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『天地人』をツッコミつつ愛す会コミュの2009年6月 「天地人を語る 直江兼続の義と愛」 講演会

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昨年6月、都内で行われた講演会です。
もう時効だろうと言うことで。

(放映中には怖くてUPできませんでした…あせあせ)

内容は・・・以下の通り。ちなみに、一時間です。
基本的に御本人が話したものを語尾など若干手直ししたのみです。
(↑これ私が言ってるんじゃないから!という言い訳です、ハイ)

話の内容よりも、筋金入りの上杉ファン、歴史好きであるはずの聴衆
(50〜70代がほとんど)の、時折の失笑気味な反応のほうが面白かった、なんて?!

ツッコミ侍としては、この講演の途中に何度も何度も
「いけない、ここで突っ込んではいけない…」
と、自制心フル稼働させておりました。


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作者略歴 火坂雅志
1956年生まれ 新潟県新潟市出身。新潟県立新潟高等学校を経て早稲田大学商学部卒業。『天地人』で中山義秀文学賞を受賞、2009年NHK大河ドラマ原作となった。
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今日はたくさんの方々にお越しいただきありがとうございます。今年の大河ドラマで地元のほうも盛り上がっているらしいですが、私は新潟市出身ですが、上越市が好きで、自分の故郷・新潟県が好きです。ですから、大河ドラマの原作として自分の本が検討されたときに、他に藤堂高虎を描いた作品などもあって、候補にはなりました。しかし、最終的に「天地人」で、と。これでよかったです…でないと地元に帰れませんから。(笑)

ドラマが始まる前に、NHKの内藤プロデューサー、脚本家の小松恵里子さんとお会いしました。どんなドラマにしたいか、という話の中で、私は原作に自分の書きたいことはすべて込めたので、あとは好きにしてください、どうしてもらっても構いません、と申し上げました。どれだけ面白くしてもらってもいい、と。
ただ、一つだけこだわっていることがあって、それだけお願いしてきました。それは「雪国の心」を必ずドラマで表現してほしい、ということでした。うるさくない原作者からたったひとつと言われてNHKも考えてくれたのでしょうか、プロデューサーも悩んだのでしょうか、雪国の心とは何か?と。
私が思うに、雪国の心とは、困難にあったときはそれに耐え、じっと力を蓄え、そして雪が消えて春になったら花を咲かせる力です。この寒い土地、越後で育った越後人の心というものが、ドラマ全体様々に表現されていると思います。代表的なのは菊姫が兼続に雪国のこころを象徴するかのような雪割草を見せられて、閉ざした心を開いていったエピソードですね。
ほかにも、上田庄の水田の風景や、山々といった自然の美しさが、際立っているドラマだと思います。私もテレビを通じて自分のふるさとの美しさを再発見した気がします。景色の美しさだけでなく、そこに生きる人たちの情誼、信義の篤さ、そしてそれを描いてくださっている脚本家、プロデューサー、製作者の方々、そして登場人物を魅力的に演じてくださる役者の皆様に、感謝の心でいっぱいです。

役者さんたちは、その役を演じるにあたって、演じ、考えて、キャラクターを作っていかれています。その姿に、感謝しています。主人公の直江兼続と、主君の上杉景勝、この二人が一年間通じて主要な役回りになります。寡黙な主と利発な家臣、二人のキャラクターの対比もあります。どんなふうに役作りを始めて行ったのか、お聞きしたことがありますが、北村一輝さんと、妻夫木聡さんは、まず二人で酒を飲むところから始めたそうです。越後は酒どころ、ちなみに作者も酒が好きですので、作中には酒を飲むシーンがたくさん出てきます。酒どころだからでしょうか?上杉謙信公も酒好きです。大酒飲みだったそうです。そして、上杉の家中において、家臣への最大の褒美は、なんと謙信からの「あるじの手酌」で酒を飲むことを許される、だったといいます。
北村さんも妻夫木さんも、二人で酒を酌み交わしながら、役作りをしていかれた、それを聞いて「間違いない!」と。越後の文化をよく理解してくださっているな、とうれしく思いました。

「天地人」は幼い樋口与六から家老直江兼続へ、彼の成長がドラマの中軸となっています。最初のシーンは子役時代から始まりましたね。私も見ましたが、あの与六役の加藤清史郎君はもう・・・名子役ですね!幼い彼が父母と別れたくない、というシーンでは全国が涙したのではないでしょうか。自分も、見て泣けてしまいました。そして面白かったのが、妻夫木さんもテレビで彼の演技を見て、泣いてしまったそうです。そして「自分よりも上手いじゃないか」と驚かれたとも。(笑)
そして雲洞庵での日々と、高僧・北高全祝との出会いがありました。ちなみに、謙信の有名なエピソードの一つに、武田への塩送りがありますが、これを助言したのが実は北高全祝といわれています。信玄側もこの経緯は知っていたようで、全祝に感謝しています。そして後に佐久領内に寺を建てて招き、返礼としました。 

