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ジャック・デリダコミュの「完全なる他者」の肯定について

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 こんな畏れ多いコミュにトピを立てるなぞ、まだ「紹介本」を2冊くらいしか読
んでいない自分には僭越至極なのですが、いささか喫緊の話柄なので是非ご容赦あ
れかし。

 先週、喜寿の父が突然「ぼけ老人」になってしまい、物凄く激しい譫妄で、とも
かく会話の内容がデタラメのうえ「破綻した言葉」の弾丸が止まらない。崩壊した
言語の無限弾倉になってしまっている。
 彼がまだ「ロゴス」の裡にいるのか、遠ざかっているのか、消尽しながら激しく
周回しているのか、「外」に在るものなのか、辺縁へ逃れ去ろうとしているものな
のか、全く判りません。彼の、支離滅裂ではあるが、それでも無際限に発射される
「コトバ」は、ラカン的に「読む」べき/「読み」得るものなのか。彼の混乱と興
奮と不安と狂気の裡に転移することで、その欲望を――他者の欲望を欲望すること
で、解しうるものなのでしょうか。いや、今は「解読(復号)する」必要はないかも
知れません。しかし私の、すなわち「一般の」理性(ロゴス)では全く捉え切れない
ものを、どうやって「迎える(歓待する)」のか、平たく言えば、言わば「ロゴスの
彼岸」に在るものと如何につき合っていけばよいのか、まるで解らないのです。
 もし「ロゴスの『外側』」に在るものが在るとしたら、それは「完全なる他者」
ではありませんか。他者としての他者との関係(不可能性)、他者の問いかけに対す
る「応答」こそが脱構築なのでしょう。しかしこれこそまさに「不可能性の可能
性(不可能性への飽くなき-果敢な-ドン・キホーテ的な挑戦)」なのです。

 「他者」の射程とはどのくらいのものなのか、そもそも「他者」は測りうるもの
なのか、そんなところからして理解していない門外漢なのですが、私自身、精神科
に通うものとして、今回の「椿事」を経験して深く-重く受け止めているのは、「脳
の器質的疾患」にしろ、「重篤な精神病」にしろ、不可避的に理性崩壊を迎え、
「健常」性なるものへの完全なる再帰が不能であるもの。発作的な興奮や重篤な異
常性の対処的な緩和、乃至は薬物による不可逆的な進行の遅延しかないもの。そう
いった極日常的に現前する平凡事の裡にも、「完全なる他者」との突然の出会いは
あって、そのとき一茎の「もの思う葦」は、己の全存在を賭けて賽を擲たなければ
ならない。いざそのときになって、「これまで読んできたものはただの紙切れ(本)
でしたよ、これまで思索してきたところはただの絵空事でしたよ」では、「他者」
どころか、己自身に見せる顔がないと思っているんです。真に試されているんだと
思います、「現実」という例のアイツに。

