一致しているのです。
(コピペ)

第5代孝昭天皇。 オオヤマトヒコスキトモ(4代懿徳天皇)と内宮・アメトヨツ姫の子。 斎名:ミルヒト。
カタギワキカミのヰケココロ(葛城掖上池心宮)に遷都。 113歳で罷る。 崩御から33年後にようやくハカタの洞(掖上博多山)に葬られる(姫や臣たちが死ぬのを待って一緒に葬った)。 生き残った3人も追い罷る。
(コピペ)


・107年に中国に朝貢したのは考安である。
一致する部分が多い。
57年に光武帝から金印が送られたのは孝昭天皇である。
・金印が発見された糸島半島には孝昭天皇の墓が有ったのである。



(このことは、天鈴という暦を二倍年歴で読む事の正しさを裏付ける。)


必然的に、卑弥呼は二人居た説を高めます!
モモソ姫とトヨスキ姫の二代が、魏志には「卑弥呼」という一纏めになっていた可能性が高いのです。
言わば、壱与とは、ヤマト姫の「字」(一般人からの呼び名)か諱(本名)である可能性が高いのです。


萬子姫とクス子姫はわいせつな名前ではないのであるるぅ

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