さて、林泉寺の山門には「第一義」という額が掲げられています。実は、今日お越しになっていらっしゃる皆様の母校、高田高校の体育館にも「第一義」が掲げられていると聞きました。それで読者の方から、よく「うちの高校の体育館にあった“第一義”の意味は何ですか?」と聞かれました。
これは、もともと仏教用語です。ですから寺ではほかにも見ることができます。たとえば、京都にある黄檗宗大本山の万福寺の山門にも「第一義」があります。「天地人」を執筆するときに、取材に伺って、林泉寺の和尚さんにお話しをお聞きしましたが、その時に難しい話をたくさん聞きまして、さらに「禅が分からずして上杉の話は書けない」とまで言われてしまいました。(笑)
私は仏教家でないので、詳しくは説明できませんが、もともと(中国の梁の)武帝と(禅宗開祖)達磨大師の話に出てくるものです。要は「とんでもなくすごいもの」が「第一義」であると。究極の真理をさす言葉です。

上杉謙信の掲げた「第一義」とは、よく言われる「義将」「義の人」という側面から、この真義の義と間違われることが多いです。戦国の乱世に成功したといわれる人物は「梟雄」と呼ばれる種類の人間が多かった。謙信はそこに疑問を持ったのです。乱れた世であっても、生きることとは何か、私利私欲ではなく、公のために何をなすか、それを念頭に置き行動した、当時としては珍しい武将です。「究極の真義」を追及すること、が「第一義」なのです。

もうひとつ彼のやったことがあります。上杉謙信というと、毘沙門堂にこもって何日も祈っていたり、そうかと思うと「お告げだ」と出てきて、あっという間に軍勢を率いて出陣して信じられないような勝利を挙げてしまったり、まさに「神がかり的な」イメージを持っている方が多いですね。しかし、これはあくまでも一面にすぎません。神がかりなのはともかく、彼はリアリストでもありました。それがよくわかるのが、経済政策の実施です。新田開発、金山、銀山の開発、越後上布という特産品の生産・・・麻の布なんて、品質が悪ければどうということはないのですが、越後上布の原料の「青苧(あおそ=カラムシ)」の繊維が上質のものとして、都でも好評を博したのです。これによって謙信は莫大な財力を持つに至ります。研究者の間でも、上杉謙信は数多い戦国大名の中でも最大の経済力を持っていた、と見るのが通説です。しかも、当時の交易・流通ルートの中心は日本海です。松前、越後、舞鶴、京といったルートで船の陸上輸送の1000倍ともいわれる輸送力を生かし、越後に経済大国を作り上げました。そうして「経済」と「義」の両立を図ったのです。いくら第一義といっても、食えなければ兵や領民はついてきませんからね。
そうした謙信の一番弟子と呼ばれたのが、直江兼続です。彼は「謙信学校」ともいえる中の一番弟子であったのですから「利・義の両面」を謙信からしっかりと学んだであろうことは容易に想像できます。

さて、上杉謙信はある日突然倒れ、そのまま意識を取り戻すことなく49歳で亡くなります。寒い冬の日の、厠での出来事だったといいます。大酒飲みでしたからね、健康面に問題があったのでしょう。そして一番の問題が「跡取りが決まっていなかった」ことです。当時兼続はまだ19歳、景勝も5つ年上の24歳でありましたが、生き残りをかけて競争相手として北条から同じく養子に入った三郎景虎を倒すことに全力を挙げます。それゆえの混乱(御館の乱)で、国中が疲弊していきます。内戦に勝利したとはいえ、この時期の上杉は越後以外の領土のほとんどを維持することができず、失います。それと同時に織田が台頭してきます。

織田信長は、戦に強いというこれまたイメージがありますが、実はさほど戦そのものには強くなかったと言われています。むしろ、謙信、信玄のほうが何倍も戦上手です。この二人が生きていたとき、直接対決で一度も信長は勝利していません。武田信玄の上洛の折には、三方が原で先峰の徳川家康がさんざんにやられています。余談ですが、このときの敗戦を絵に描かせて、後々まで戒めとしたという家康は、苦境から学んでいったタイプでしょうね。そして、信長は信玄、謙信のふたりが死ぬ事で危機を脱します。長篠で武田軍を打ち破り、ついに滅ぼした信長は、上杉も攻めます。三方から囲まれて絶体絶命になった上杉は、富山の魚津城が寡兵ながら予想外に持ちこたえたことと、本能寺の変によって信長が急死することで助かったようなものでした。
そしてその後の越後を、若い景勝・兼続の主従が支えていきます。