 深夜に救急車で精神病院に運びこんだ父は、隔離病棟の「マットレス1枚」の個
室に監禁されています。「拘束衣」こそ着せられておりませんが、あの姿を視ると、
狂気の隔離と観察というフーコーの「権力装置」の概念が逆転し、言わば「暴力に
対抗するための暴力」によって、「守られている」――それは勿論私の視点からで
すが。彼の側からしてみれば、許しがたい、そして信じがたい(「信じる」という営
為がまだ機能しているとして)「剥き出しの暴力」なのですけれども。
 永年「アルコール依存症者」として「飲んでは暴れる」をくり返し、昨年四十有
余年ぶりに「断酒」した父。「アルコール問題」専門の精神科で抗酒剤と安定剤と
導入剤をもらって、断酒会にも加わって1年余。やや鬱気味で内向的な日常を、も
と「イネイブラー(介助者)」でやはり不安定な心理状態の母と二人、老老二人三脚
の「一卵性双生児」でひきこもって、それはそれなりに永年「夢みた」共依存の完
成形だったはずなのですが、何が狂ったのか、何が引き金になったのか、突然「ロ
ゴスの彼岸(あるいは「炸裂するロゴス」)」へ向かって行ってしまった。これまで
は「暴君」であったヒトが、ムスコに羽交い締めにされて救急車に担ぎ込まれなが
ら、「暴力! 暴力! ケーサツ! 警察呼んで下さい!!」と叫んでいる。
 ここまで読んでいただいて、既にご推察のことと思いますが、「嗜癖家族(機能不
全家族)」の中で四十余年も苦しんできた私は、ACoA(ACoD)でもあり、今から考
えると、そもそも何十年も昔から、「家族の中に他人を見る」すなわち「己自身の
裡に他人を見る」という、他者(原-暴力)と自己とが何重にも「入れ子」になった心
理的生活を送ってきました。ACや断酒会などの「自助グループ」では、過去の出来
事やそのとき感じた気持ちなどを「分かち合う」と同時に、「特殊な方法で相手を
理解」し許すということ、そして最終的には「これまで迷惑をかけてきた人たち全
員に、(精神的なことでも)可能な限り償いをする」ということが課せられ-与えられ
-問い返されます。
 「全員に」「可能な限り」「償う」という、一見荒誕な理想論と思える「説」が
上位に位置していることは、単なる宗教的な献身でも「言葉の戯れ」でもないと、
自分自身が参加した経験から言うことができます。この「不可能性」あればこそ、
最早背け得ない「己との対決」に向かいもし、デタラメな人生という「経験」の読
み直し(デコード)と今後の正常な「再生(リプレイ)」が可能ともなりえるのです。
(1) 捉え切れないが現実に存在する被害者「全員の存在」と、(2) 計量的に示し得
ない「可能性」の限界へのアプローチという不可能性、そして(3) 具体性や必要性、
相手の要求・感情・状態などの人間性/関係性を生起し調整するあらゆるファクタ
ーを度外視した上での「償われるべき何か」の模索。3つの「(実践)不可能性」に
挑む=現実化する(行動する)ことが、償い得ない(あるいは「取り戻し得ない」)時
間を「弁済」する唯一の妥協点=「仮説」なのだと、参加しながら感じました(今
はグールプには行っていませんが)。

 このように基本的には「他者理解」から取り戻すしかない、依存症によるクライ
シスという「現状把握」とそこからの「恢復」を、彼はまだほとんど何も達成する
ことのないまま、自我の裡に没し去ろう(あるいは「没我の裡に逃れ去ろう」)とし
ています。それは彼の望んだことかも知れないし、取捨選択の余地のない「防衛」
のための道だったのかも知れない。だから彼の意志はそれはそのままとし、前後際
断して私にとっての「完全なる他者の肯定(歓迎)」を、まさに「火宅」から逃れ出
るかのように模索しているところなのです。
 「父憎し」と、これまでさんざん四十余年間ムスコらに悪口を聞かせ、「あんな
キチガイと一緒にいるのは、おまえたちが小さいからよ」と言っていた母も、自動
自律する機械人形のように父と「同期」し、「かわいそうだから退院させたい」と
零す始末。嗚呼、癒しがたい共依存。このままではいきなり「両親介護」かと気が
気でなりません。「介護」の話は哲学とはまた別の位相の現実問題で、その「問題」
が「現実」であるうちは、まだ手の打ちようがある(「社会資源」の活用など)んで
す。しかし「譫妄(狂気/理性喪失)」のような、「問題」の所在が奈辺にあるか判然
としない「難題」を、「アンチノミー」と訳してしまっていいのでしょうか。
「家に迎え入れるか」「山に捨てに行くか」――私は今まさにここで大きな、そし
て避けることのできない「問い」を突きつけられているような気がしてなりません。

 長々と余計なことを書き綴りました。内容も支離滅裂です。既に一部「転移」し
ているのかも知れません。そんなことではダメなんですが。
 ともかく日常と直結した非日常性の中に、「他者」と向い合わねばならなくなっ
たものの、ため息まじりの問いかけとして、このトピックを立てたいと思います。
 多くの方からの忌憚ない「応答」をいただけたら幸いです。

コメント(1)

まずは山に登ってゆっくりあたりを見回してみてはいかがでしょうか。

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