ところで、直江兼続の兜の前立「愛」の由来については、二つの説があるのは皆様ご存じでしょうか。まず挙げられるのは、戦神である「愛宕権現」「愛染明王」の一字をとったというものです。主君の謙信が「毘沙門天」から「毘」としたのに倣ったともいわれます。前立に神仏を祭るのは当時の風習からいっても合理的です。それで、この説は研究者の中では、特に若い人が多いですが、主流となっているようです。
もう一つの説は主に米沢のほうで長く語られてきたものによります。曰く「愛」は「民百姓を愛する=愛民」の「愛」だというのです。なんだか、これだけ聞くと近代民主主義のような、時代的にそぐわない感じはします。

私自身はかつて軍神説をとっていました。しかし、新潟日報に「天地人」を連載することになった時に、いろいろな方に取材をしたり、お会いして話をしたりしました。そんな中で、新潟日報の学芸部長の方に「どっちの説ですか」聞かれたんです。
対照的なふたつのうち、どちらをとるかで主人公のキャラクターは全く異なってきます。いろいろ考えました。そして、ついにわかりませんでした。当然ですね、私が考えて結論付けられるものでしたら、これまででとうに解明されていることでしょうから。(笑)
そして、いまだに二説ある、ということは、そのどちらもがもう一方を駆逐できるには至っていない状態である、と思うようになりました。

そうしているうちに連載が始まってしまい。書きつつ調べていくうちに、資料の中に「愛」の字を発見したのです。それは「北越軍談 謙信公語累」といいます。語累というのは謙信の言葉を集めたものというような意味、要するに語録です。
この語録に最初に出てくるのが「天・地・人」=天の時、地の利、人の和、です。これを謙信は武将、または君主としての理想像だと言っています。そして、これまでにこの3つを兼ね備えた人物はおらず、この後にも現れることはないであろう、とまで言っています。しかしながら、実現性は薄くとも突き詰めていけば理想の世になるだろうとしています。
そして、4番目に出てくるのが「愛」です。謙信曰く、大将は戦に強くなければならない。しかしそれだけでは真の大将ではなく「仁、義、礼、智、信」を持って自分を律していくことが必要、と言っています。

「仁」とは、弱い立場の者への思い、情、これは上に立つ者の心構えとしています。
「義」は、信義の義、私利私欲のためでなく、公のために行動するということ。
「礼」は、礼節。上に立つ者ほど直言を受けにくいこともあるので、まず自ら礼を知ること。
「智」は、智恵の智。困難に対し智恵をもってこれを払うとあります。
「信」は、人を信じる心です。人を信じなければ相互不信となります。

これを、五常といい儒教にあります。(注4)慈愛をもって衆人を慈しむこと、民を憐れまなければならない。これができてこそのリーダーである、と説いています。私は、これが米沢に伝わる「愛民」ではないかと思いました。それで、執筆を進める上で「前立=愛民説」を取るようになり、兼続の人物像のもとになっていきました。

「愛」については、その後の考察があります。長野県佐久市の近代美術館に所蔵されているものです。なぜ、佐久にあるのかということからお話ししますと、実は越後から米沢に上杉が遷った時に、先祖代々の重宝ももちろん移動していきました。ですから越後には今上杉ゆかりのものはほとんど残っていませんが、維新後、零落した大名家、武士階級からさまざまな貴重なものが売り払われて世に出ました。これらを、長野県中野市の篤志家が収集して、個人で保存、展示していました。この方が亡くなって、品物は佐久の美術館に寄贈されましたが、なにせ近代美術館なので、展示をしておくことができない、それで、今も倉庫に保管されているということです。こういう品々をぜひ新潟県が買い戻してほしいんですが、皆様、どうでしょうね?(笑)

ここの収蔵品の中には、上杉景勝の甲冑、上杉謙信の大馬印などがあります。また軍旗は三流れありまして、紺地日の丸の天賜の旗、「刀八毘沙門」の旗、それから、ちょうど会場内にあるような幟の大きさで、白絹地に一字「愛」と書いたものがあります。これは愛宕権現か、愛染明王を意味するものか、それにしてもなぜ一文字なのか?と考えました。毘沙門天から「毘」であれば、同じように表記が「刀八毘沙門」ではなく「毘」でいいと思うのです。そうではないとすれば、やはりこれは「愛」なのだと。確かなのは上杉の軍旗に「愛」の一字があったということです。

新渡戸稲造の「武士道」の中に出てくる「武士道を支えるもの」で最初に「義の心」が挙げられています。これは謙信のいう「義」と同じ意味です。武士道そのものは江戸時代に大成されたもので、それを明治になってから新渡戸が書き表し、日本だけでなく世界で読まれたものです。それを考えると、武士道精神の先駆けとしての謙信公、品格ある生き方を模索していた姿は、確かに時代からすると、異端であり先端であったのでしょう。
新渡戸は次に「仁」を挙げています。これは義よりも上にあるとしています。義と仁ができて、初めて立派な武士である、と。ちなみに「義」を2文字にすると「義理」・・・今日的な意味ではなく「ぎのことわり」です。そして「仁」は「仁愛」となります。大学で漢文を専門に研究されている教授にお伺いしたところ、漢語的な意味で「仁愛」は「同異義語」を二つ並べた熟語であり、それゆえこの二つはほぼ同じ意味であるということでした。「愛」の本来的な意味は「思いやり、情」です。そういう意味において、兼続の前立は「仁」の一字でもよかったのかもしれません。新渡戸稲造の「仁愛」は、直江兼続の「愛民」であったと思います。

さてここで、兼続の学識の深さにも少し考えを及ぼしたいと思います。兼続は、当時最高の学者であった藤原惺窩と友人でありました。のちに徳川幕府に仕える林羅山は、惺窩の弟子です。その惺窩ですが、同時代の武将を評して、「学のできるのは五名のみである」と言っています。そのうちの二人が上杉謙信と直江兼続、このことから、越後は相当に文化的レベルが高かったといえます。実は「天地人」を書くうちに、上杉のレベルの高さに気がつきました。
当時戦乱で京都は荒れはてており、戦を避けて多くの公家が地方に下向します。そうした公家を迎えた地方大名のもとには、平和と経済力がありました。それらに支えられ、文化レベルが上がっていったのです。しかも、当時日本海側の交通、文化の中心は今の上越市でした。戦国時代は地方主権の時代であった、そう考えないと、この時代を正しく理解することはできないと思います。

景勝、兼続主従にとっての最大のピンチが訪れた時は、関ヶ原の合戦において、西軍に味方したことでしょう。有名な直江状のエピソードもこのときのものです。ご存じのように上杉家は戦後、会津120万石から米沢30万石、1/4に減封されました。ここで減封→家臣団のリストラをしなかったのが兼続です。まず、家臣の禄高を再計算し、総合計では1/4のところを、会津時代の1/3としました。これだけでも、まだマシだという少し上向きな気持ちになりますね。そして、改革策を次々に打ち出します。新田開発、金銀山開発、殖産興業、青苧栽培の奨励、まさに彼は謙信から学んだこと、越後でやっていたことをそのまま米沢で実践していきました。その結果、米沢藩の石高は、公称30万石でありながら実質は51万石程度、そこに経済活動で得た利益も併せて、70万石程度の力にしたといわれています。
私は、家康に対して真向から喧嘩を売るような直江状を書く兼続も好きです。しかし、米沢で言い伝えられているもう一つの彼の姿「検地をする時、指図をする時は自ら土を手に取り、土の味を舌で確かめながらであった」という、土の味を見ながら経済活動を立て直していった姿に、越後人の粘り強さを見る気がします。

さて、時間もそろそろ無くなってきました。最後に大河ドラマについてですが、巨匠、物故作家の作品が原作となることが多い中、まだまだ50代で現役の作家の作品が選ばれたことは大変珍しいことと思います。だから、大河の作者が来て話をするなんて、亡くなった方じゃできませんから、これまた珍しいということです。(笑)
私は、なぜ今天地人なのか、ということは、これが「越後人の精神の物語」だからこそ、そしてその心が現代にかけているものと思われたからであるからこそ、と思っています。天の声とも思いました。そして、もちろん地元の皆様の10年以上にわたる長い大河ドラマ実現運動の賜物であるのは言うまでもありません。時代が上杉精神を見なおしつつあるのだと思います。

今日は、謙信と兼続の義と愛について語らせていただきましたが、本当はもっとたくさんお話ししたいこともありました。
そして、景勝・兼続主従の今後はどうなっていくのか、もしご興味をもたれた方は、ぜひ原作を手に取っていただきたいと思います。(笑)
文字が小さくて読むのは大変、という向きもありましたら、それは日曜夜8時からのテレビをぜひご覧ください。(笑)

ご清聴ありがとうございました。

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